LINEスタンプ 宛メとは?
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烏羽 さんの小瓶箱
烏羽
少し頭のネジが外れていますが、私は元気です。
Vtuberはいいぞ…

名前は、解る人に解ればいいという気持ち等から。
伝える事をはなっから諦めてるという意味ではないのであしからず。
固定された小瓶
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烏羽
(長いので、時間にゆとりのある時、見ていただければ幸い)

自分の事は、自分でしかなんとかできない。確かにそうだ。

だけど、それは他人を頼る事も含めた上で、「変えたいのなら、自分の行動でしか自分は変えられない」って事なんじゃないかと思う。
(他人はそのお手伝いしか出来ない)

少なくとも俺が思う所の「結局自分自身」的な話は、「一人に責任がある」とか、「一人でなんとかしろ」って事ではないんじゃなくて。
自分の人生は自分でしか生きられない、みたいな?

健康というのか、正常というのか、傾向的な話なんだけれど、人間の摂理としては、正直ショックな事や辛い事があれば、それにまた直面するかもしれない状況を避けたくもなるし、直面していれば尚の事不安にもなってしまう。

それで動けない時は動けないし、しょうがないんじゃないか。

でも、それはそれとして、小瓶主さんはご自身の状況をどうしたい?
心療内科などを受診されているのかどうか解らないが、その状況をどうにかしたいから薬を飲まれているんじゃないんだろうか。

(医療機関で受診されてないなら検討するとか、もうされていて、それが上手くいっていない感じがするなら、小瓶主さんの任意で、今受けている医師に紹介状などを書いてもらって医者や病院を変えてもらうとか。

また、今回小瓶に書いた文を見せてみる、もしくは小瓶に書いた文の中から、「まともに取り合ってくれないのが分かってるから気持ちを言えなくなり、自分でなんとかしようにもやり方がわからない」とかを抜き出して、伝えてみるとか。

いっちゃあ悪いけど、医者も人間なので、気が合う合わないはあるし、それぞれの医療機関ごとに方針が違ったりする場合もある。
他、小瓶主さんの生活上、家族なんかに理解がなく苦しい思いをされているのなら、医師に相談して、家族などに説明してもらうって手もある。

あと思い付くのは、ストレス発散方法とかを調べてみるとか)

共感なんかは求めてないかもしれないけど、俺も死にたい気持ちを抱えてきてて(現状は平気)、自傷もしてたし、2、3回自殺未遂(生っちょろいもんだが)もした。

あの頃、死にたいという思いは消えなかったし、勿論、苦しかったのも記憶にある。
何をしても無気力だし(これは今も若干ある。医療機関で詳しく診察を受けたわけではないからなんとも言えないけど、年代が比較的若い人に見られる場合の、鬱が進行した状態だそうな。こうなると自分で動くのも難しくなっていくケースがある)、何をしても楽しいなんて思えなかった。

深刻に死にたい気持ちを抱えながら生きているってのは、小瓶主さんの仰るとおり、いつ死のうとするか解らない状態なんだと思う。

俺と小瓶主さんを比較しようとしても、状況も背景も理由もそれぞれ、似た所があるとしても違うだろうから、こう言うのも変だとは思うし、場合によっては小瓶主さんを苦しめてしまうかもしれないんだけど…

俺の…鬱なのか、それとも鬱で統合失調症も合併してるのか、よく解らんこれが、治るかどうか、また解らん。
死ぬまでには治るかもしれないし、死ぬまで続くかもしれない。でも、俺はまだ生きてる。

今のところ、大して生きたいという思いもなく、死にたいという思いもなくなったが、生きてはいけてるぞ。

…いや、だからと言って、何だと言われれば何でもないし、「こんな俺が生きてるんだから小瓶主さんも大丈夫」とか言いたい訳じゃないんだがね。
死にたい気持ちがあっても、生きては来れたって話よ。(一つの参考)

まあ、死ぬか生きるかはさておき、生活に困っている状況でなければ(生きてはいれるのであれば)、今無理に動こうとする必要はないんじゃないかね。

先延ばしと言ってしまえばそうなのかもしれないけど、直面して、辛くてどうしようもない、動けないってなるなら、逃げるというか、戦略的に撤退した方がいい時もある。

俺はそうした。
だけど、結局恐怖心がなくなるかというとそうじゃない。
体調、気分などによっては恐怖が薄れる事もあるかもしれないが、消える訳じゃなかった。

だから、もしかすると、「恐怖心はある、けれど、その中ででも行動する」というような、いわゆる「覚悟」みたいなものは必要なのかもしれない。
(あるいは恐怖の中でもある程度平気でいられる方法、なんらかの対処法とか。方法は多く知らないのだが、数回深呼吸すると、恐怖による動機は幾らかマシになる)

だから、その覚悟をするというか、気持ちに整理をつけてから、あるいは、「仕事で何が嫌だったのか、今後どうすれば対処できそうなのか」をある程度、探したり考えたり相談したり、軽く試してみたりで、それから向き合ってみるというのでも良いんじゃないかね。

物理的に脳の回路というのか、構造が変わるまでには時間もかかる。
気が向いたらでもいいので、医師や自分自身の状態と相談しつつ、少しずつ改善や、好転に繋がる行動ができれば、今はそれで良いんじゃないか。

向き合おうとするばかりじゃ疲れてしまうので、楽しみがあるんなら、それも楽しむとかさ。心にちょっとでも余裕があると感じられた時にな。
・・・小瓶を見る
烏羽
(文字数が多いので、読む時間にはお気を付けを…)

じゃあ、ちょっとした数学の問題を出してみようかな。
簡単なものかもしれないし、任意なのでしなくても良いが、時間にゆとりのある時とか、少し手の空いた時にでも、どうぞ。

問題
正の整数(最小値は1)において、2つの連続する奇数の和が、4の倍数になる事を、足し算を使って証明しなさい。なお、かけ算や、nやxなどを用いた文字式は、使わないものとする。


