LINEスタンプ 宛メとは?
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烏羽 さんの小瓶箱
烏羽
少し頭のネジが外れていますが、私は元気です。
Vtuberはいいぞ…

名前は、解る人に解ればいいという気持ち等から。
伝える事をはなっから諦めてるという意味ではないのであしからず。
固定された小瓶
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烏羽
小瓶主さんからのお返事どうも。

「僕なんかに」とは言うが、俺が使いたくて使ってる時間だから気にする事もないよ。

それ所か、あんなクソ長い文を態々読んでくれる、なみだうさぎさんにこそ感謝だわ。

理解に関しては、なみだうさぎさん側に不得手な所があるというより、俺自身上手く伝えられない事が多いんで、俺の表現が下手な気はしている。
(申し訳ない)

まあ、先生も授業内容やら課題内容やら採点やら、忙しいからね。
時間に余裕のない時、手一杯な時は何も言われないなんて事はあるし、普通に忘れてたりなんて事もあるだろう。

俺もその都度怒られたとは言ったが、担任による所もあるから、人が変われば諦められたような事もあったしなあ。

解釈は大体そんな感じかな。多分合ってる。
若干、俺が早とちりして書いた感はあるが、平均点というのは一つの例だと思ってくれればいいかね。
(勉強に関して安心した)

一人一人違う感覚を持っている事が、それぞれにとって普通の、当たり前の状態だし…

そうだな、その違った感覚から出る、一人一人の当人が思い描く「平均」だとか、「一般的」だとかも、当然それぞれ、様々だという感じか。

その、「一人一人が異なる当たり前を持っている」という事が、それぞれの「普通」という感覚の中身になっている。

どのような程度の違いか、というのはあるだろうが、宛メを見渡す限りでも、生きていて「死にたい」と思う人って、意外と多いんじゃないか?

それを表に…、誰かに出したいか、出したくないか…、言いたいか、言いたくないか、そういったものはあるのだと思うがね。

平均点はあくまでも数字で、実際に存在している大多数とは限らない。

それと同じように、自分自身、一人一人が周りを見て思い描く「普通」は、本当にそうなのかも解らない。

同じ「5×2」という式を見たって、「九九では10だ」とすぐ答える人もいれば、「5が2つで10だ」と思う人、「2が5個…、合わせると幾つだ?」と考える人、それぞれ違うかもしれない。

今使っている「言葉」にしたってそうで、ある程度共通の認識として重なる部分はあれど、どんなニュアンスを持って使っているのかそれぞれ違うだろうし、どのように読み取るのかも異なる。

俺は、周りがどう思おうと、少数派が異常だなんて事は思わないし、大多数派が正常なんて事も思わない。

「正常=そうでなくてはならない」だとも思わん。

大多数が正常で、少数が異常と言うのなら、今までの歴史は何だったんだとも思うしな。

人間、そうキッパリと分けられるよう、簡単には出来ていないと思う。
大多数にも少数にも入るという事なんてザラだ。犬派猫派、きのこたけのこ派、どっちも好きだという人はいるだろう。
どちらか聞かれたから「どちらかというと」、という人も多いだろう。

俺自身、真面目な部分もあれば、また別の所で不真面目な部分もある。

今の状態…というか、このお返事を書いて、なみだうさぎさんが当初思い描いた状態…
それを、変えたいというのならそれで良いんだと思う。

だけど、自分がダメだと責めて、辛くなって、死にたくなって…、それで動けなくなってしまえば、目標も何もないからな。

行動が積み重なる事で、自分にとっての、普通という感覚は出来上がっていくのかもしれん。

…小瓶は読んだが、サボり休みで、それに罪悪感やら嫌悪感、不安なのか、戸惑う感情が出るのも仕方ないと思うぞ。
それこそ普通というかな。少なくとも、俺にとってはそうだ。

じゃ、また気が向いた時にでも。
・・・小瓶を見る
烏羽
(長くなりますので、もし読まれる際は、お時間の許す時に目を通して頂ければ幸いです)

まあ、「終わっていた」というそれも、一つの生きる意味を考えてきた、それに対する意味なのかもしれんな。

俺が思う所の生きる意味は、生物的には「繁栄」で。
個人的には、「よく解らん」、といった所かね。

なんと言うのか…小瓶主さんの「生きる意味」って、「生きて行きたい意味」なのだろうか。
そうだとすれば、「これから生きる上で求めたい意味」を考えなければ、答えは出ないんじゃないか?

何故って、自分の意思がなければ、生きる意味など生まれても来ないのではないかと思う。

自分の意思が、後付け的に、自分だけの意味を作っていくものではないかと考えているのだ。
(「意味や価値、重要性」→人が作るもの)

だから、「無い」とすれば無い。「ある」とすればある。
(物事を「軽く捉えるか」、「深刻に捉えるか」、という図式と似ている)

「生きる意味」以外もそうで、生きている中、瞬間瞬間に思う、「腹減った」だとか「遊びたい」だとか「ぐっすり寝たい」だとか、それらに意味があるとするならあるだろうし、ないとするなら、ない。

身体として、なんらかの理由はあるだろうが、認識としてそれらに何の理由があるかの判別は明確に出来ないし、間違う事もある。
(足の小指をタンスの角にぶつけて、それ程痛くなく、単に打撲傷だと思っていたが、病院に行くと実は骨折していたとか)

自分自身の認識として、意味を考えた時、それはあくまでも己の認識でしかない訳だ。

そういう事もあり、「生きる意味」は明確に解らないが、感情や理性、瞬間の、一時一時の気持ちや考え、行動が続いて、生きているのだと俺は思う。

それ自体…、意識的に、一瞬一時と行動している事の中身が「生きる意味」だとするのなら、それも、人それぞれの解釈次第だろう。

「言葉」への意味と同じく、意味を定めて使っているのは人間その一人一人だろうしな。

本来的に何か意味があろうと、なかろうと、それとはまた別に意味を作る事、定める事が出来る。
(それが、新しい言葉の意味になったりもする)

まあ逆を言えば、意味があろうとなかろうと、考えようが考えまいが、今ここに生きているのは間違いない。

「生きる意味」というのが、各々にとって、「生の中求めたい意味」なのか、「使命のような大きな柱として、縋りたい、生きている事を支えたい意味」なのか、両方含めたものなのか、はたまた別のものなのか…。

どのように、何故「意味」を求めるのか。
それを含めた上で、「全体的な意味」が見えてくるのかもしれん。

あるいは、求める事で、求める事そのものが意味の中に加わる、とでも言えるか。

「生きる意味」というより…
どうやって、生きていきたいのか。
あるいは、生きている中で、何をしたいのか。
何かのために、生涯を掛けたいのか。

もしかすると、「生きる意味」なんて言葉で、それらを考えるから、ややこしいだけな場合もあるかもしれん。

それでも、意味を見つけたいから、考え、探す。作ろうとする。
生きる意味を考える事が、生きる理由に繋がる事はあるだろう。

何かものを考える時、「考えよう」なんて事を思った「瞬間」、それ自体が考え事なのだ。

それと似たように、生きている上で、「生きる意味」を考えても、その「生きる意味を考えている」事が生きている事、「現在進行的な行動」だ。

そこら辺も、ややこしくなる一要因かもしれんな。

解釈次第ではあるが…
生きている事そのものが一つの意味、「自分が存在しているというもの」だとすれば、生きている意味はあるだろう。

俺として、自分自身の持つ、今思う、一つの「生きている意味」は、「意味を考え、作る事。意味と関わる事」だと考えている。

簡単に書けば、「意味」というのは、「個人の持つ認識」だと考えてる訳だな。
その考えを一つの軸にして、俺の人生観を捉えているという話になる。

ただ、それが全てではないとも思っているのでな。
「よく解らない」という部分は間違いなくあるので、生きる意味を考え続けている。

何年経ったか…、よく解らんな。
細かく覚えてはいないが、俺も十年近くは考えてる筈だ。

俺は考えたいから、まだ考える事にするよ。

十年近くと行っても、偶然だとか色んな要素もあるから、人それぞれタイミングは違うのだろうし、速さも関係がない。
「生きる意味」そのものも、各々、様々に異なるのだろう。

少なくとも、個人的に十年では、まだ解りきれそうにないからな。

小瓶主さんも、終わりなら終わりでいいんだが、考えたくなった時はまた考えてみても良いんじゃないか?

自分自身の考え方、解釈の仕方や、考える上で着目する視野、そういうものは変わりうるものだろうし、それが変われば、また別の、違う答えも見えてくるかもしれんしな。
・・・小瓶を見る
烏羽
文面だけだが、腹立つな。
腹立つし、悲しくなる。

なんで小瓶主さんが、こんな思いをしなくちゃならないんだろうな。

なあ、もし、爺ちゃん婆ちゃんや、父母のご兄弟姉妹がご存命だったり、信頼できて、頼れるようだったら…

小瓶に書いた事や、父母兄、家族にされた事を(言える範囲で)電話か、メールか、何かで話して、匿ってほしいとか、助けて欲しいとか、この家に居たくないとか、言ってみるのはどうだろう。

…出来れば性暴力の懸念や、金銭的な都合もあるので、父母の兄弟姉妹が独身である場合や、特に独身男性である場合、連絡するのは避けた方がいいかもしれない。
(同性…、女性で独身である場合は、選択肢に入れていいかもしれんが、金銭的な面から不自由だと、それによって暴力を振るわれる可能性もあるので、出来れば既婚者が望ましいと思う)

あと、母から虐待を受け、父に監禁まがいの事をされたりしているとの事なので、出来れば、爺ちゃん婆ちゃんに連絡する際、父母兄、家族に見つかる事は避けた方がいいかもしれん。

最悪、それが理由で軟禁(程度のゆるい監禁)される事もある。
(なので、誰かに助けて欲しいと伝える際は、「虐待が激しくなったり、監禁されるかもしれないので、家族には隠しておいて欲しい」という事も言った方が良いかもしれない)

持っているようであればご自身のケータイ、スマホなどを使うとか。
予め、爺ちゃん婆ちゃんなどの、頼れそうな人の連絡先を調べておいて、公衆電話を使ったり、学校の電話を借りて、連絡を取るのがいいと思う。

また、保健室の先生(出来れば同性…、小瓶主さんなら女性の先生)に相談してみるとか。

ほかに、「教育相談窓口」あるいは「教育相談センター」と検索をかけて貰うと、無料電話相談の出来るサイトが出てくる筈だ。

他にも、「警察相談専用電話」と検索をかけて貰うと、警察署の、生活に関する、電話相談の窓口が出てくる。
(110番とは別)

宛メのサイトの下部にも、管理人さんが集めてくれた相談窓口へ飛べるリンクサイトがあるので、「悩み相談ができる相談所を集めたサイト」という所を、スマホなどであればタップしたり、パソコンであればクリックして、チェックしてみてほしい。

ただ、無料相談窓口は、混みあっている事も多いので、それによって電話が繋がらない事もある。
諦めず、時間を開けたりして、何度も掛けてみたり、一つの相談窓口以外にも電話を掛けてみて欲しい。
(相談受付時間も確認してな)

