思ったより自分というのは周りの人間とうまくやれないことについてトラウマを抱えていたんだと思う。
頻繁に嫌な記憶がフラッシュバックする。しかしそれをフラッシュバックとして完全に認めたのは最近のことだ。なんでって、なんとなく。
「失敗した」と思ったとき、この記憶が何かしらのイメージをどこかから引き出してきて、それは私の頭の中を暴れはじめ、めちゃくちゃに場を荒らしていく。
叫びたくなる。人前ですら死んだ方がいいと小さく呟いしまう。頭を覆って振りかぶりたくなるような、その場に蹲りたくなるような、意味のない言葉で心の中の余白を埋め尽くしたくなるような、そんな些細な衝動が、一日に何度もやってくる。
周りの人間とうまくやれないというのは今ではあまり表面的な問題として捉えていないけれど、しかしそれは私の半生においてはとても重要なテーマで
そもそも家の中でうまくやれなかったし、保育園のころからうまくやれなかった、小学校でもうまくやれなくて、中学校でもうまくやれなかった。高校でもそうだった。そしてうまくやれないと、ひどい孤立の感情や恥辱を味わった。
私はいちいち、それに絶望した。
何か悪意を働いたわけでもないし、自分としては自己中心的だったわけでもないのに
「自分には意味のわからない原理が私をこの世界の暗がりへ押し除けようとしている」こと、それが怖かった。
怖くて恐ろしくて、悲しくて苦しくて、辛くて、仕方なかった。
どうしてこんなことになるのか、まるでわからなかった。身に覚えのない他人からの悪意がただ怖かった。
多分自分が悪いんだ(それは、自分が誰かのお眼鏡に適うことがなかったという意味で)ということだけはわかった。けど何がいけないのかは、幼い頃の自分にはまるでわからなかった。
けど私には自分を省みようとする意思だけはあった。
何がいけなかったのかを執拗に分析しようとするそれは私を表面的な孤独から救い出し、人との付き合い方を上達させ、そして、今なお続くフラッシュバックや強迫観念の元凶となった。
私が過去に嫌な思いをしたことについて「それくらいのこと、そんな昔のこと……そんなこともう気にするな!」という人もいたかもしれない。それは、そうかもしれない。
だけど私にとって問題なのはもはや認知の問題ではなく、蘇ってくるイメージの問題だった。
受けた暴言や侮辱、悪意、無関心の集合体から抽出されたなにかしらのイメージがが、今なお私の頭の中を巣食っている。
その集合体の素材としては、たとえば誰が発した言葉が1番多いのだろう。姉? 親? 同級生? 先生? 友達? 自分? わかんない。
打ち解けてないと感じる人間と関わる可能性のある場が結構な確率で怖くて、あるいは億劫で逃げたくなる。
些細な間違いの可能性に脳が過剰反応して、勝手に苦しくなって疲れてしまうから。
人の目が怖い。
私の一挙手一投足を全て見ていて、好きあらば好き放題に評価して嘲笑してくるものに思えてしまうから。
そうじゃないんだよね。
わかってる。
そういう感情が出てきたとき、まるで瞬きがカメラのシャッターを下ろす合図であるみたいに、現実にあるものとの焦点を合わせて、その光や形を観察し、目に焼き付ける。
そうすると落ち着くから。
大丈夫、私の存在は今この瞬間には揺らぐことなんかないと、もうそんなことは起こり得ないと
そんな教科書的な声かけを自分にしてるわけじゃないけれど
なんていうか、現実の光景というキラキラとしたガラスの破片で、妄想を切り裂くみたいな、そんなイメージ。
それはグラウンディングとよばれるものの一種なのだろうけど、一般的な深呼吸とか、周囲のものを散漫に見渡すとかは、なんかやってると異常にイライラするというか、怒りの感情が募りすぎて気持ち悪くなってくるからやらない。いや、気持ち悪いからイライラするのか?
私が私であることをまったくもって理解しないまま、そうでなくなってしまうことが嫌だから、そういう存在や行為、発言が、いやでたまらないから。
私にとってトラウマ的な反応はそれも生きた証の一部で、なのに「おちつけよ笑」みたいな感じで矯正されそうになることが我慢ならない。
「誰のせいでこんなことになってると思ってんだよ。そもそも、この世界が悪いんだろうが……」
っていう気持ちになって、身体中、虚脱感で満たされてしまう。
我ながら、難儀な性質を抱えたものだなと思う。
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
すごくやさしい言葉をかけてあげてほしいです