…答えは他の誰かか、解けたご自身に聞いてくれ。
俺は数学者でもないし、どっかから引っ張り出してきた問題でもないから、正確な採点ができない。
ただ、そんなに難しいものでもない筈だ。(少しめんどくさいだけで)

問題と向き合う事が好きかと問われると、俺自身そうでもないんだが、興味があるものを考える事とか、興味対象に含まれる問題となれば話は別でな。
(数学的要素までを含んだ厳密なものではないが、主に哲学とか心理学とか生物学、量子力学とか、発声とかゲームとか漫画とか色々)

英語のFワードとか、外国の汚い言葉やスラング、使い方とかを遊び感覚で調べたりしたもんだ。
さすがに教師相手にF○ckだのと口を滑らせるつもりはないが、筆記の授業での課題文に混ぜてみたりして。

まあ、ある程度、出した問題文から察せられるかとは思うが、最近は少し数字について興味が出てきたという訳だ。

あとは…、少し聞くが、勉強だけでなく、軽い運動(散歩などの有酸素運動)とか、カラオケや合唱とかで歌うような、声を大きく出す事とか、そういう事って最近してるかね。
どうやら、そういうのが心身に影響する事もあるらしい。(俗に言うストレス発散って奴)

まあ、そうだな。
勉強バッチリで、テストや将来にあまり不安がないってんなら、どういう家庭の感じなのか解らないし、そんな状況でする話ではないとは思いつつ…
もしご自身で取れるのなら、自由時間を取ってもいいんじゃないかね。

ずっと解り切ってしまった、同じ事をやっててもつまんないだろう。

とはいえやはり、言わなくても解るとは思うが、社会に出るのであれば、時間の管理は大切になってくる。

たまには、勉強を休む日とか、時間を、できるなら計画して、好きな事やら、興味のある事、チャレンジしたい事やらをするとかは思い付く。

筋肉と一緒よ。運動し過ぎて、適度に休むなり自由に動ける、遊び(←余裕やゆとり的な意味)がないと、消耗するばかりで痩せ細るか、あくまで例えだが、肩こりや四十肩みたいになってしまう。
(遊びすぎも同じく駄目なんだな、これが)

パズルみたいなもんでさ、今目の前にある状況、人生の中へ、自分のやってみたい、楽しいと思うかもしれない事、少しでも興味があると思う事を組み込めばいい。

…それを思った通りの行動に移せるか、活かせるか、成果をあげられるかまでとなると、難しい面もあるかもしれんがね。

でも、つまらないままでは居たくないんじゃないか?

…見方によっちゃあ、俺は悪魔の囁きみたいな事をしてるが…、人生の形を自分で選ぶのも、自分の人生だって話さ。

悩むなって事じゃない。
後悔するなって事でもないが、人生に選択の、厳密な誤りなどないと思う。
あるのは現状、あなたが、この、つまらない事をどうしたいかって事だろう。
そういった事の連続だよ。

それが良い事なのか、悪い事なのか、結果の起こった後に判断するのも、あなたにしかできない人生の選択じゃないかね。
(だからこそ、この小瓶を書かれた時は、「いつ選択を誤ったんだろう」と書いたのだと思っている。そして、それがその時のあなたの選択、意思なのだと思うから、詮無い事ではあるが)

また、俺自身も勘違いしやすい事だが、「あの時こうしていれば良かった」と感じるのは、「あの時を超えた地点にいる自分」だからな。
あの時の…、過去の自分が考えられる事なのか、認識できる視野なのかと問えば、そうではないだろう。

寧ろ、今、現時点だからこそ、向かえそうな、好条件そうな、そういった地点が見えるというだけだ。
過去では、それが最善、または良いものだったり、その時取れる行動の一つ、運の絡んだものだった。

だから、自分の選択の全てが、自分の人生の全てかと問えば、個人的には、そうではないと思う。

…はは、もしかすると勘付いているかもしれないが、小瓶主さんは「人生」という問題に直面しているな。
(考え方次第でもあるが)

人生の中の、人との関係や、自分の気持ち。過去と今と未来。

小瓶主さん自身にはあるか?
問題と向き合う時、どんな風に構えたらいいのかというものが。

俺には特に…、確立されたような、明確なものはないが、強いて言うなら問題文の確認が最重要って事と、自分自身が何を書こうとしているのか、何を書いたのか、それも確認するよな。
(出来ない時やしない時もあるが)

「人生」、こればかりは面白いというより、喜怒哀楽全てを込めた、興味深い奥深さがある、…そうだな、interestingという言葉が適切だ。
なんつって。

だが、人生という問題に向き合った時、現実的な話、考えても答えが出ない事などザラにある。

人生を問題にしているのは、あくまで考え方。問題として見る考え方を持つ、自分な訳だからな。自分の知らない情報や体験を答えとして出す事は出来ない訳よ。

人生に、明確なルールから来る答えがあるかと問うたり、未来が全て悲しみに包まれているか、楽しさに包まれているか、幸せと不幸はどのくらいなのか、そんなのなんとも、はっきり答えられないしな。

答えを出すのか出さないのか、それ自体も問題に含まれてくる。

まあ、考える時間は生きている分だけある。

だから、もしつまらない状態の今とは逆に、この先楽しい事があった、その時に、人生はどうかと考えてみたらどうだろうか。
どんな人生が見え、どんな答えが出るのだろうな。

当然ではあるが、人生の中で、自分は揺れ動き、例え自覚として、変化がないように思われても、確実に変化していくだろう。

ならば、答えは、その時々によるものも、ある。

自慢はできないし、オススメもできないが、人生とは何なのか、自分や命とはなんなのか、などと、考え続けていたりする人間も、ここにはいるぞ。

答えではないが、その結果は、人間の機能や、人間という概念そのものと向き合うハメになる、だ。

とりあえず、無駄話も含めて長くなったので、このくらいで。

最近寒くなってきたから、もし電気ヒーターとか、エアコンとかで部屋をあっためるとするなら、喉の乾燥には気を付けてな。
適度な湿り気がないと、人間の免疫機能も働きづらいから。
・・・小瓶を見る
烏羽
訓練次第では、感情はコントロール(抑制)出来るらしいが、実際の所、抑制は出来ても、恐らくその感情が消えるという事はないんじゃないかと思う。(薄まる)