専門の方々へ相談する事で、現状を少しでも良くできる方法を見つけたり、教えてくれるかもしれない。

なんとかならないか、どうにか状況が良くならないだろうかという思いで一杯だが、一先ず無事を祈る。
・・・小瓶を見る
烏羽
楽になるとか、イメージが払拭されるとかは解らんが、いじめられる側にどんな要素や理由があろうと、いじめた側が悪い事に変わりないぞ。

小瓶主さんが、誰かのせいにしてもダメだと、そう思えるのは立派な事だと思うが、いじめてきた側に責任がある事は間違いないと思う。

例え、いじめに結び付く要素が、小瓶主さんの行動の中にあったとしても、それはあくまで「いじめた側からの視点」で、いじめる事に繋がった、結果的な理由でしかなく、そこに小瓶主さんへの非はない。

どんな理由があろうと、いじめは犯罪で、正当化されるものではないからね。

だから、昔小瓶主さんをいじめてきた奴らのせいであって、そいつらが悪かったんだと思う。

また、許したい、あるいは、何かしら心の整理を付けたいというならそれでいいと思うけど、酷い事をされて許さないというのなら、そりゃ許せないだろう。
無理に許そうとしなくていいと思う。

俺も、結構…、いじめではないんだが、狡猾な手口で、裏切られるようなショックな事があって、夢は見ずとも、今でもちょくちょくそいつの事を映像のように思い出すし、絶対に許そうとも思えない。憎さ極まって殺意さえある。

(通院中ではないが、それやら色々な事が合わさって、高校不登校、中退後、鬱っぽくなったり、自殺未遂に至ったが、現状は割と元気)

正直、思い出すのも嫌なんだがね。
(割と不謹慎な話、現実的に殺すかどうかというとそうではないが…、いや、せめて一発、後遺症が残るぐらいには、思いっきり殴らせろ程度の害意があるけれども、ふと思い出した時は殺す妄想やら、顎の骨を砕いて吹き飛ばしてやるイメージなどをしている)

一々そんな嫌な記憶を、思い出すのも労力の無駄というか、その時間を別の事に使いたいし、それ故に鬱陶しいし、どうすりゃいいのかよく解らん。
(俺もこれが軽減されるなら知りたい)

因みに小瓶主さんは、通院中の心療内科の先生に、「仲間外れにされたり裏切られた時の夢を見る」事に関して、困っていると話しただろうか。

まだ話していないなら、話してみるといいかと思う。

もう話したのなら、ご存知かも知れないが、心療内科の先生も人間なので、人間関係という点から見た、話しやすさと言えばいいか、お互いの相性もあるので…
(医療の先生それぞれに、やり方の違いや、患者さんとのやりとりの違いがある)

もしも合わないと感じているようであれば、別の心療内科へ行く事を検討してみるのも、一つの手かもしれない。

小瓶主さんと俺と、病気の性質というのか、状況や程度はそれぞれ異なるだろうが、多少だとしても似たものを感じる。
少しでも、楽な気持ちに、穏やかな時間を過ごしたいもんだな。

何か、音楽聞くとか、動物の動画を見るとか、景色眺めるとか、窓側で日向ぼっこ(日陰ぼっこ?)するとか、温泉に行くとか、風呂に、泡がボコボコなる系の固形入浴剤とか、香りを楽しめるような入浴剤を入れてみるとか…

香りと言えば、紅茶とかを嗜んでみるのもいいかもしれん。

とにかく何かしら、ほんの少しでも、気分が落ち着けるような時間があると、いいんじゃないかとも思った。
・・・小瓶を見る
烏羽
(長くなったので、もし読まれる際は、余裕のある時に目を通して下されば幸いです)

そうだな。

なんというか、辛さというか…

自分なりに努力していて、他の人が不正に欲しい幸せを手にしているとなれば、そう思うのも当然、真っ当な感情だと思う。

また、自分の不遇さにしろ、誰かれの不正にしろ、深刻に考える時には結構エネルギーが要るからな。
(それ故に疲れもする)

辛い事を考える時間もあっていいとは思うが、辛い事を考えていると自覚出来た時は、そのエネルギーを別の事へ使おう、といった具合に、すり替えるのもいいかもしれない。

(パッと考える事を止めるというのも、難しい場合があるので、困った時はすり替えをオススメする)

俺がよくやるのは、歌を歌うとか、体動かすとか、絵を描くとか、少し寝るとかだな。

何か別の事に熱中というのか、集中というのか…、行動などを通したりで、そこに対して少しでも意識するようになり、深く考え出すと、そっちへ意識が流れて行きやすい場合もある。
また、寝ると体感、意外にスッキリする。

また別に、どうしても相手が許せなかったり、自分を嘆くのが収まらない時は、寧ろそのまま流れに任せて頭の中で相手を貶してみたり、自己憐憫していると、何だか自分自身で虚しくなってきたり、疲れてくるので、そのまま自分自身が「疲れたな」と自覚できる場合もある。
(疲れたと思えば、休みたく、考えたくもなくなると思う)

場合にもよるだろうが、逆に、相手への怒りから、自分のやりたい事を何クソと思い、バネにするような感じで、意気込む事も出来るかもしれん。

本当にそう、心から考えられるならの話でもあるが、比較したり、自分を嘆いたり、不正を許せなかったりする際の時間や労力を勿体ないと考えたなら、別の事をしようとも思えるかもしれんしな。

あと思い付くのは、ストレスの発散、解消の仕方なんだが…
先程書いた、歌う事も含め、「体を動かす」と、結構発散される事が多い気もするかね。

気にならなければ一人カラオケとか、迷惑になったりしない時や、人のいない時間を選ぶとか、恥ずかしさとかを考慮した上でなら、家ででも出来るぞ。

体を動かすのも、肩を回す感じの簡単なストレッチとか、スクワットとか、腕立てとかいいかもしれん。

手のひらを、神社とか行く時みたいに、身体の正面で合わせ、両腕の肘も合わせて、合わせた腕を、そのまま垂直に…、膝が頭の上辺りになるまで(上がる所まで)上げて、10秒程キープして、降ろして、上げてキープして…、と、何度か繰り返すのもなかなかいいかもしれんな。

(文字だけなので解りづらいだろうが、肩やら二の腕周りの筋肉にかなり効くので、肩凝りにおススメ)

他には、握力鍛えるための、あの二つのバーを握り合わせるような、V字型の器具、って解るだろうか。(ハンドグリップというらしい)
あれを握り込むのもいいかもしれん。

シャドーボクシングもどきや、正拳突きとかをやってみるのも割と楽しい。
(いいパンチを出すためには、足腰や、重心等が結構関わっていたりもするっぽい)

これも俺自身がリラックスできて良いなと思った事なので、実際どうなのかは解らんが、キャンドルや、アロマキャンドル等もいいかもしれん。

火を扱う時はそれなりに危険も伴うので、取扱説明書とかをよく読んだり、ネットで出てくるようなキャンドルについての注意書きを見たりで、引火するものがないかとか、よくよく気を付けて欲しいが、個人的に火を見ると、なんか落ち着くんだ。
(焚き火を眺めるとかそういう感覚)

まあ、自分の事を考えるというか、色々、悪い方向へ考えてしまう事を止める方法やら、嫌な気持ちを流せる方法やら、探したり試してみようぜ。

辛い気持ちがあっても、それをどう消化したり、受け流したり、自分を支えたり出来るのか、出来る事は割とありそうだしな。

自分なりの正解というのか、理想あってこそ、目指す場所も見えてくるものだろうし、何が自分にとっての正解なのか、固まっていくものなんじゃないかと思う。


ただ、まあ、ここからは余談なので、スルーしてくれても構わないんだが…(これ以上長くなるので)
俺の場合、余計な事も、比較も、幸せを求める事もしていいと思う。

勿論、スリザリンさんが、言葉通り、自分の事を考えない、と、そう思っている訳ではない事は解るつもりだ。
(ややこしい話なのですまん)

が、その上で、自分の事を考える事自体や、比較する事そのもの、幸せを求める事そのものは、やはり悪いものではないと思う。

要は、それらの中で上手くいかない事があり、対処に手間取る事がある。
あるいはこう言い変えられるか、ご自身にとっての適切な距離感が掴めない、とか。

距離感と言っても大した話ではないんだが…

俺の話だと、自分を憐れんだり、他人と比較するよりも、別の事を考えたりしたいし、上手くいくかどうかは別に、そうしようとしてきた。

憐れむにしろ比較するにしろ、落ち込んだり苛立ったりするより、また、それがあるとしても何か学びを得たいとかな。

嫌な気持ちになりたくて考えたい訳じゃないというか、考えて嫌な気持ちになって、ただそれだけで気分が落ち込んで終わるというのは、適切な、理想的な距離感ではないなと思った訳だ。

また、比較するにも、対照実験的に見るとすれば…
そもそもが同じ背景を持った、同一人物という訳でもないしな。
考える事もやる事も、思う幸せも、悩む大きさも、それぞれ異なる。

厳密な比較は出来ないという事に気付いてから、それを自分に言い聞かせ続け、行動してきたというのか…
自分で考えて納得して、常に意識している状態になったというのか、それが当たり前な感覚に加わったというのか…

今も比較して、嫌な気持ちが湧く事もあるが、そんな感じに、言わば隣の芝は青い的な比較は少なくなって行ったかな。
(この小瓶の不正した人に対しての、スリザリンさんの比較は、状況が違うだろうなのでなんとも言えんがね)

幸せに関しては…
…いや、まあ、求めていた事もあったが、求めなくなったのもあって、引きこもって今生きてる訳だしな…。

あまり何かしらの情報は言えんが、自分がやる事に関して「期待の度合い」が高ければ高いほど、叶わなかった時の落差は大きくなるのかもしれん。
(なので、期待が高そうな時は、ある程度落差があるだろうという覚悟がいるかも)

逆に、思っても見なかったような良い事が起こると、心なしか嬉しさを大きく感じる気もする。
(思っても見なかった不幸が起こる事と同じく)

そこに関して、「どうなるか解らない」という考えは、不安とセットでもあるが、期待も解らない。

ある種、視点や認識に、余白が生まれやすいスタンス、考え方なのかもしれんな。

ただ、期待と不安は、「未来をイメージして、待ち受けようとする」という点で見ると、同じものと捉えられる。

それを軽く、あるいはポジティブとも言えるか、その視点で見る事。
それを深刻に、あるいはネガティブとも言えるような、その視点で見る事。

言葉にしてみれば、それだけの違いなのかもしれんと思う。

それらの違いが、なんというか、気持ちへの距離感とも、少なからず関わっている気がする。

…まあ、どちらも過ぎれば、「軽率」と、「臆病」等に繋がってしまうのかもしれんがな。
だが、両方がなければ、バランスを取るなんて事は出来ず、極端に振り切れるだけになってしまうかも解らん。

自身が深刻に考えて、行き詰まっていると感じる時、辛いと感じる時は、考えを軽く出来ると良いかもしれんよな。
(止めるなり、すり替えるなり)

