死にたい
そんな言葉すらだんだんと語ることも許されなくなっていくんだろう。
そのうちどんどん生きるうえでのしがらみが増えていくんだろう。
そのしがらみが生きる糧になることもあるだろうし、かえって、生きる力を奪うものにもなり得るのかもしれない
そう考えると、もう、生きていくことがとてつもなく面倒臭いことに感じられる。
慈悲も救いもない世界観に自分が突き落とされていく。
それは単に見方の問題なのかもしれない。だけど、ああ、そんな見方を一度でもしてしまった自分は、もうそれ以前には二度と戻れないんだろうなと思う。
簡単に人間の幸福は毀損される
その事実を知っているか否か。
でも果たして、どちらの方が本質的に賢いのか、幸福なのか、より良いのか。
ただひとついえることは、今更そんな事実を知ったところで、自分に何か対処できるような能力があるようには全然思えなかったってことで。
今の私は幸せかもね。
だけどそれは、薄氷の上に成り立っているものだね。
だからなんだって話だけど、いつ割れるかもわからないものに気を遣って生きていけるほど私という生き物はうまくできていないよって、思う。
いつ不幸になったっていいって思っているしか結局マトモに生きてけなくて、だけど、そんな人生楽しいのだろうか。いや、楽しいでしょうね、今までだってそうやって生きてきた
だけど社会というものの輪郭がぼんやりと見えるようになってきた今になって、ああ、私って結局社会の歯車から弾き出される「かもしれない」側の人間で
良くも悪くも盤石な人たちとは似ても似つかない、貧相な成り立ちなんだなって。自分の人生とか家族に対して失礼すぎるかもしれないけど、そう思った。
そしたらなんか、投げやりな人生観から生まれる幸福も所詮はまがいものというか、馬鹿みたいだし滑稽としか思えないなって。
ウケる。道踏み外しちゃったな。
誓って後悔は全くしていないけれど、それでも、発狂しかけて受験勉強が一切手につかなくなったあのとき、発狂してでももっと頑張るべきだったかもな、なんて。そしたらもうちょっと、こんな気持ちも薄れたかもしれない。
志望大学変えまくった末高3の秋に無理やりに文転して結局ギリ上位の私文に入れはしたけどこんな風に不安とかその他なんやらで燻ってる、なんて全然、高校入学したときのあたしは想像もしてなかったな。
いや、あの頃に比べれば今は全然状況はマシだな、そういえば。まだ将来とかのことを考えられるほどには回復していないだけで。
全然勉強の内容頭に入ってこなかったのにそのくらいは合格できたなんて私の地頭良すぎ! 浪人しても受かんない奴がいるのに! とか、カスみたいな脳内マウンティングで自我を保っていた春頃が懐かしいな。
ゴミゴミゴミ。
本当に、思い出しても仕方ないことばっかり思い出すな私って。
今更どうしようもないことばっか。
でも、不思議だけど、全く自分について後悔したことはあまりない。後悔はしてもしょうがないと思ってる、なのにどうして私の頭はこの意味もない反芻をやめないのか。
ペラペラとしょうもないことを書き連ねていくたびにわたしという人物像そのものがその記述に縛られてどんどんしょうもなくなっていく心地がする。
いや、もともとカスみたいだった人間性の露呈が進んで行っているだけか。
どっちにしても、つまりは個人的にも、社会的にも、そういうしょうもないことを重ねることなんて許されはしないということだ。
幸せになりたいなら、社会でうまくやっていきたいなら黙って笑え、無理にでも笑え、そのうち体に心がついてくる、弱みは晒すな、ただ機能的に生き残ることを考えろ、それが巡り巡って一番お前のためにもなるんだよ
本当に、あまりに残酷で、あまりに美しい、あまりに正しい、あまりに優しいルールだと私は思う。真理だ。
はやくその真理に殺されたいと思う。黙殺適応でも処刑でも応報でも、どんな意味だっていいから。
それと同時に私がそういう真理から「自由でもいたい」とも思うのは、そしてこうやっていつまでもくだんない文章を書くことをやめやられないのは、結局、人間という動物としての最大限の甘えであり、怠慢なんだろうなと思う。
動物として私は多分不出来だ。それが思春期由来の不具合なのか、生まれ勝手なものなのか、単に幼稚さからくるものなのかは、分からないけど。
だから死にたい。
そういいつつも、結局ほそぼそと生きていける道を見つけて生きていくんだろうな。道が完全に途絶えてしまうその時まで。私ってそういうしぶとい奴だもん。ゴキブリみたいで、ウケるね。
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