じゃないとコントロールじゃなくて、それこそ生まれた感情を何度も殺すような、好循環とは言えないものが出来てしまう。

その薄まり(感情が消えない事)を「コントロールではない」と感じるのなら…、見る人によっては嫌な表現になりうるかもしれんが、言ってみれば、「過ぎたるは及ばざるが如し」って奴なのかね。

個人差というのか、どこまで感情をコントロールできるかはそれぞれに置いて事細かに解らんので、正直「薄まる」という感覚も個人的な考えに過ぎんのだが…

その、過ぎてしまう程、「感情をなくしてしまおうと」思う程、大きな出来事があった事、心に傷を負うような事があった可能性は考慮したい点でな。
だからこそ、過ぎてしまう程にコントロールしようとする事で、その過程により傷付いた心が、更に傷付いてしまうような事には気を配りたいと思っている。

良くも悪くも、人間は思い込む事で、記憶、延いては意味や感情さえ都合よく上書きする事が出来る。
心の形さえも…、そうなのかもしれない。

もしかすれば、「心」と「自分」が近い距離にあるが故に、常に影響を及ぼし合っている位置関係にあるのかもしれん。
見つめ方を変えてみれば、日頃から心と自分を修復、生成し続けている、とでも言えるだろうか。(だからある種の不安も希望もある)

法的に確定するまで、死亡と断定し、メディアで取り上げる事が出来ないように、解らない事は解らない、推測は推測だ、などと、そういった余地が、考える事、思う事の中においては必要なのかもしれない。

ただ、まあ、感情をコントロール出来るからといって、それが必ずしも「できた人間」へと結びつくのかというのは、何を立派と考えるのかという、人の志次第だと思う。

多く、人間は中途半端で、そこに惑いもするが、だからこそ完璧ではない、不完全さを持つが故に、一生涯向上し続ける事が出来るもんなんじゃないだろうかね。
・・・小瓶を見る
烏羽
(一応読み返してみて思ったので補足。長文失礼)

ああ、いや。
俺の書いた返事がどうにも、突っぱね気味な感じがしたので、もしも嫌味に受け取られていたならすまない。

そうじゃなく、本当に座右の銘なんていらない程、心に思ってる戒めが多いんだ。

昔は色々持っていたし、そういった座右の銘というか、格言みたいなのを調べてた事もあった。
また、自分で作って遊んだりもしたもんなんだが、結局言葉は「言葉」でしかないってことに気付いてな。

その、格言とかは、言葉を放った人の人生や、会話中の文脈あってこそ、意味を成すものだろう?

その人の人生や会話の流れを知らず、言葉だけをみても、結局それは、切り抜かれた、一枚の写真のような、ピックアップされた言葉を見て、想像したものに過ぎない。
(その人がどういう意味を込めて言葉を発したか情報が足りず、想像できないと、その人が言葉に込めた大事な部分も見えてこない)

小瓶主さんの座右の銘は、そういった事柄とは違うようだが、俺は自分の見てきた格言とか、名言とかいう言葉に対して、そう思ってね。

要らなくなった…というか、背景や中身あっての言葉だし、言葉にならなくても、しなくても、経験に意味はあるんじゃないかと思ったんだ。
(それを覚えていられたなら要らないと思ったし、逆に座右の銘というか、まとめた言葉にする事で覚えやすくなる事はあるらしいから、必要ない訳でもない)

だから、嫌味とかじゃなく、バックグラウンドの存在する座右の銘ではある。
結局、「座右の銘がない」って事ではあるんだけど…。

…意地の悪い事を書くと、こういう、言葉の背景を知る内に、何でも格言になってしまえるもんなんじゃないかと思っちゃってさ(苦笑)

「人間、年齢も物も生き物も関係なく、身の回りにある全てのものから学ぶ事ができる」、ってな。

はは、まあ、これは昔思った言葉だが、後々知ればそれに似たような格言があって、ビックリしたやら、やっぱりそうなんだなと納得して感慨深いやら、色々思った事もあった。

もちろん、どのような思いを乗せて言葉を表現したのかは異なるのだろうが、誰か偉人や、他の人の言葉と、自分の作った座右の銘が似かよるのは、なんだか面白い。

似ているだけじゃなく、自分の表現と、人の表現との差で、お互い、その時の人生経験や、思っている事などが滲み出ているのが伺えてな。

なんだか考えていて、あまり覚えていないような、懐かしい名言をもう一度見たくなった。(見つけた頃とは違う意味に読める可能性もあるので)
お騒がせしたかもしれんが、ありがとうな。探してくるわ。
・・・小瓶を見る
烏羽
絶対に解るなんて事は言いたくない。

だけど、これは、この気持ちはとてもよく解る。

そして、怖くて、面と向かって言う事が出来ない。
そして、「それ」を言われている時に、その人に言っても、通じる気がしなくて、更に波風を立ててしまうんじゃないかと、争うつもりなどないんだと、黙り込んでしまった。

…どうして、目の前にいる人間の苦しみを見ないのだろう。

本当は解っている。
人間なんて、そう察しのいい生き物ではないし、能力にも日々のムラがある。
一概に、苦しみを見ようとしていないと、そうも言えない。

小瓶主さんの文中に出て来た、対象の人の肩を持つつもりはないが、その言葉が誰かの救いになる可能性も皆無ではない。

人との関係性や、知り得ない部分、気の緩み、悪意のない信用、様々な可能性など思い付く。
俺自身だって、気付かぬ内にやってしまっていたかもしれない。

だけど、道理を解っていても、思ってしまうものだな。

疑念を持つ事や、恐怖心を持つ事が、「正しい、当然」などと言いたい訳じゃないし、他の方法もある事だろう。誰しもが常日頃から出来る訳でもないのだろうが…
どうして、自分のやっている事に対して、疑問を持たないのだろう。