また、理由なく運悪く、仕方なく起こる問題もあるので、そういう場合もあると、深く考え過ぎない方が良い事もある、…といった所か。
無理に考えた所で、事実と認識が異なってしまう場合もある事だし。
(間違える場合もあると解っていて、あえて考えたいのであれば話は別)

とにかく、考える際にも、比較する際にも、幸せを求める際にも、その中でしたい事を通すための要点というか、その当時の自身にとって丁度いい距離感や、コツというのか…
そういった、それなりに大事な点はあるのだと思う。

長くなったし、読み辛い箇所もあったかもしれんが、自分の不遇さへ、良くない方向に考えるのはやめたり、すり替えたり、少しでも楽なやり方を見つけられると良いな。
・・・小瓶を見る
烏羽
とりあえず、先ずは高校おめでとう。

まあ、確かにこちらから、文字でのやり取りの中出来る事といえば、文字を送る事だけなんだよな。

だけど、それを見た小瓶主さんの、なにかしらの好転的なきっかけになれると嬉しいし、だからこそ誰かを助けられるんじゃないか、直接的でなくとも助けに繋がる可能性はあるんじゃないかと思って、俺は返事をしてきたつもりだ。

そして、俺もそうやって、誰かがきっかけを見せてくれて、元気を貰ったり、自分の気持ちを立て直したり、そういう事があった訳だ。

一人一人、自分自身の力もあるからこそ、言葉を読み、考え、気持ちも行き交うやりとりが出来る。

Orange7さんの小瓶や、小瓶内のお返事を読み返してみたけど、あのお返事をされていた方は、「意味がない」とは書いてないと思う。

寧ろ「お返事をする事で、僅かでも何らかの変化に繋がる可能性はある」という事を伝えたかったのかな?と思います。
(当事者ではないので勝手な解釈ではあるが)

ただ、まあ、その「相手の力」という視点を見落とした上での行動…
例えば、「自分の言葉で相手は必ず救われる」という思いからの行動は、逆に助けたいと思った方との、人間関係の軋みを呼ぶかもしれない。
(Orange7さんに関しての話ではなく、俺が思う事の説明)

何しろ、ゲームや人間の作り出してきた計算式のように、「こうすれば必ずこうなる」という法則なんてものは、多分現実的に存在していない。

それに、「必ず救える」という思いが高ぶって、いかにも「私こそが神様だ、全て自分の思い通りだ」と言わんばかりに振舞うと、相手にもそれは伝わる。

例えば…、また別の話ではあるが、もし何らかのお店の中で、店員さんに対し、客が「俺は神様だから、わがままを聞け!言う通りにしろ!暴言のはけ口になれ!」みたいな事を言ったり、行動したとして、そしたら、少なからず違和感というか、抵抗感や「何やってんだこいつ?」感を感じないか?

極端な例えだが、このように、「お客も店員も、サービス以前に同じ立場として人間であり、マナーがある」という事を忘れた所から生まれる、人間関係の軋みもある。

要は、この例えでいうと、「お客様は神様」というサービス精神…、言わばお店を経営する人の「目標、理想、理念」を、そのサービスを提供してもらう側の客が、「受けて当然のもの。あって当たり前で、ありがたさも何もないもの」として振る舞えば、おかしくなるというもの。

まとめると、それと似たように、相手に対して、「俺のやる事は全て正しいし、何でも許される」という自制も理性もない行動は困るという話だな。

俺が「救いたい」という事に関して、気を付けたいと思ってるのはそこなんだ。

相手がいるという事…、相手に対しての思いやりを忘れ、自分自身のうぬぼれから、言葉を叩きつけるだけになってしまう事。

そうなると、自己中心的に、「救いたい自分が欲しい」、「自分の思うがままに振る舞いたい」等となるだけで、相手を見ていない為に、「相手を救いたい」というものから離れていってしまう場合がある。

…ただ、実際の所「自分の思うがままに振る舞いたい」という思いの元…「自由意志」が、「相手を救いたい」という思いへ繋がっている。

だから、何かしらアドバイスをしたいと思う時には、お返事を書いていて、自分本意になり過ぎて、「相手をちゃんと見れているのか」というのか…

「救いたい自分の姿」が欲しいのか「届く範囲ででも相手を救いたい」のか、よくよく自分を見つめ直す必要性を個人的に感じている。
(…自分自身、上手く出来ているかと聞かれると、失敗の方が多いと思うが)

だから、俺の場合は最初に書いたように、相手の力があるという事を見落とさない為にも、自分が出来る領分を忘れない為にも、「直接的に助ける事は出来ない」と、そう思っている。

(本当の所、宛メの、言葉だけのやりとりに限った話じゃなく、現実的にもそういう事はある。…宛メも現実の一部だしな)

Orange7さんが宛メをやめようか、やめないか、その選択はあなた自身にしか出来ない事だ。

Orange7さんがやめてしまうのは寂しいが、それを俺が物理的に止める事は出来ない。

俺もなんらかのきっかけになる可能性はあるかもしれないし、今、その為に思う事を書いてみている訳だが、「言葉以上」にはなれない。

…そういった視点を持って、以前の小瓶を読み返すと…

あのお返事を書いた方は、Orange7さんになんとか休んで欲しかったために、「返信、(疲れていて無理な時に)しなくて良いです」と書かれたのかもしれない。
(違う方だったら本当に申し訳ないし、それを抜きにしても勝手な憶測による解釈なので、重ねてすみません)

また、相手にも自分で考えたり、立つ力があるし、僅かな変化の、きっかけ以上にはなれないから、「あなたも、私も、無力です」という言葉を書いたのかもしれない。
(無力であっても、無意味ではない)

憶測なので解らんがね。
だけど、あの方もOrange7さんを助けたい、何かしらの良いきっかけになれれば、と思ったから、そういうお返事をして、気持ちを伝えようとしたんじゃないかと思う。

誰かを助けたい、救いたい、そう思えるのは立派な事だと思うし、その気持ちは幻想などではないだろう。

ただ、他の方との、「助けたい」という思いへ対する、認識や解釈の違いを知ったというのはあるかもしれんがな。

もし気が向けば、もう一度…
ネガティブではなかったり、それなりに落ち着いている時に、あの小瓶や、小瓶についた様々な方のお返事を読み返してみてもいいんじゃないかなと思った。
・・・小瓶を見る
烏羽
頑張ったんだな。

俺なんか中学の時は、宿題まったくやらずに過ごしてたわ(その都度怒られたがな苦笑)

まあ、「当たり前」なんてものは、自分の現在ある姿でしかないよ。

そりゃ当然、周りの普通とされる基準というか、平均に合わせるのは骨が折れる。
それこそ、元々自分自身にとって普通じゃない感覚なのだから、仕方がない。

…ついでにいうと、多分俺にとっても普通じゃない。

なみだうさぎさんが普通じゃないとかというか…
「普通」という言葉には「ありふれたもの」とか、「当たり前である事」だとか、「一般的に」とか、そういう意味がある。

じゃあ、何をもって、何を軸に「普通」とするのか、これが問題になる。

なみだうさぎさんにとっての普通…、ごくありふれた、当然の、現在の当たり前の状態と、世間一般的な…、あるいはこう言い換えられる、大多数の平均的な、ごくありふれた状態は異なる。

…こう解釈して書くと、人それぞれ、違う当たり前を持っている事が、なんだかそれこそ「当たり前」の話に思えてこないか?

人と比べるのは構わないが、そんな「当たり前」から、自分を責めるのはやめようや。

なみだうさぎさんの頑張りは頑張りだし、辛さは辛さ。
それがご自身の「当たり前」な事であって、大多数の、平均的な指標やらと比べ、低いものだと認識しても、それはそうなのだ。

平均的な指標というのは、平均でしかない。
それぞれ、テストの点数が低い高いなどという、小瓶主さんも含めた、様々なものを合わせて、割った数でしかない。

そんなものに惑わされるな。

気持ちを奮い立たせたいから、あえてそうしようとする為に使う、というのなら良いのかもしれんがな…。

なみだうさぎさんの現実として、死にたい程に苦しい中、死にたい気持ちを抱える中では、集中力も欠けるであろうに、課題を提出しようと頑張ったり、自傷を我慢してきたり、色々やろうとしてきた。

そして辛さもあって、耐えきれなくなって、自傷をした。

これのどこが頑張っていないんだろうな?
これのどこが正常じゃないんだろうな?

真っ当な、個人の「当たり前」の感覚だろうに。

あまり思い詰め過ぎず、疲れた時は休めよ。

勉強も身体を動かす事と同様に、体力がいるからな、疲れれば集中力は落ちるし、それ故に記憶というか、頭に内容が入って来にくくもなる事がある。

筋肉痛のようなものは感じないかもしれんが、筋肉のように消耗もする。
死にたい思いやら、悩む事があれば尚の事疲れるだろう。

集中力の持続する平均は大体一時間弱とも聞く。
50分起きに休憩するとか、そういうのも大事かもな。

それなりに飯を食って、一時間程勉強に打ち込んだら、時には休みがてら、気分転換に、ゲームする時間やら、何かしら好きな事、興味のある事、曲を聞く時間やらを取るのもいいかもしれん。
(小休止であれば、ちゃんとそれらを中断して、勉強を再開する事前提なので、休憩時間も決めておくとかな)

勉強方法に関していうのなら、なにか、歴史とか数学の公式とか、英単語とかを覚える際、ふざけた感じで歌にして、テキトーなメロディとリズムを付けて、歌ってみるとかもありかもしれんな。

個人的な方法なので、やってみて効果がない場合もあるかもしれんから、その時はご自身で判断してほしいが…
上手いか下手かではなく、上手かろうが下手だろうが、自分が楽しいかどうかでやってみると、割と覚えやすい気もする。

(覚えやすいコツというか、そういうのも人それぞれあるだろうし、興味というのも割と覚えやすさや、記憶の引き出しやすさに関わっているような気がする。好きな歌とかを何度も聞いたり、何度も歌っていると、題名が思い出せなくてもメロディやリズムや歌詞を覚えていたり、いざ曲が流れればうろ覚えでも少しずつ思い出して歌えたりするし)

なみだうさぎさんは、ちゃんと、自分の見える範囲の事を、頑張ろうとしているし、それなりに考えてもおられるように感じる。

あまり追い詰めるというか、思い詰めるようになって欲しくはないが…
普通…というか、平均より上に行きたいとか、自傷を少なくしていきたいという目標あればこそ、ちゃんと休みつつ、ご自身のペースで、これからも頑張ってほしい。
・・・小瓶を見る
烏羽
(長くなりますので、もし読まれる際は余裕のある時に)

なんとなく、解るというか、重なる部分のあるような、そんな感じがする。

何といえばいいのか…
俺の場合、小瓶主さんの書いた事も解らんでもないんだが、「頑張れ」と言われると、何か、その思いと言うのか、そういう気持ちは有難いんだが、反面それを裏切ったり、背いてしまえなくなるというか、背中をおされているのだと、深刻に捉えてしまってな。