それも、考えるまでもない事で、人間ってのは多くの場合、人生の経験から少しずつ、倫理観を形成していくものなんだからだろうよ。

だが、そんな事を解っていても、どうにもやるせないんだよな…。

せめて、自分の、ほんの少しの人生からでも、深刻に考えられる、注意深くなれるタイミング、必要性に駆られる場合を、よくよく考えておきたいものだな。
俺の身の上にもあったから、された事があるからという話でもあるが、そんな事は起こしたくもない。

…起こしたくないとはいえど、それを止めようとして起こった諍いを、正当化したくはないがな。

どうにも、悩みの種だ。

ともあれ、大切な事を改めて考える事ができたよ。ありがとう。
・・・小瓶を見る
烏羽
確かにその通りだ。
人の気持ちなんて、厳密に、100%解る筈もない。

全ては自分の主観。
どれだけ客観的に近付く事が出来ても、それはあくまでも主観。主観の延長でしかない。

だが現実的に見て、それが人の心を考えなくていいという免罪符には、まるでならない事も事実だよ。

悪いな、説教たれられる程人生経験豊かではないんだが、俺はそう思って人の気持ちを考えず行動し、落ちぶれた事もあったもんで。
ちょっと纏めるのが苦手なもんで、長いかもしれんが、もし読まれるのであれば、時間には気を付けて。

人間というのは、言葉を使うだろう?
だけど、それは気持ちあってのものだ。(あなたの小瓶の文章も、俺の文字もそう)

どんな状況からどんな言葉の流れで発せられた言葉かは解らないが、「人の気持ちを考えろ」と言われた場合にも、人それぞれの気持ちが乗る。

例えば、喧嘩などの際、話を切るように、捨て台詞のように言われたなどであれば、その言葉は言葉通りの意味ではなく、「私の気持ちを察しろ」という事に近いのだと考える。(俺はな)

であれば、例え話ではあったけれど、あなたが(全般的な)人の気持ちを察する事が出来ない、という事にはならない。

そうとも、それと同じく、「気持ちを考える事など出来ない」などは、厳密には「相手のすべての気持ちを知る事は出来ない」だ。

だが、他の人から見れば、その言葉の解釈や、見た時の気持ちは「相手のすべての気持ちは解らないが、欠けらなら解る可能性がある」とかかね。
少なくとも俺はそう思っている。(逆もまた然り)

まあ、そもそも、「人の気持ちを考えろ」という言葉を面と向かって言ってくるような奴は、付き合いが短い傾向、あるいは人としての関わりが浅い傾向にあるんじゃなかろうか。
(もしくは、その人自身が、自分の気持ちを具体的な言葉として伝えるための表現が苦手とか、感情的になってしまったなどの事で、論理性を欠いた、とかな)

要は、お互い大してその人となりを知らない訳で、当然、相手の価値観、「これは嫌だ、我慢ならない」とか、「これは好きだ、求めたい」とか、理解する為の情報に欠ける。

そんな状況だった場合、当たり前のこと、気持ちを知り難い状況なのだ。
そこで、そんな関係性の中言われてもどうしようもない、というのが所感だな。

ありがた迷惑という言葉や、自分にされて嫌な事は人にしない、と言ったような言葉もあるがな、基本的にはそこから見える違いなどから、その人の事を知れば良い訳でもある。(意図的に起こしたいものではないが、良く言えば知れる機会)

また、同じ言語、言葉を使う訳なのだから、ある程度の意思疎通は可能となっている。
その点で、他の意思があるであろう動物よりもコミュニケーションは取りやすい…かもしれんな。

少なくとも、どこがお互い違うのか、異なる価値観や認識の仕方、どんな対応の仕方をするのかという所は、見えて来やすいだろう。

…散々書いたが、別に人の気持ちを考えろと強制したい訳ではない。
それこそ、あなたの自由な訳だしな。

ただ、知っておいて欲しいのは、欠片だとしても、気持ちが解るという可能性はある。という事。

じゃないと会話なんて成立しないだろう。

別にあなたは、微塵も人の心が解らない訳ではないのだろう?
その分を大切にして、気が向いた時にでも育てていければ良いんじゃないかね。
・・・小瓶を見る
烏羽
さあねえ、質問に答えた人の彼氏さんが、ニートになるなんて微塵も思えない状況なら、安心感からそういった発言が出る事もおかしくないと思われる。
(そういう場合だと、おおよそニートになる背景など考慮されない事が多い。そして、「ニート」というものを自分達の側には存在しないネタのように見ている場合もある。対岸の火事という奴だ)

あるいは、そこそこいい年した人達には、社会的な状況からあまりそう思えないが、恋愛の付き合い方に対する価値観、姿勢の違いなども考慮点かね。
軽ければ、他の彼氏見つければいいやと、そうなると思うし。

ただ、付き合う中、その人を本当に愛するのであれば、大概ニートになっても支えあう関係か、社会復帰を望むのであればその背を押し応援するとか、現実的にはそういう場合もあると思うしな。

今のご時世、ブラック企業勤の辛さだったり人間関係のもつれで退社なんて事もザラなのに、さて、どうなります事やら。

まあ、多分ニートの実態なんて多くの人が知らんわな、なった事のない限り。

大概の場合、まあ、例えば「ニート」とか、他に「統合失調症」という言葉を貶す為に使う人は、その内実の、どんな状況なのか、どんな症状なのかという事を詳しく知らず、ただ一部の極端な悪いイメージや不安要素を当てはめ、テンプレートのように使っている事が多いように思う。
(言ってしまえば言葉を覚えたての子供と似たような感じ)

反面、その内実を知る人達は、そういった言葉を罵倒や貶す言葉としてあまり使用しなかったりもする。

他、働いている事から来る時間の制約に苦しさを覚える人は、ニートという状況が許されている者へ、時間願望の反映が態度に出るとかな。

(実際には許されているというより何が何やらどうしようもなくそうなる場合が大体だと思う。そして恐らく、大体の場合、ニートは常に家族の目に苛まれるので、精神的に良好とは言えず、その中でゲームなど、各々手の伸ばせる好きな事をしても、辛さは拭いきれない。遊びを楽しむと言うよりは、死ぬまでの暇潰しなどになっていく。それは可哀想なのかと思えば、それぞれ原因はある訳で、一概に言えたものではないがね)

無知ってのは怖いんだよな、痛みを知らないあまり、人の傷付くかもしれない事を平気で言う。
そして自覚がないので何が無知なのかどうか解らず、認める事も出来ない。

俺もおんなじさ。
だから自分の無知を認め、理解しようとし、そこから出来る限り気を付けようとする事で、多少は回避できる可能性がある。

みんなニートになれば解るなんて、そんな事望んじゃいないし、経験がないならない方がいい。
でも問題は、「ニート」というものに限った話ではないという所だな。

未来は誰にも解らない。
まだ日本にも、小瓶主さんのような、先の見通せる人がいて良かったよ。

…俺のような、二十歳半ばの交際歴なしニートが言う台詞でもないが。でも、意見したってええやろ。

俺自身、自分をまともだとも思っちゃいない上での例えばだが…
言っている事ややっている事がまともでも、立場を知っただけで手の平を返したように不信になるなんて事もよくあるよな。「子供だから」とか。

そう思われても仕方のない事をやったという場合もあるが、こういうのがよく解らん。
肩書きや立場も情報としては大事だと思うが、人となりと、いわゆる名声とは、それぞれ別のものだと思うんだがね。

理解は出来るが、どうにも正しさや、考える焦点の比重など、信憑性のはかりにしがちだ。
なんの保証にもなりはしないのに、知ったつもりに…というより、あくまでも「自分の意見」である事を忘れやすいのかもしれんな。
・・・小瓶を見る
烏羽
(長くなったので、お時間のある際に)

解る。
気がかりな事が多すぎて、嫌な言葉を避けようとして、俺の場合は「こういったら傷付くかもしれないけれど」、とか、「厳しい言い方で申し訳ない」とか、「言葉の表現があまり上手くない」とか、割と使う。
(使い過ぎると薄っぺらくなるかもと思いつつも使う)

で、大して文章力も、纏める力もないので、とりあえず書きたい事を出来るだけ書いている内に文章がレシートみたいになる。(悪い例。多分この返事も)

次第に、自分が何を書きたかったか、何を伝えたくて書いているか忘れてくるので、何度も読み返したりして、間違いやら、訂正したい事やらを見つけて、書き換えていく内にも、また何が何やら解らなくなっていく。

まあ、この、今書いている文章を見ればお解りですね…

30分以上考えて、書いて、やっぱ投稿するのやめよう、ってなるお返事も結構ある。

ただ、形式上、お返事のやりとりができるようになっているので、伝わらなかったと思う事は補足したりで、伝え直す事も出来るかと。

「言葉のみ」で、伝えるのも、現実的なコミュニケーションとは違った点があって…
顔の表情や、声音、手などの体の仕草がない上、言葉に込める思い、価値観が人それぞれなので、まずは、小瓶主さんがどういった先を見ていて、それに対してどう言葉を出したらいいのか考えてます。
(先といっても、どういった感情や背景から、この言葉を使ったんだろうって感じ)

また、出すにしても、その言葉はあくまでも推測なので、なるべく断定にならないようにとか。

まあ、全て上手くできる訳じゃないし、上手くできない上でそれを他人に言うのもアレだけど、「出来ないから」ってのを理由にすると、何もかもを言えなくなってしまうしさ。

だって、赤ん坊の頃からそうじゃない?
誰だってすぐに歩ける訳じゃないし、歩くにしても見よう見まねで、現実にどう歩いたらいいのかを感覚として知っていくのは自分自身な訳でね。

「自分なんかが」って言って、行動を止めてたら、変化するものも、し難くなっちゃうと、思わへん?

空っぽでいいよ。
みんなそうだったようなものだと思うし。

第一、空っぽだとしてもここに存在している。
この小瓶に書かれた、あなたの文章がある。
それを空っぽな事だとは思わないし、思えんよ。

感謝や、伝える事の苦悩、葛藤が見える。
十分に詰まってるじゃないか。

…まあ、一応、間違ってたらすまんが、「空っぽ」ってのが、「思いを伝えられる表現が上手くできない」って事の比喩だとは解っているつもりなんだけども。


…とかね、今の上文、「…まあ、〜」の文章を例にすると、小瓶主さんの使った言葉を「こう解釈しています」と、確認も込めて伝える事は出来るし、「間違っていたらすみませんが」などと書く事も出来る。
(↑こう書くと、「間違ってたらすまんが」って文章が薄っぺらく感じるかもしれませんが、一応書くと、全部本当にそう思って書いてます)

ただ、解ってる「つもり」という表現に引っかかりを覚えてしまう人も、時にはいなくもない(俺が自分で書いてて引っ掛かりを感じただけ)のでそこをなんとかしようと、余計な文章を省くとすれば…
「間違っていたらすまんが、空っぽってのは思いを伝える表現が上手く出来ない事だと考えて話を進めてみました」とか?
(今まさに進んどりますが)

まあ多分なんだけど、俺みたいに、自分の思った感情の、懸念やらの全てを言葉に乗せよう、表現しようなれば、かなり面倒くさくなる事だけは覚悟しておいてや。

宛メを徘徊してると(←こう書くと不審者みたいだが)、過去、俺よりも短い文章で、伝えたかった事の要素を書いている方々は結構いらっしゃったし、表現に戸惑うようであれば、そういう方々の真似というか、試しに近い事をやってみて、次第に良い所を自分に落とし込んで行ければいいんじゃないかと思う。