今はそうでもないが、それを重荷というか、重く捉えてしまって、結果的に自分を追い込んでしまったりした事があったからか、何かしら抵抗感があるんだよな。

俺も、何かものを伝える時に不安で、頭の中で会議的な、「これは本当に大丈夫か」「これはダメなんじゃないか」、「どこがダメだと感じるのだ」「これなら大丈夫そうな表現か?」といったやり取りをしてる。

何だろうな、俺みたいに、言葉の重みやら、人との関わりやらを深刻に、重く深く考え過ぎれば、人と関わる事に疲れたりもするし、かといって浅いというか、軽く考え過ぎれば、軽率な言葉として人を傷付けてしまいかねないし、その傷付けたという認識さえないまま、通り過ぎてしまう事もある。

何が良いのか悪いのか、なんとも言えないが、気になるのなら俺としてはそれについてちゃんと考えて、対処なりその後の対応なり、出来そうな事には目星を付けた上で行動したいと思っている。
(しっかり考えてもはっきりとした対応やらが見えてこなかったり、行動してみて上手くいかない時もあるが)

自分の気持ちの整理というか、ケアも込みでな!(忘れる時もあるが)

そういう人達…、言葉はアレだが、軽率な発言ばかりをしてしまう人達が、世の中を悪くしていく…かどうかは、解らん。

深刻に、深く考えるが故に、ネガティブな捉え方というのか、デメリットを主軸にした考え方をする場合はあるし、その考えからなるものの言い方次第では、自分自身の言葉が他の人に悪い影響を与えてしまう事もあるかもしれない。

他にも、軽い思いや考えでも、深刻な思いや考えでも、捉え方というのは人それぞれだ。

例えば俺が、何気なく、誰を傷付けようという訳でもなく、自分の意見として「しいたけ嫌い」と言ったとして、他にしいたけの好きな人は、それだけでショックを受ける場合もあるだろう。

大きなショックを受けて、深刻に考えればこそ、最悪の場合…、流石に極端すぎる話ではあるが、俺の事を恨んで殺そうとしてくる事さえあるかもしれない。

この場合、軽い気持ちで言葉を発しようと、深く考えて言葉を選ぼうと、ショックを受ける人は、関係なく受ける可能性もある。

ただ、大体こういう場合に付き物なのは、「お互いの事をよく知らず、知らないが故に決め付けで物事が進んでいる」というものだろうか。

例えば、俺が他の周りの人から、「私たちはしいたけが好きだ」と言われれば、自分の居場所がないように感じたりする事もあるかもしれない。

だが、よく考えると、そのしいたけが好きな人達は、俺がしいたけを嫌いな事を知らないかもしれないし、悪意がある訳でもないかもしれない。
「悪いが、俺はしいたけが嫌いだ」と言葉を発しても、「まあそういう事もあるよね」と受け入れてくれる可能性もある。

深刻に考える上での話だが、不安な気持ちや焦りなどから、視野が狭まるとでも言えるような、考えの固定から、ちょっとした前提が抜け落ちる事もない訳ではない。

根本的に良くないとされるものを考える上では…、何を根本として、良くないと考えるかにもよる為に上手くは言えんが、基本的に人間関係上の問題なので…
そこから考えると、片方どちらが全てにおいて全面的に悪いと明確に断ぜられるケースは中々ないし、千差万別様々な価値観を持っている人々の中、何が問題の引き金になるかも解らん。
(その時々によって何が問題となるのかバラバラだと思うし、相手にしろ自分にしろ、複数の要素が組み合わさって問題となる場合もあるので、厳密な問題の特定が難しい場合は多い)

ただ、多くの場合フォローが出来ない場面というのも少ないかと思うし、謝るなり、そこから、理解からなる思いやりなり、周りの人が手を差し伸べるなり、気を付けられるというのか、出来る事も多くあるのではないかと思う。

うーん、まあとにかく…
一緒くたというか、全てそれで解決できるようなゴリ押しの言葉として、根性論を推し進めるように、個人への理解や配慮なしに、決め付けて物事を進め過ぎるのは良くないのかもしれんな。

実際、根性というのかなあ…、気分も、精神と言えど、身体の一部なのだから、消耗もするし、限度のようなものもある訳で、「元気出せよ」と言われて元気が出る場合もあるだろうから、その時は良いのだが…
逆に出ない時もあるので、その時にゴリ押しされると更に辛くなるだけだという理解や、現実に目の前で起きている、現状の正しい把握…、もしくは、解らない部分は解らないと認識し、何かしら理由があると決め付けて、下手に押し進めない事などが必要なのかもしれん。

…精神病にも通ずる問題だが、「精神」という認識から、自立神経系バランスが関わる病気で、身体も関わる問題であるにも関わらず、気分でどうにでもなる問題であると認知されて、割と軽視されがちでもあったし、病気としてもかなり診断の難しい、専門知識や技術をそれなりに求められる部類のものらしいので、それを一般的な人が見分けられるかと問えば難しい。

参考になるか解らんが、躁鬱病や統合失調症、不安障害など、気分だけでどうにかなるというのであればそのような病状的診断はされないし、治療する為の区分として病名など存在しない。
そもそも、その「気分」と呼ぶ部分に関しての病なのだから、あれこれと本人がどうにかする事もまた難しい。

…昔の時代を嘆く訳ではないし、昔の時代の流行や傾向によって、プロレスの猪木だとか、某ウルトラマンのレオだとか、色んなものもあっただろう、それによって勇気、元気付けられ、乗り越えて来た方々もいらっしゃっただろうが、時には、気持ちで何とかならない場合もあるのだという認識も大事なのだと思う。

勿論の事、気持ちは大事なものだと思うが、同時に己に関わる身体の内の、大切な一因でもある。
要は、その大切さが抜けてしまった上で、気の持ちようで全て解決できるというような言葉は、場にそぐわなくなってしまう事もあるし、最悪逆効果にもなりうるかもしれないと思う。

どんな言葉でもそうなのだがな、自分の言葉や、相手の言葉が、どんな思いを持って、どんな立場…、どんな背景から、どこへ向かって言葉を発しているのかを省みて、吟味する必要性があるのかもしれん。

そこが伝わっておらず、困ったすれ違い…、誤解が起こったり、誤解から、諍いが起きるなどすれば、改めて説明して見たり、日を跨いだりした後に落ち着いてからもう一度考えてみるなど、が思い付く。

他には、言葉の書き方、伝え方とかもだな。

俺が「しいたけなど嫌いだ、この世から消えてなくなってしまえばいい」と、思う分には自由だが、それを口に出し、しいたけ好きの人がショックを受ければ、「お前はしいたけが嫌いかもしれんが、私は好きなんだ。お前こそこの世から消えてしまえ」といった発言に繋がる事もあるだろう。

だが、「しいたけ好きの人がいるのは解っているが、どうしても好きになれない。この世からしいたけがなくなれば楽に生きられるのに」なんて書いてみると、先ほどのものより、多少は、なんというか、辛いんだな、深刻なんだな、という理解はしやすいだろうしな。

受け手にもよると言えばそうで、そこは幾ら気を付けても起こる時は起きてしまうものなんだが、「しいたけが嫌いで、辛い」という思いを言葉に込める際、あまりにも過激な言葉で表現すると、他の人に飛び火しやすい事はあると思う。

そういった点から、自分の気持ちを伝えたい時には、暴言になってしまったり、罵倒になってしまったりという部分には気を遣った方がいいのかもしれん。

また、「しいたけが嫌い」という事を示す時、しいたけの「何が嫌いなのか」という部分が省かれていると、どうしても説明したくないなら問題はないが、誤解を招きやすいだろうしな。

受け手側もその点、決め付けて物事、会話などを進めないよう「何が嫌いなのか見えていない」という事を理解しておく必要があると思う。

(因みに俺はしいたけの匂いと食感がダメだ。焼き椎茸などにしたり、鼻をつまんで食べても見たが、申し訳ない事に吐いてしまった。ほんの少量なら食べられるようにはなったが…、吐き気がその都度止まらなくなるので、進んで食べたいとは思えない。食える方々はすげえよ…)

今思い浮かぶのはこんな感じかね。
・・・小瓶を見る
烏羽
救えるか救えないのか、俺にはいまだに解らん。

人間不信だからなのか、誰かに言葉を投げかけた所で、救えている実感はないし、いつ誰がどう傷付いてしまうんじゃないかとビクビクしている。

その人が立って、どこかへ向かう気力のきっかけにはなるかもしれんが、それ以上のものにはなれないと思っているし、返答があろうとなかろうと、自分に気を遣って、無理に体のいい言葉を流してくださっているんじゃないかなどと、気になる事が多く出て、穏やかでもいられない。

宛メに限った事ではなくてな。

人を救おうと、何かの助けになろうとするのは、大変な事だと思う。

俺であれば文字通り、神経をすり減らすような事になってたりとな。

神経をすり減らし切ったような時…、疲れて気分も落ち込んでる時は、大体考えもまとまらないし、集中もできないし、ミスも多くなるし、そういった自分の感覚が解ってイライラしたり、それが積み重なったりで、上手くいかなくなりやすくもなる。

そういう時は…、書いている俺も現時点で疲れているのかもしれんが、ちゃんと休めよ。
誰ぞ何ぞがきっかけになろうとも、自分の体を休められるのは、自分自身しか居らんのだから。

録画見るなり、買ってあるならゲームや読みたい漫画見るなり、コスプレしてみるなりとな。

動物の動画を見るとか、音楽聞くとか、空とかの景色をぼーっと眺めてみるとか、そういうのも割と落ち着くかもしれん。

疲れてる時は、あまり深刻に考えすぎないようにというのか、考える事に関しても緩めてやって、ゆっくり出来る時間を取るのがいいと思う。

人間死ぬ時は、寿命なり事故なり病気なり、何かしらで死ぬだろうがね。

小瓶主さんも解っているだろうなので、あまり言われたくはないかもしれんが、いつ死ぬにしたって、小瓶主さんが救ってきたかもしれない、あるいは何か良いきっかけになれたかもしれない人々は悲しむんじゃないだろうか。

まあ、人を救いたい、助けたいんだろ。

その思いがどこまでのものなのか、死ぬまでの自分自身を試してみるというのも良いかもしれんな。

ただ、何をするにも、生きている上。
生きている内での事、生ある自分あってのものだというのは、忘れないでくれよ。

死後の事など解らんが、死んでから助けたくなっても遅いかもしれんからな。

元気な時、余裕のある時にできりゃあいいんだ。
義務感に駆られても、その行動で救われる人もいるかもしれんが、何より自分自身が苦しくなったりもする。

それが自殺に繋がっては、元も子もないだろう。

無理したとしても、無理しすぎて、それが無茶にならないようにな。
許容量というか、ある程度の、気力的な限界というものはあるだろうなので、その上で、頑張ってください。
・・・小瓶を見る
烏羽
心理検査の紙を見た、小瓶主さんの姉さんが、「だから君、絵下手なのか」といっても、その言葉のみを見た所で、何が「だから」なのかという説明には一切なっていないし、悪意があろうとなかろうと、それを口に出された所で、単なる嫌味にしか聞こえない。