俺も学びの途中な上、要約すると多分、長くなるまでもない、大した事書いてないんだけど、うん、そんなもんよ。

あと、心がこもる言葉ってのは、多分こんな長い文章量というわけでもないし、短くて、とてつもなく思いを込めて放った一言でもないと思う。

なんというのか、自分の思いを乗せて出した言葉が、その思いの形を留めて伝わり、それが理解されて、心がこもっていると相手に判断されたら、言葉に乗っていた心が通った、って事だと思う。

だから、言葉に気持ちを込めて伝えようとする事と、それが相手に伝わるかどうかは、別の事として考えた方がいいんじゃないかね。
価値観の違いから、理解力の違い、言葉への意味の認識の違い。色々あるものだろうし、伝わったのかはやってみて、お返事が返ってきた時に初めて解る、可能性がある、としか言えない。
(自分自身にも、そういった理解力などがあるため)

あと、そうだ、最後に体力もあるな。
申し訳ない事ではあるんだけど、これ読んでて、沢山の文字を読んで、体力を使わなかったか?

(俺は推敲の際、慣れてるから何とも感じなくなってしまったが、それでも、読み返す際、文章力が多いという事は、誤字脱字、修正変更点での文章の食い違いなど、気を付ける点も多くなる)

だから、あんまり長いのはお勧めできないし、自分の思ってる事の「全て」を伝えようとするのは大変だから、伝えたい要点を3つ程に纏めると、文章をシンプルにしやすいかもしれない。

(俺は纏まらないというか、こんな風に、纏めても書きたい事が矢継ぎ早に出るので追加されていく事が多くて。逆に、短い文章の時は眠いとか元気がないとか、割とそういう事が多いので、あえてそういう状態を利用してみたりもする)

で、後から読み返してみて、ちょっと説明が足りない所とかは、(こういうの)で補足したり。(※どうでもいい事も書いていたり)

そうだなあ、あと思ったのは、国語の勉強って意外とバカにならんから、気が向いたらちょっと手を伸ばしてみるのも、いいのかもな。

読みづらかったかもしれんが、読んでくれたならありがとう。

戸惑いはあると思うし、気軽にとは行かないかもしれない。
けれど、この小瓶みたいに、ある程度好きに書いてみようや。

やり方も多分、いっぱいあるんだし、何が自分の気持ちを表せる表現として適切だと思うのか、それは自分自身でしか判断できないし。

自分にとって適切であっても、伝わるかどうかは別なので、伝わりやすさを優先する事が大事な時もあると思う。(伝わりやすさも自分の気持ちも両立できれば言う事なしだが、難しい)
・・・小瓶を見る
烏羽
気が向けばだが、1000〜20000通目辺りの小瓶とか、ポツポツ見てみたらどうかな。

全体を通して見ると、意外と優しいお返事ばかりではないし、俗に言う荒れるような事もあったし、何より、俺もあんまりよく解ってはいないが、宛メの方針自体が過渡期だったような気もする。

そういうのを見て、結構考えさせられる事も多い。

アーティチョークさんの遺書の奴見たけど、まあ、どうなるにしろ、ちょっとでも落ち着ける時間というか、気が楽になるといいな。

気が落ちてると、俺の場合だが、なんだか、どうにも色んな事が、自分へと向けられて発せられた言葉や、状況のように感じてしまう事もあるから、それで更に落ち込んじゃったりもするしな。

逆に言えば、そういう自分の状態に気付ければ、「今は元気じゃないな」とか考えられるし、そこから休んだり、リフレッシュしようとしたりと、何かしら行動できたりもする。

俺も宛メを利用中に疲れた時、なんかだるくてしょうがないなとか疲れを意識できた時は、よく宛メから離れて(場合によっては数ヶ月)、別の事をしてる。

そしてふらっと戻ってくるを繰り返したりしてますわ。
(それが、少しずつ自分で立てる力を養った一要因なのかもしれんが、よく解らん)

あと、余談というか、アーティチョークさんへの個人的な要望かつ、小瓶の中で書かれた苦しさとかが今もあるかもしれない中で聞くのも、また辛いんじゃないかと思うんで、申し訳ないんだけど…

どういう所に宛メの居心地の良さを感じたかって事と、変化したって思う事、変化して何処に居心地の悪さを感じるかって事の3つを、難しいかもしれんが、少しでも具体的な言葉にしてくれると、察しの悪い俺としても宛メを利用する上で助かる。

なんというか、宛メだけじゃなくて…、というか、宛メも現実の一部なんだけども、現実的に、普段でも応用の効く考えがそこにあるような気がしてさ。

まあ、別に返事がなくても色々な事情が考えられるし、それ故に心配事はあるが、返答がない事は気にはせんので(俺が悔いのない書き方のお返事を書いているので)、そこんところはアーティチョークさんもどうか気になさらぬよう。

直接関わりはなかったと思うけど、チラホラ見かける事もあったもんで…。んじゃ、またいつか。
・・・小瓶を見る
烏羽
一応、解っているかもだが、糖質制限といっても、糖質の全てを抜いたら身体に悪影響あるからな?
(判断力や集中力、認識力や記憶力の低下、体全体のパフォーマンスの低下、免疫力の低下など)

勉強などで脳が運動する為のと、筋肉が運動する為の糖分なども計算して摂らないとあかんのよ。

食べる量を減らしたり、糖質制限すると確実に痩せるけど、何のために食べるのって、必要だから食べる訳で、それを減らせば必ず影響は出る。
極論、行動の為に必要なエネルギーを、ギリギリの所まで減らせば、無駄な脂肪も落とせるって事だ。
(詳しくは、確かインスリンが空腹時に脂肪を作りやすくなる関係とか、糖分を摂らない期間が長引くと身体が本当に死ぬんじゃないかと認識する場合があるから、その時は糖分を摂らないと困るとかもあったと思うけど)

だから、確実ではあっても、それなりのリスクはあるし、一歩間違えれば逆効果になる。
(別の話だが、寧ろ、食事を抜くと太りやすくなるなどもある)

それを小瓶主さんが解ってるのなら、親御さんに知識が足りないのではと思うので、「糖質制限ダイエット」というものについて調べてもらうとか…

昔の人は、食事を抜く事が「ダイエット」だと考える傾向があるように思うので、そうじゃないんだよと伝えるとか?