…一応、心理検査の紙を見て、姉さんのよく解らん理解の仕方から、「だから」と勝手に納得された、という推測は立てられるが、「絵に対しての具体的な評価」にはなっていないので、どう考えてもその「だから」という言葉を起点にして、向上点を考える事は難しいように思う。

あと、そういった事と同じく…、どこから「罪の意識」的な、その言葉を聞いたのかは解らんが、言葉というのも、適した状況や、その言葉を発した当人の思う事が見えて来なければ、単なる言葉でしかなく、こちらからその言葉の意味を探る他の事は出来ない。
(格言や座右の銘と呼ばれるものもそうだ)

勝手察するに、その罪の意識などという概念に関する言葉は、自分自身を責めてしまう時、自身に「罪」があるという認識から、存在そのものを否定しないようにしようという認識のあり方を示したもの…

いわばその当人が「こうした方がいいと思う」という言葉を、状況に合わせて発したものではないだろうか。

であれば、適さないと思われる、この状況に対して、その言葉を意識しても仕方がない。

この小瓶に書いた内容の場合、絵を描くなどの行動が悪かったのではなくて、単に姉さんの言い方に、非があったように思えるのだが…

その場合、小瓶主さんには特に非もないので、どこにも出口などなく、最初から入り口などもなく、堂々巡りを起こしているのではないかと邪推するが、如何だろうか。

姉さんが勝手に出来上がった絵を見ようとしてくるのは防ぎようがないというか、隠すしかないだろうし、隠した所で強引に見ようとされれば見つかる事もあるだろうが…
表現した上で誰にも見せようとしないという事は出来る。

自信が出てきて、誰かに見せたい、評価を貰いたいと思うのなら出してみてもいいだろうし、もしもその時があるとすれば、「どこが」上手いとか、下手に感じるとか、そこを聞く事ができれば、更なる向上に繋がるかもしれんな。

ただ、自分の絵を見て、どこをどうしたかったが上手くいかなかったとか、ここは思いの外上手くいったとか、そういった事が解るのであれば、それに基づいて向上点を意識する事も出来る。

自分の絵と向き合う事が出来るのなら、それもまた一つの手だよな。
・・・小瓶を見る
烏羽
魂とか、霊とか神とかの実在については、考えない訳ではないが、考えた上で未だよく解らん。

個人的に、信じていない訳ではないし、かといって完全に信じているという訳でもないな。

小瓶主さんが信じられないなら別に無理して思いを変える必要性もないと思うが…、興味があるというのなら、一人の、一つの意見として聞いてくれると助かる。
(長くなるので、もし読まれる時は余裕のある時に読んで頂ければ)

そうそう、脳は心臓が止まった後もある程度活動しているそうだよ。

臨死体験をした方が言うには、死んでいる自分の様子が見えたり、周りが泣いていたりする様子が見えていて、生き返った…というのか、意識が戻った後、家族とかに、死んでた時こういうアクセサリー付けてたよねとか話して、それが合っていたなんて事もあるそうな。

で、極端な話、本当かは解らんが、霊安室だったか、霊安室から出されて火葬される前だったか、目覚めた海外の男性なんて話もあったような。

身体にまつわる話だと、臓器だとか、骨だとかにも、記憶している部分があるそうで、脳だけでなくそれらも、思い出せる記憶と関わっているらしい。
(臓器移植で性格が変わったとか、記憶が〜とか、そんなケースもあったような気がする)

また、不思議な話、死んだ人の記憶を持つというか、生まれ変わりなのかよく解らんが、そういった事例も幾つかあるそうな。

あと、マリア様の処女懐妊については、科学的に100%無いとは言えないらしいな。
受精しなくても、細胞分裂というのか、無性生殖というのか、そういう事例は人間においても否定できないらしい。
(キリストのDNAを調べたとかなんかのテレビか記事で見たような)

キリスト復活に関しては、貼り付けにされたキリストは影武者説とか、色々あるね。
勿論作り話の可能性もあるけど、検証も難しいっぽく、説の域を出ないみたいよ。

まあ、高度な技術や文明は魔術と変わらんとも言うし、オカルト的な観点から、それを肯定すれば、高次元の存在がいてもおかしくないと考えられるようだしな。

個人的に霊というか…、意識の塊のようなものも、物質なのかなんなのか、何かしら存在していて、あちらこちらにあるけれど、人間の目、身体の仕組みとして見えなかったり、脳の処理として感じられていない、雑音のようなものとして排除されているだけなんじゃないかって気もする。
(物理的に見れば、多分意識とは電気的な信号や、伝達物質の流れやら、それらを送受信する器官同士の関わりの処理やら、そういう、複合的なものから生まれているんじゃないかと思ったりするので、それらの「流れの余波」などが、物理的な体の外に出たりする可能性はあるような気がする。…かめはめ波とか、そういう事ではないが)

かといって、足がないというか、そのままの人間の形や、声を持っているのか?
意識を持っているのかと思えば、何だか違うような気もする。

それを形作っているのは見る者の脳というか、生物的な、物理的に存在する身体の仕組みとしての、認識、感覚というかね。
(なので、霊感のある人で、実際見えるらしい人でも、それぞれ見えたり、感じる、霊の居る場所や種類が違ったり、同じ霊だとしても、姿形が違うらしい。本当かどうかは知らん)

また別の話、科学現象といえば納得はできるんだが、俺の部屋でたまにラップ音がするんだよな。

どうにも俺自身の声やら思いやらに呼応しているような気もするし(うるさいと思ったり、口に出すと静まったり、逆に余計にうるさくなったりする)、もしかすると俺自身の認識だけが関わっているのかと思えば、音は音として、他の人にもちゃんと聞こえているようだしな。

(人間は脳の発達故か、それとも他の動物もあり得るのか解らんが、見た景色や、音や匂い、触感など、様々な体験した事を擬似的に、いわばバーチャル的に再現出来るので、不意に誰もいないのに視線や声を感じたりという事はあり得る…が、それが己が持つバーチャル的な感覚から来るものなのか、霊的なものなのかの判断は難しい場合も多い)

これが霊なのかどうかと問われるとよく解らんし、家の隙間から屋根裏などに入り込んだネズミなどという可能性や、本当に偶然、気圧や温度変化により、家の木材が軋んでいるという可能性もある。
それに合わせ、俺自身霊など見えるような体質ではないのでなんとも言えんが。

他にも不思議な事と、割かし人生の中で遭遇してきているので、一概に切って捨てられないというか、不思議な事はあるような気がしている。

…というか、不思議な事が存在しなければ、科学なんて、存在も発展もしなかっただろうしな。

ただ、現実的な観点からすると、テレビで取り上げられるようなものは大体バラエティでしかなかったり、単なる、何の事故もない廃屋に尾ひれを付けた、でまかせだったりする事も多い。

バラエティショーという観点、話題性や余興性という点から見れば無粋な話ではあるのだが、鵜呑みにはしない方がいいだろうな。

そもそも、霊があるとすれば、人に直接害をもたらしたり、実体が見える程のような強力な霊なんて、そうそういるようなものでもないらしい。

そういうものがポンポン取り上げられる程あるのかというと、多分そうではないだろうし。
寧ろ、そんな強力な霊をテレビに出すとすれば、被害がどうなるかも解らん。
(どこまでの影響を及ぼし得るものなのかも解らんので、なんとも言えんが)

その辺は、解った上でやってるんじゃないかと思うがね。

まあ、とにかく、人間の目で見たものや感じたもの、そこからなる認識、科学的に立証されたものが、現実の全てではない事は確かだな。

「神」というものだって、今のキリスト感というか、聖書からすれば、全知全能かつ傲慢とも取れるような存在にも思えるが、果たして聖書に書かれる前や、そのもっと前の「神」というものが、どういうものだったのだろうかというのはそれぞれ異なるだろう。
(聖書をよく読めば解るかと思うが、他の文明の神を「悪魔」としているので、キリスト教の元となった宗教及び教義を持つ人々は排斥感が強かったか、何かしらの国や団体と対立関係にあったか、便宜上「悪魔」という概念を利用した可能性もある)

もし神のような存在がいるとしても、あくまで宗教観からなる「神」であり、現実的には、人間に絶対的な都合の良い神ではないのかもしれんというのもある。

(日本では、神やその種類として荒神などもおり、様々な分野を司る、あるいは分野に座す、八百万の神々があるという点で、人に都合の良い神もいるかと思うが、そうでない神…例えば、昔流行った病魔の神とされるものもいる)

「霊」も同じくして、テレビや世間一般、オカルト界隈、色んな方面からの脚色やら、個人的観点やらが合わさったり、伝言ゲームのように本質からズレていったりと、そういう場合もある。

何を「神」や「霊」としてきたのか、という部分もあるし、昔の認識、概念から、良くも悪くも、時を経て、出来た当初のものから、変わってしまったという場合もあるだろう。

日本の時代を遡れば、もしかすると「ありがたさ」や、「畏敬」そのものを表す言葉が「神」という表現だった可能性すらある。

いわば、人のような、生き物のような存在ではなく、単なる言葉の表現だったという可能性だな。
(これも専門知識がある訳でもないので、詳しく解らんが)

「霊」は多分その類で、詳しくは知らないが、元々は「人間の霊」を指すものではなく、「目に見えない力の働きの中で、畏怖される分類」…のようなものを表す表現だったらしい。
(言霊とか、そういった言葉を聞いた事はないだろうか)

なので、そもそも古代的な「神」「霊」とする認識と、現代的なそれらへの認識が違うという場合もあるので、そういった点から現代的な「神」や「霊」とされる認識が作りものである、脚色されたものであるという可能性は高い。
(「言葉の意味」というのは使われる時代の人間にも合わせて変わって行くものでもあるが、それが脚色や、皮肉、言外の意味から転じたものの中、新たな意味として使われて定着したものも多い。「さようなら」とか、「微妙」とか)

海外のキリスト教については、キリストを一人の、現代的な日本感でいう神(…の内の人間の救世主)として、心の支えとしようと言った宗教、教えであろうなので、また日本とは微妙に違った、海外の認識からなる「神」、「救世主」といったものであり、またキリストの聖書となった、元の文章にしても、割と改訂やら改竄やら、歴史の中であって、現在の聖書になってるっぽい。

ただ、聖遺物とされるものやら、鞭打たれた時に着いた血が染み付いたと考えられる、当時キリストの来ていたとされる服などは残っているので、キリストか、キリストとされるような人物はいた可能性が高いとされている。
(何千年ともなると、血であれば尚の事、遺体の痕跡からDNAを正確に読み取る事が劣化というか、損傷により難しい場合が多いため、キリストの血かどうかは断定できないらしいが)