うーむ。
・・・小瓶を見る
烏羽
寂しさか。
別にええやろ。

人に触れる事がどうとかはともかく、こうして文字にする事で、ご自身の感情などを認識して、状態確認にもなってるんじゃないかと思うし。

俺も正直人と会いたくないし接したくもない、いつ裏切られるんじゃないか、コイツは何か企んでいて今にも手を出してくるんじゃないかとか、時折、この場で料理に毒でも盛って殺そうとしているんじゃないかとか、自分でも馬鹿馬鹿しくなるくらいに、内心ビクビクしてる事がある。

じゃあ、この、宛メでの関わり合いはなんなのって思えば、もちろんその恐怖が無い訳ではないけど、物理的な距離があるだけまだマシっぽくて。

それに、出会う全ての人間が、過去にあった糞みたいな人間と同じ事をするとは限らない訳で。

まあ、小瓶主さんとは、そもそも悩みというか、状態が違うのだろうし、状態が違うのだから程度の比較も出来ない。
(そもそも同じ人間でも状況でもないのに、厳密な対照比較なんて出来ないと思うが)

それでも、何というか、お互い手の届く範囲でからでも、出来る事をやっていこうな、という気持ちになった。

フラッと立ち寄ったようなもんだが、もし読んでくれたなら、こちらこそありがとな。
・・・小瓶を見る
烏羽
「諦める」という事を諦めきれていないぞ。

そして、「自分の人生を諦める」という事も、全てを諦める人生を行おうとするあまり、叶おうとしてはいない。

それは、「自分の意思を諦めない」という事に他ならないからだ。

…まあ、単なるジョークだよ。

でも、見落とすなよ、人間なんてのは不完全な生き物だ。
何もかもが、誰しもが、中途半端なまま死んでいくものだ。

だが、それは同時に、人間の向上に、いつ何時の終わりなどないという事でもある。
完璧な人間なんて存在しないが、もしそんなのがいるとしたら、生まれた時から終わっているって話さ。

…それを知った上で、覚悟を持てよ。

例え見ず知らずの誰かが、あんたが自殺しちまうかもしれない事を止めたくても、あんたの意思だ。止まってくれやしないだろう?

この先の未来、何か良い事が待っているかもしれない、なんて、保証は出来ないし、保証があるなら俺も欲しいくらいだ。
悪い事が起こる事も十分あり得る。そしてそんな事の保証はまっぴらだ。

まあ、もし先を生きるにしろ、そうじゃないにしろ、何にせよ、それなりに覚悟は必要だろう。
あんたが、丁度いい具合に完璧じゃない事を祈る。

ゆっくり休んで、ちょっと気になった事でも、楽しい事でも、好きな事でも、何かしらやってみたらいいさ。

今までのあんたの人生には、お疲れ様なんて言わんぞ。
死んでどうなるのかも、解りやしない。

ただ、解るような気はする。
もしかすると、心に溜まったような、何か、この、重たいとでも言えるようなものを、あんたも感じているんじゃないか?
休んでも休んでも癒えない、この重たい何かを。

もしそうなら、生きている内に、少しだけでも軽く感じられるか、感覚を忘れられる時間を増やしとけよ。
それは、恐らく生きている内にしか出来ない事だ。

どうすれば解らないなら、探してみろよ。
人それぞれ軽く感じられるかどうかが違うから、色々試してみないと解らないだろうがね。沢山ある筈だ。

もう何か、興味のあったような音楽は聴いたか?
漫画や小説、図鑑なんかの本は?
ちょっとした公園で、草木を眺めるのもいい。動物園や動物と触れ合える場所があるなら、そういう場所へ行ってみてもいい。

俺の場合だが、紙飛行機を色んな折り方をしたり、自分でオリジナルのものを作ってみたり、ちょっとハサミで羽の部分を切ってみたりと、どんな飛び方をするのかとか、飛ばないのかとか、色々試してやってみてたのも面白いと思う。
(まあ、それをやって楽しくない事もあるだろう、出来ない状況もあるだろう、他にも人それぞれ好みやら合う合わないある事だし)

少しでも安らかに、心休める時間が増えてくれればいいな。
・・・小瓶を見る
烏羽
(暴走しているお返事を書きます。)

手を見る。

今思えば、俺も死にたい時、見てたな。
ちょうど、俺は今まで何をしてきたのか、この手で何が出来てきたのかを、自分へ問いかけるように。

「人間は…」、なんて語れる程生きてもいないが、一人の中にも、良い所、悪い所、沢山あるんだよな。
俺も昔、白黒はっきりつけたかった。
自分が憎くてたまらなかったし、自殺未遂もした。

2、3回程度の未遂だったが、結局死ななかったのは、大体他者のおかげだった。
相手はそんな事思ってもいないかもしれないが。

そしてそこで、怖がるなり、他と関わるなり、踏み止まった自分のお陰でもあった。
脳を含めた身体が、全力で抵抗したお陰でもあったのだろう。

好きではないが、嫌いでもない自分がかつてから今に至るまでいる訳だ。

人間ってのはどうにも、総合的なまとめとして、一つのものに評価を付けたがる。
良し悪しどちらをも、一人の人間の中へ見ていたとしても、本当の所、それは結果的なもので、運のようなものも含まれている。