存在の証明なのか、熱心な教徒が、愛を持って何か成そうとしたのか、よくは解らんが、日本のどこかにもキリストとされるものの墓があったりとな。

まあ、今思うのはそんな所かね。

霊に関しては、どうせ死ぬ時になれば、真実など解ってくるだろうさ。

…また別の話、死期になると、何故か身の回りの整理をし始めたり、急に性格からは考えられないような事をしだしたり、実際に影というか、その人の存在感が薄くなって、周りの人からはそこに居るのに認識されずらくなるように感じたりとか、色々あるらしいがねえ。

もし真実を知りたい気持ちがあるのなら、自分の意見も一つの意見として、噂は噂、その当時の個人が思ったまた別の、一つの意見として、話半分に聞いておくのが良いのかもしれんな。
(俺の書いた事の全てもそうだが)
・・・小瓶を見る
烏羽
どこかと比較して軽かろうが、よくある話だろうが、そんなのは関係ないよ。
小瓶主さんご自身の人生の話なんだから。

文章から察するに、とても苦しい経験をしてきたであろう事が伝わってきた。
甘い人生だとは、微塵も思えない。

小瓶主さんではない、当事者ではない俺が、感じて来られたであろう辛さ、苦しみ、重みを詳しく解る訳でもない。
でも、所詮赤の他人の言葉、気持ちではあるが、大分ましになったと、文面からだけでもそう読めて、本当に良かったと思う。

俺自身の話、もう今は良くなったと思うが、抑うつと診断された事もあり(あまり良くない事だが、通院しなくなってしまったので病状の確定まで行かなかった)、心というか、精神と身体との兼ね合いから来る辛さ、難しさは、自分の経験した程度だけでも解るつもりだし、経験と文面から合わせて、非常に辛かったのではないかとも感じる。

どこから目線なんだとも思うし、文にすれば薄っぺらく感じるかもしれんが、よくここまで来た、よく頑張ってきた、今まで小瓶主さんがやってきた事は、凄い事なんだと思った。

許しなんていらない。
許しなんてあってもなくても、小瓶主さんには、様々に思う事、考える事が出来るし、出来ている。

自分の肯定感と言うのか、不安なのは解るし、主さんの求めている言葉ではないのかもしれんが…
「許す」と伝えるより、「愛してほしい、愛したい、安心したい」という気持ちを持った主さんを、応援したい。

そういう気持ちを、誰に言われるだとか、許されるとかじゃなく、小瓶主さんと、ご自身にとって明るいような、その湧き出た思いを、応援というのか、肯定したい。

上手く言葉にならなくてすまんな。

それと、主さんご自身の人生の振り返りを、ここに出そうとした事、文章から感じる事なのだが、あなたがここまで生きてきた分、自分自身を歩こうとしてきた分の愛は、絶対にある。

もしかすると、ご自身、ここへこの小瓶を出す事に、多少なりとも戸惑いというか、抵抗感はあったかもしれない。
だけど、それによってご自身を責める事があったとしても、ご自身の力で、自分自身を守る力もあったからこそ、今のあなたが在るのではないかと思う。

今までの事から、ご自身を責めてしまうような癖というか…、自分自身を辛い中、それでも背中を押し、引っ張るようにしなければ、耐えきれなかった事が多くあったのかもしれない。
それが今も、多少なりとも残っているというのは仕方がない。

言われるまでもないお節介かもしれないが、自分を責めてしまっても、責めてしまう事も致し方なかったのだと、それだけ大きな事だったのだと、俺は思う。
(主さんより程度は低かったり、そもそも状況が違って比べられないかもしれんが、俺自身も自分を責める事や、それ故に自傷に走る事もよくあったので、自分自身に対してもそういう心持ちでいようと言い聞かせつつ書いている)

安らげる、心穏やかに過ごせる時間が少しでも多くなると良いな。
・・・小瓶を見る
烏羽
「生きていかなければ」

お節介かもしれんが、自分自身に対しての、「〜しなければならない」という思いは、義務感を呼ぶ。

義務感に追われるような気持ちになると、辛くもなってくるのでな。

そこは「死にたい」というものと同じで、それが「死ななければならない」という思いに変われば余計に辛くなるかもしれん。

でも、今の小瓶主さんは、死にたい思いがあるとしても、「それでも未練なく、心の底から何かを楽しめる事が出来たら嬉しい」「難しく感じる事はあってもそうでありたい」

そういった感覚があるなら、それを肯定してやってみたらどうだろうか。

自分自身の気持ちというのは、意外とそういった認識も関わってきたりしてる気がする。

なんにせよ、疲れた時は、ゆっくり休んで欲しい。
小瓶主さんご自身の事だ、無理はしてもいいだろうが、無茶にはなさらぬよう。

でも、まあ、未練は、ある程度あった方がいいかもしれんな。

未練とは、諦められない気持ちだ。
時にそれは、物事へ打ち込む熱意にも繋がる。

俺には大した未練もなく、夢もやりたい事も諦め続け、何度か自殺未遂もしたが、寧ろ未練が薄かったからそうなったのかもしれんと、今思ったよ。

未練が薄ければ、恐らく大した執着もなく、あるいは大きな執着を抱こうとも、何事も簡単に諦めがつく。

本当にそれが良い事なのかと問えば、俺には解らない。

良い事もあるかもしれんが、悪い事もあるかもしれん。
長所と短所は紙一重とも言われるが、そのように、人のその時の気持ちからなる、ポジティブだとかネガティブだとかの視点や、何が結果として起こったかという場合にもよるのだろう。

とにかく、心安まる時間が少しでもあるといいな。
好きな音楽聞くとか、漫画なりアニメなり動画なり見るとかもいいと思う。
外の景色とか、アパートとかでなければ家の庭を見てみるとか、時間があれば近所周り散歩してみるとかもいいかもしれん。

あとは個人的に、物事を深刻に悩んだり、嫌な気分になっていたりする時、少し眠るとスッキリする事もあるな。
・・・小瓶を見る
烏羽
男性も似たような所があるかもしれん。

男の立場から話すと、化粧とかではないが(俺はしないので)、鼻毛やらヒゲやら髪やら整えないと不潔だとか言われるし、スネ毛やら脇毛やらもある程度処理しておかないと抜け落ちる事もあって、自身でも不快になってしまうしな。

人との付き合いにおいて、そういった清潔感は各々の程度で、気になってしまうものなのかもしれん。

まあ、毛の濃くなる程度などと同じく、体臭の強さやら匂いやらも人による上、ナイーブな話題でもあるのが周知的なので…
人と関わる上では、気にしてる奴は気にしてるし、気にしてない奴は気にしてない、気にしてもしなくても、それを口に出して伝えるかどうかもまた別、と言った感じだろうか。

女性ならどうこうという価値観ではなく、相手の意見なども含めた上で、自分がどうしたいかを優先できれば良いんだがな。

つまるところ、何のために化粧をするのか、どこに各々自身の感じる必要性があるのか、という所だ。

誰かの中で、女性は化粧をするのがマナーだと考えているならそうなのだろうが、礼儀作法において、化粧をする事で回避できる問題が、もしも化粧をしなくとも回避できるというのなら、必要があるのか疑問が湧いても来るだろうし。

また、人との関わりのみならず、化粧にしろファッションにしろ、自分自身が興味や楽しさを持ってやっている、それらを元にやり始めるのであれば、それも必要性を感じての事に含まれるのだろう。
(人に言われたから、とりあえずやるとかのレベルでも同じく)

「〇〇らしさ」、「こうあって然るべき」というのは、「こうするのが理想的」、「こうした方が良い」、といった、とある視点から見た一つの感覚で、本来的には個人から生まれた感覚だと思う。

それが、他の周りにとっても良いものだと、肯定的に理解され、広まれば、女性や男性、人間そのものの規範、ある程度守った方がいいと考えられるルール、マナー、一般的な概念、他には、それぞれ個人においての楽しみ方、興味の持ち方などへ繋がっていく訳だ。

ただ、その個人が当時持った「こうした方がいい」という感覚…
それが抜けた上で、女性らしさや男性らしさ、人としての関係、それに基づくマナーなどは出来ない訳で、その場合は要するに、形だけのものとなってしまう。

逆に考えると、その形だけの、地に足のついた部分、元が抜け落ちた行動から生まれた「性別らしさ」や、そこからなるマナーは、果たして、地に足のついた「性別らしさ」や、その場に適した礼儀作法を為していると言えるのだろうか…?

なんにせよ、何故行うのか、何故必要性を感じるのか、個人的にどこを気にしているのか…
そこら辺が見えてこないと、「こうあるべき」とか、「〇〇を理想とする」的な価値観を、俺は易々と受け入れる気にはなってこれないな。

(何故理想とされているのかが解らない為、自分の気にする事柄へ対処しようとした時、その場に適切な理想なのかも判断できないから。…そこの説明があったとしても、しっかり吟味する必要はあるが)

「〇性ならこうあるべき」と同じく、もしも「一般的」と主張されても、実際「一般的」というのは「大衆的」、「大多数的」という結果を示すだけのものであって、中身の説明や、個人の感じる正しさ、必要性、感覚などの説明にはなっていないし。

その、個人の感覚や意見、思いの見えない会話ってのは、結構不毛な結果に終わる事が多いんじゃないかと経験上思ったりする。

小瓶を読んで感じた所の「面倒くささ」というのは、そういう所から来てるような気がせんでもない。
・・・小瓶を見る
烏羽
まあ、なんとも。

横沢さんがやっている事に意味を感じるのであれば、それは意味を感じる事なんじゃない?

「他人を助ける前に」云々を考え始めるとな…
父方の親御さんだって、ネット関係に詳しいのであれば、個人情報の吸い上げには、ある程度の条件やそれに基づく限りがある事、そんな声を大にしなくても、小瓶主さんにも考える頭がある事、それぐらい理解できるだろうさ。

誰だって、向上心やら、不安やら、懸念する所、想像する所があれば、誰にだってダメな所、非は生まれる。

問題なのは、自分自身に余裕がない時、自分自身の事で手一杯な時、そういった時には些細なミスを起こしやすかったり、集中力が途切れがちだったりするので、それらの複合として大きなミスに繋がりやすい事かね。
しっかり休んだり、そう言う事が気になる程ある訳ではないのなら、別に構わないんじゃないかと思う。

まあ、ただ、親御さんの感覚というか、実際にどうかは知らんが、昔あったような「2ちゃんねる」や、悪質な個人経営ブログ、サイトといったものがなかった訳ではないし、今でも、悪質な広告や、スパムメールなどの存在はある。

そういった悪い情報への懸念、危険なものだ、悪いものだ、という思いが先行して、ショックからか、親の立場から守りたい子供に対して、危険がすぐ側にあるのではないか、もう取り返しのつかない事が起こっているんじゃないかという焦りからか、余裕のなさからか、自分の悪いイメージがすぐそこで起こっていると言った前提で話を進めてしまったのかもしれんな。
(また、多かれすくなかれ、そういう親世代もインターネットを利用していた筈なのに、こう言う話になると大体子供を怒鳴りつけるばかりで、本質的な危険についてあまり説明が少ない傾向にあるというのもあるらしい)

親としては守りたい気持ちで一杯なのかもしれないが、実際主さんがこうなっている所を見るに、現状逆効果だろうしなあ。

横沢さんの正直な、素直な気持ち、どうなのかも解らんが、親をちょっとだけ汲んでやって、「心配しているのはわかるし、SNSに対しての認識が軽率なのもわかったが、自分で考える頭もそれなりにある」という事など、ご自身の気持ちやら、思う所を伝えられたら…

どうなるのかも解らんが、現状それぐらいしか思い付かんなあ。

まあ、家庭での人間関係なんて様々よ。
無礼を承知で、親も、単なる人として見たとき、人格や行動は完璧なんかじゃない事はあるだろうし、苦悩する一人の人間なのよ。

で、俺も宛メというか、そういったSNSをやっていた中、話の流れでそれがチラつく事があった。
そこで親からの理解のなさを感じた事はあるが、まあ、ショックだわな。

小瓶を流したかどうか忘れたが、当時それについて悩んでいたような小瓶か、返事の内容を書いていた記憶がある。

人間関係、それも家族間においての問題となると、親と子のどちらにも、その諍いの元になったという視点からの要素というか、原因がある場合も多いので、事細かな事は言えないが…

親と子という社会的な立場以前の、同じ人間としての関わり方の問題かもな。

あまり他所の親御さんの事に口を出すのも、自分でもどうかとは思うが、何か危険がある、それを知らしめる事として、反射的に怒鳴ったりしてしまったのかもしれん。
それでも、流石に齢20の境ともなれば、ある程度物事の判別くらい付くだろうし、高圧的と言うか、圧力的に、もしくは皮肉って、わざわざ貶めるような言い方をしなくても理解できるだろう。

それも大の大人が寄ってたかってだ。
感情的になってしまう、それ程大きな事だったのだろうと酌量はできるが、数時間もすればある程度冷静に、客観的にもなってくるだろうにな。

仕事があれば上司やら部下やら管理職やら、色々な立場から揉め事などをそれなりに経験している筈で、ただ怒鳴り罵る言葉を素直に聞き入れたいと思えるかどうか、子を本当に守りたいと、心底から考えればよく解るだろうに。
(あれこれ言ったが、人間皆学びの途中であるとも思うので、言葉通り以上の情感も湧かない)

ただ、俺にも言えるが、どんなに気を付けていても悪い事と言うのか、人間関係での良くない事が起こる時はある。
本当に些細で、誰に非がなくても、ちょっとした認識のズレなどから起こる事もある。

3歳だろうと19だろうと、25だろうと、30だろうと50だろうと、幾ら隠そうとしてもバレる事もある。
思い通りにいかない事なんて、年に関わらず山のように溢れかえっているだろうさ。

主さんがだらしないとすれば、俺なんてもっとだ。宛メを利用してる事が親どころか兄弟、親族にまでバレてやがる。

この広がり方は誰かが教えたとしか考えられないし、俺も含めて、杜撰でデリカシーのない家族だよ、まったく。
(そういうのやら、あまり口に出したくない事もあったので、絶対に信用しない事にした)

対処する努力などを怠っていいという訳ではないが、場合によっては、誰に非があるとか、そう言った事は明確に知る事が出来ないし、責任を問う事も難しい事がある。
なので、一概に自分が絶対的に悪いものだと、ご自身を責め過ぎるな。

責めて責めて、もし昔の俺のように、何もできないと思い込んで、行動もしない状態になればそれこそ愚か者だと思う。

出来れば、余裕のある、元気な時、気が向いた時にでも、自分を責めるより、思い浮かぶ範囲で何がいけなかったか、どうすれば状況が良くなりそうなのか、という事を考えてくれ。
その時考えても答えが出なかったり、解らなければそれでもいい。また時が経った時に考えればいいからな。

後悔も、責めるのもしょうがない、反省する為には大事な事かもしれんが、ご自身を責める事で、動けなくなってしまっては元も子もない。
自分勝手な、個人的な感情なので、所詮他人事ではあるが、それは昔の自分を見るようで辛くもある。

横沢さんのこの小瓶や返事やらをチラホラみた限りでは、特に気分を害されたと感じるものはなかったので、誤解なきよう。

資格だのなんだのご自身である程度解っておられるかと思うが、そんなもん必要ない。
もしもあるとすれば、人としての節度や思いやりかと思うが、今までからして、横沢さんにもそれなりにあるのだろうと感じるしな。
・・・小瓶を見る
烏羽
知ってもあまり得しないけれど、人間や生き物は、皮膚でも周りの色を認識しているらしい。

また、自分の体験だが、凄く疲れて、今にも眠りそうって時に、目を瞑ってでも起きていると、なぜか部屋の周りの景色…、家具や寝具がどこにあるかと言うのが…、目に入るものより鮮明ではなかったが、とてもぼやけた映像として見えて、どこに何があるか理解できるものだった。
そこから、ベッドへと吸い込まれるように体が動いて、入った事を思い出した頃には寝ていたと言う、説明してみても変な現象があった。

もしやあれか、幽体離脱的な何かだったんだろうか。
記憶が確かなら、確かに目を瞑っていたと思うのだが…。

それにしても裸眼はいいよな。
何より、メガネのフレームやレンズの境界が映り込まない。

コンタクトも、どうも目のゴワつきというのかが拭いきれないので、あまり好きじゃない。

俺も裸眼でいたいので、瞳孔周り?か、水晶体を調節する筋肉がなんとかならないものかと、トレーニングじみた事をやったりするが、効果があるのかもよく解らないな。

あと、筋肉や細胞的、水分的な関係から目は疲れて消耗するので、休ませたり、瞬きによって目が過度に乾かないように、気が向いた時気を付けている。
適度な水分、湿気がある事によって、目の細胞が酸素を吸収できるので、それが視力にも関わっているらしい。

趣味か…。

五感を失ったとしても、ぼーっとする事と考える事が残るな…。
だけど、考えるという事は、感じるものから繋がる事も多いので、五感を失った上での考えると言う事は果たして本当に「考える」という区分なのかどうか…。

また、ぼーっとすると言うことも、ぼーっとしてない、考えている時の状態あって生まれるものなので、どうなのだろうな…。

まあ、五感を失いたくないのは確かだ。
・・・小瓶を見る
烏羽
(もしかすると、意味が伝わるがために、この文章も小瓶主さんの心を抉ってしまうかもしれませんので、もしも読まれる事があるのであれば、ご注意を。あと、とても長くなったので、その点も予めご了承ください)

解る。

なんというか、言っちゃあ悪いがアホくさいんだよな。

満腹な人間は満腹だし、腹の減っている人間は腹が減っている。
食料が大切なものという認識は肝心だが、食料問題のある国や地域の問題を、食料供給の充実した中の人間の内、これ以上食べたら吐きそうって人に推し進めて、無理やり食べさせるが如きアホくささだ。

上も下も、そんなもんは比較的なものであって、どこを上とするか、どこを下とするかによって幾らでも変わりうるのに、勝手に最底辺を決めて、今ある現状を最上とするのもおかしな話。

人間の食料問題がと言うのなら、そこらで餓死する虫や野生の動物たちはどうなるというのか。

また、野生動物たちの中にも、ストレスからものを食べなくなってしまう、つまり食欲がなくなってしまう事さえある。

その他にも、生物としての食べ物の処理限界というか、人間として、アレルギーのある場合もある。

全体的な構図を知るのも確かに大事な事だし、満たされていない場所から見れば、満たされている場所は有難い事だというものから、当たり前だと思う事が実はそうではないと言う認識も大切な事だと思う。

だが、満たされている場所から見た、満たされていない場所という認識も、ほんの少し間違えば傲慢なものの見方になりかねない。
(助けるとか救うとかの言葉にも若干感じる事だが、俺はそういった所から、比べる事への失礼さを感じる)

その上、どのように満たされていようがいまいが、それぞれ抱えているものや、問題とされているものは異なるので、「あっちは貧しいけどこっちは裕福なんだ、食べ物は残しちゃいけない」と一辺倒に言われても、立場も違う、あちらの世界ではなく、いまここにある現状のなんの解決にもならないし、最悪ただただ的外れな言葉になってしまう。

教育として教えなければならないのは、もののあり方ではなく、そういったあり方から見えてくる認識を、どういった良い行動に結び付けるか、という所にあるのではないかと思う。

つまり、その人その人にあった、それぞれの立場から見た、それに沿った形の活かし方というものがある筈で、そこが大事な事ではないかと思う。

世界が〜、などという言葉で、確かに良い方向へ行けるものもいるかもしれんし、救われた人もいるかもしれない。
その言葉を使う場面の全てが適切でないとも思わない、が、そうでないものもいる事は間違いない。

そもそも、大人も結局は人だ。あまり考えていない場合もあるのだろうな。
あるいは横着しているのかもしれん。

創作物でよく、正義の反対は悪ではなく別の正義だとかいった、正しさの反対は、悪ではなく別の正しさだというものがあるが…

そもそもが、人それぞれ持っている、正しい感性や、こうありたいという理想、正常や普通だと思う感覚は、千差万別、バラバラなものの筈なのだ。

小瓶主さんの思う思いも、間違いとか正しいじゃない、小瓶主さんの持っている思いとして「当然」、「個人としてあって当たり前」の、正常な感覚だと思う。

(その個人の内へ感覚や、個対群などの違い周りの事が、教育においておざなり過ぎるように感じる)

小瓶主さんが出来ているような、その場への考慮、配慮もせず、一辺倒に世界がどうだの、便利な言葉として使い、あまつさえ「だから」などと、強制しようというのであれば、それはただ、個人的な正しさを押し売りしているに過ぎんのにな。

なんというか、「世界」という言葉がバックについてるから、偉い事を言ってる気になっているんじゃないか?
誰かが言っていたり、教科書に書いているから、あたかも正しい、それが全てにおいて当然な感覚だと疑いもせず鵜呑みにして、意味もよく解らずに使っているんじゃないか?
そういった、馬鹿らしい邪推さえ思い浮かんでしまう。

そんなもの、別の視点から見て、人への尊重も、個人への理解も何もなく、押しのけるだけのものであれば、押しのけられる当事者にとって「悪」でしかないものを。

まあそんな下らん話は置いといて、小瓶主さんが人を救いたいと思うのなら出来るだろうさ。

現に今、俺は、なんともモヤモヤした胸糞悪い、抱えていた思いがスカッとした。
自分と似たように感じる方がいて助かった。

それに、昔の俺は、別に生きていたくなくても、死にたくても、生きてはいたし、生きて来れたんだ。

どこに生きたい人がいようと、生きられない人がいようと、自分自身がそこにある事には変わりない。

いろんな世界があると知って、そこからどうありたい、どうしたいという事に関係はしても、今何が出来るか、出来ないかという事には関係ない。

小瓶主さんだって、そうだろう。

何が人じゃないのかはよく解らんが、小瓶主さんだって、生きる事や死ぬ事、人の事や自分の人生、いろいろな事を考えて、悩んでいるじゃないか。

十分過ぎるくらい「人らしい」と思う。

…ただ、相手への影響を慮れないような、そういった教師側の人間もいるし、大人といっても結局同じ人間なので、教師側も同様に道徳というか…
相手への思いやりを学ぶ事は、人間関係において大事かもしれんな。

文中からではあるが、小瓶主さんには人間関係における思いやりや節度もあるように感じるので、現状問題なさそうだとも思うがね。

小瓶主さんは、自分の持つ優しさなどから、自分ができる事の少なさに耐えかねたのかもしれない。

だけど、他の世界、他の場所の、それぞれの人がそうであるように、小瓶主さん自身にも、人生があって、何の価値もないと仰られているかもしれないが、その中で悩んできた時間もある。

それはある種辛くもあるかもしれないが、良くも悪くも、誰かが、取って代わる事は出来ない。
認識が変わる事はあっても、比較する事で、どちらがなくなるというものでもない。

それを偏っていると言うのなら、個人の感覚をないものとして扱う事、無視する事と同じだろうしな。

そもそも、小瓶主さんとして、世界の様々な人たちの事を考えると、そこから自分の事を悪いんじゃないかと考えてしまって、悩み、苦しくなってしまったのだろう?
なら、幾ら紛争地帯の人々から比較して見て「平和」であろうが、小瓶主さん自身の心の内は「平和」ではなく、穏やかではなかったのだろう。それもあって、人を助ける程の余裕がなかったとも考えられる。

そんな余裕もない状態、自分の悩みで手一杯な状態で、人の事を助けようとするのもかなり骨が折れる。
とても大変な事だと思う。

元気があって、余裕もあって、気が向いている時に出来れば良いよ。

疲れていると集中力も落ちるし、そのために失敗も多くなりがちになる。

募金する事だってそうさ。

…実のところ、募金する事にもいくつか問題があって、募金の集金されたお金が、不正に横領、支援したい国や場所へ届かず、集めた人達が勝手に使うなんて、馬鹿げた、悲しい事件もあった。

また、募金などによる食料供給の充実から、人口が増加して、さらに食料や、支援金、人手や医療、その他の教育機関が不足したりという事もある。
現状どうなっているか解らないが、その周りがおざなりだった事もあるしな。

支援するのはいい事なのかもしれないが、安易に支援しても、次の問題や、今まで積み重なっていた問題を大きくしかねない、表面化させかねない、というリスクもある。

先進国という、発展の段階にある国から比較して、産業などが発展、開発の途上とされる発展途上国への援助にもそういった問題がある。
(化石燃料やら、フロンガス、鉱物採掘および金属加工などによる大気汚染や、温暖化、住む場所や火種を求めた伐採からなる、森林減少、飲料水の確保の為の、地下水の急激な汲み上げによる地盤沈下など)

多分、そういった現地的な問題を知っている人も、教育陣の中では少ないか、なかなか複雑な事もあって、説明も難しいだろう、知っていて教えていないのかもしれんな。
(よく考えた方がいいと思うのだが)

まあ、金銭的に余裕がある時に、したい気持ちがあれば、募金すりゃいいよ。
余裕ない時に無理して金出しても、生活費が関わってくるとなれば、実生活的に困る事もあるだろうしな。
(逆に言えば、1円でもいいし、それが一人一人、積もり積もれば大きな支援金になる可能性もある)

遠いどっかの国やら、地方だけに留まらず、どんな人でも、支援したい、助けたいと思うのであれば、自分自身が元気であるかどうかも大事だと思う。

例えばお金も食べるものも全部分け与えて、その人自身がボロボロになってまで、倒れてまで、そんな必死な姿で助けられたら、どう思う?

感謝されこそ、多少なりともその人の事が心配にならないだろうか。

なので、自分自身の抱える深刻な問題というか、立っていられないような悩みがあるなら、それをなんとかするか、余裕があって元気な時、手を伸ばせそうな時に、助けになれる事はないか動ければいいんじゃないかと思う。

自分自身の体調管理や、元気や余裕。
助けようとする地盤として考えれば、そこを整えようとするのも立派な一つの出来る事だと思う。

まあ、動かなくていいための、見せかけのていのいい、そんな言い訳にはしない事も大事だがね。

道徳、思いやりをなす為には、地盤としてまず個人が存在する事が前提になる。

つまり、相手の意思の尊重のみならず、個人を成り立たせている、自分の意思の尊重も大事なんじゃないかね。

どちらも同じ人としての意思なのだし、社会的な立場は関係がないと言うか、そもそも社会を成り立たせているのは一人一人の異なる個人だからな。

教師と生徒や、上司と部下、親と子など、社会的立場を重視するのであればこそ、それを成り立たせる為にこそ、人間関係の基礎、道徳、互いの思いやりが大切になってくると思う。

とにかく、悩んだ事におこがましいなんて事はない。
小瓶主さんご自身の人生に関わる悩みだろう。

罰なんてこない。
それを言ったら、他の生き物たちはどうなる。
彼らは他の生き物を生きたまま食い殺すこともあるし、餌の横取りなどザラにある。

他の生命体への関わりを考える事もあるだろうが、あろうとなかろうと生きて死ぬ。

何も変わらんよ。いくら人間が、他の生き物より脳が大きかろうと、命は命だ。
生あるものは平等に土へと帰る。

まあ、解釈次第では、その「死」への理由付けとして、キリスト教でいう原罪といったような考え方もあるが、宗教は宗教だしな。

人間の認識が、本当に真実に近い所にあるかどうかは解らない。

俺自身、自分の事がおかしいかどうか、認識が狂っているかどうかは解らんが、少なくとも俺の持つ感覚からすれば、親御さんが放った「おかしい」という言葉はおかしく感じる。

例えば、獲物を殺した肉食獣がいるとして、それは殺された側や、殺された生き物の家族から見れば悪になるが…
殺した獲物を細かくちぎって、肉食獣の産んだ子供の為に分け与えるとなれば、その子供達にとっては善となるだろう?

正義や正しさの反対は、悪ではなく、別の正義や正しさだと書いた所と同じだ。

程度の違いこそあれ、俺が今自分の考えを説明しているように、親御さんからは、その時感じた親御さんが持つ基準や、当たり前だという感覚から来る「違和感」を「おかしい」という言葉として押し付けられたと言う訳だ。

つまり解るのは、親御さんが「おかしい」と思っているという事だけで、本当に小瓶主さんが「おかしい」かどうかも何も解らん。

また、親御さんが、小瓶主さんへ持つ、「何に対して、どうおかしいと思うのか」という事もよく解らん。

ただ、そう言う事を含めた上で、親御さんも同じく、人として、命として垣根のない人間だ。
経験数の違いや大きさの違いがあると言っても、小瓶主さんのように、誰かに泣きつきたくなる事や、ショックを受けた時、気が動転するような事もある。

自分の子供がこんなに苦しんでいると知った時、真っ当な親であれば少なからずショックを受けて、自分に非が、悪い部分があったのではないかだとか、色々と考える事もあるだろう。

そのショックを受けて、余裕のない時に、上手く頭が回らず、感情的に、思ってもいない事や、思考としてまとまっていない言葉を怒鳴ってしまう場合もある。
(そもそも、自分の感情を言葉で表現する事に慣れていない場合もある。年齢は関係がない)

俺も実際、死にたいだのなんだの言った時は、いきなりビンタされて、「なんでそんな事言うの!?」なんて怒鳴られた事もあるしな(苦笑)
(何故死にたいなんて言うのかって、口に出した俺こそ知りたかったわ笑)

そんなもんなのかもしれんな、深く考えて来なかったり、今までに思いもよらなかったであろう衝撃的な出来事にあった時の親の反応なんて。

まあ、なんだ、何が間違っている、何が正しいなんてものは、一人一人の感覚であって、人間関係の上で、正しさと正しさがぶつかり合っても、嫌な思いを感じる事や、最悪争いになってしまうので、その一人一人がお互い過ごしやすいようにするためのルール、基本的な事として考えられたものが道徳や、思いやり、マナーや礼儀とされるものだと思う。

人間関係から成り立っている、社会というものにおいて、そこが重視される訳だ。

その教育が間違っているかどうかと言うのも、正しいかと言うのも解らんが、少なくともある一つの人間関係の中では、小瓶主さんのように感じて生きてきた人もいるという訳だな。

正しいか間違っているかも解らないが、現実の一つとして存在している出来事だ。
・・・小瓶を見る
烏羽
死んでいい理由は特になくても、死にたい理由はある。そして生ある身、いつかは死ぬ。

それと逆に、生きていていい理由がなくても、今こうして生きているんだから、理由なく生きていたって何の問題もないさ。

もしかすると、家族は、自身の感じた嫌な事、ショックな事を、小瓶主さんに、ある種の甘えとして、押し付けてしまったのかもしれないと思った。

それに対して、別に家族の肩を持つとか、特に事情が解る訳でもない他人として、何を確かに考えられる訳でもないがね。

まあ、でも、多分、小瓶主さんが居なくなっても、そういう行動を繰り返してきた人というのは、また対象を変えて、別の何かや、ものにあたるだけかもしれない。
自分で勝手に不幸になるというかね。

殆ど憶測ではあるが、そういう人たちから受けた嫌な事は、その人達のせいなのだから、あまり思い悩まないでほしい。

特に、迷惑だとかいった弱みのような言葉に付け込んで、言葉にしろ物理的にしろ、暴力の免罪符にするような奴もいるからな。

生きる事に迷惑もクソもあるものか。
そもそもが、どんな人間、生き物も、何かに頼らなければ生きてはいない。
その関わりを迷惑とするなら、人を故意に傷つけている分、そいつらの方が大迷惑だろう。

あんまりにも離れたくて仕方がないとかだったら、親の親、爺ちゃん婆ちゃんとか、学生さんであればスクールカウンセラーとか、自治体の無料電話相談とか、信頼できそうな人に頼ってみるのもありよ。(宛メでも良いだろうし)

それに、そういった行動を取れたりするのも、小瓶主さんの命あっての物種だからな。

一瞬一瞬の中、小瓶主さんがこうして、死にたいと思いながらも手探りでここに辿り着き、思いを書こうとした事のように、死や生への方向性もあるが、生きている中で進む意思はあるだろう。

死にたくても死ねなくて、だけど生きていたくて、生きていていい理由が欲しくて。
その為に、生きてていいんだと思う。

もしも迷惑だと思う事を気に病んで、それを払拭できないでいるのなら、嫌な事された奴に対してするかは別として、生きている中、何かしらの形で返す事も出来るだろうしさ。
(恩を感じるのであればね)

苦手じゃなければ、また辛くなった時、誰かとでも一人ででも、カラオケに行くのも一つとしていいかと思う。
カラオケじゃなくても、家に人がいない時(バレるとなんかめんどくさい)とかでもいいと思うが、思いっきり歌うとスッキリするぞ。

また宛メに来てもいいと思うし、気が向いたらその時々に、自分の気持ちをノートに書き殴ってみても、多少なりスッキリするかもしれない。

生きていたい気持ちを優先したいのであれば、ストレス発散や、気持ちを落ち着ける方法、安らげる方法などを検索してみてもいいかもしれんな。
・・・小瓶を見る
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