その人間そのものが、本当に良いのかというよりも、その人間の関わった範囲を含めて、良いのか悪いのかを判断している。

自分だけの人生。

だけど、振り返れば様々な人の、良し悪しも考え付かないような彩り、関わりがあって、そこに自分がいる事に気付く。

そこに何を思うのかは、人それぞれの価値観という奴だろう。

曖昧な気持ちは、曖昧な気持ちという、それ以上なものにはならない。

自分を見るのか、現実を見るのか、人は分かれやすいが、本質的に分かれる事など出来てはいない。

自分自身を通して、人は現実を見ている。

良いのか悪いのか、判断を付けているのは自分自身ではないか。

その判断というのは、変えられるし、変わるものだ。
たとえ、曖昧な気持ちが存在していても、その上から判断し、価値や意味を付ける事は出来る。

本当にあなたの人生が、あなたが無価値なものだったのかどうかは、大嫌いだけど大好きな、あなた自身に聞いてみると良い。

大概、人間なんて矛盾だらけのデコボコなものさ。

現実は曖昧で、抽象的で、どこに何があるかも解らないから、生き物は視界を持った。
人間は、どうにも、極端に物事を捉える事で、シンプルに一纏めにする事で、情報の整理をし易くしているのかもしれん。

老い先良くなるか悪くなるかなど解らんが、俺のような人間には、どうにも、今までの人生を振り返って、良いか悪いかどちらかと、判断が付かなかった。
付けられなかった。

まあ、要するに、一人の人生を判断するだけの情報が足りていないって事だろう。
そしてそんな表現力もない。

俺はそうだ。
振り返っても過去の事が流れるばかりで、それが良かったかどうか判断出来ても、これから何があるかも解らない。
本当に良かったのか、悪かったのか、確信など持てはしない。

だが、何故それで生きているんだろうな?
まるで生きている事が、確信に繋がって欲しいとでも言うような体たらくだ。

死にたい時と同じようなものだ。
自分の死が、何らかの、ものことへの確信に繋がって欲しかったから、死ぬ事を諦めようとしなかったのだろう。

何故生きているのか。
それは自分自身の行動や判断で、ほんの少しの、ある程度の範囲だけでも決められるものだと、知っているからだろう。

そして多分、それもまた、確信にしたいからなのかもしれんな。

返答しようとしなくていいが、あなたはどうだ?

何か、確信に変えたい事…、「自分が自分として足り得る支え」のようなものを、欲しがってはいなかっただろうか。

自分自身を通して現実を見ているとはいえ、自分の内側も、現実の一つではある。

俺は、自分自身の嫌いな部分と好ましい部分がある時、どちらも認める選択肢をした。
もちろん、全てにおいてその限りという訳ではないがね。

全体的なイメージの話をすれば、鉛筆でちょっと小さく書いたような「自分という点」があり、その両端に、「嫌いな点」と「好ましい点」がそれぞれあって、点と点が、線で繋がれている。
言ってみれば、「一つの星座」のようなイメージが、自分の全体像だという感じで考えている。

これで、説明の付くような気がしてな。

(…いや、今までの長ったらしい文章必要あるかとかいうツッコミはなしでお願いします。一応あるんで。一応。)
・・・小瓶を見る
烏羽
長くなります。
読まれる場合は、時間の許す際に…。(文字の量も多めなので注意)

控えめに言って、コミュニケーションとは相手とのやり取りでもあるので、やり取りがうまく行かない場合、どちらか一方に全ての責任を押し付ける事なんて出来ないと思う。

小瓶主さんの対応や、その言葉を交わした場面、状況については詳しく解らない上での推論だけど…
はっきり言うと、もしかすれば小瓶主さんの対応にも問題はあるのかもしれないが、「親への虐待」「弟の方が〜」「人間失格」という言葉を使う場面の親御さんには、人間的なマナーとして問題があるように見える。

(親御さんも人間だから、完璧になれる訳ではないのだろうし、弟さんが軽度障害という事なので、日々心労などもかさむ事だろうが、子に対して「人間失格」という言葉を使う親こそ人間的に失格ではないか。下手したら言葉の暴力という小瓶主さんへの虐待になる)

それと、いじめにあった事からなる人への恐怖感や、日々さいなまれているであろう「死にたい」という気持ちからして、脳はそこにエネルギーを使っている。

なので、例えばだけど、勉強に集中しにくくなるとか、運動中は他人の目が気になってしまって思うように動きづらくなるとか、コミュニケーションにおいても人とのやりとりがギクシャクしてしまうとか、それらは仕方のない事なんじゃないかと思うよ。

極端に言うと、100%の能力が発揮できていないような状態なんじゃないだろうかという。
そしてそれは、怠けとか甘えとかではなくて、結果的な状態として、そうなってしまっている。

(どこまで発揮できないのかは、個人的な部分が大きいので、あくまで俺の経験からしか言えないが、いつもの半分以上の力が出せればそれで十分な程)

また、そんな中であっても、小瓶主さんはこうして、状況をある程度説明できる能力を持っているのだし、言葉に沢山の気持ちを込める事も出来る。
絵だって書く事が出来るそうじゃないか。

決して「全てが出来ない」って訳じゃない。
ただ、ちょっと力を発揮し難い状況の中、上手くいかず悔しかった事や、コミュニケーションで気持ちが受け取られなかった事があったり、到達したい目標が沢山あるだけさ。
出来ている事は、小さく感じたとしても、間違いなくある。

少しずつかもしれないが、変える事は出来ると思う。
ただ、変えようと行動に移す前に、ご自身の状態と、状況がどういうものなのかは知っておいて欲しくて書かせてもらった。
(力を発揮し難い上、他の事をやるにも万全でない状態の中、なおかつ、エネルギーを多く使うであろう受験を控えているという状況。かなり大変だと思うので、状況の許す限りあまり無理をしては欲しくない)

誰だって、知らない事はしらない。赤ん坊の頃からだ。
赤ん坊の頃から、知らない事は知らないし、知ったとしても忘れる時は忘れる。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」みたいな言葉を聞いた事はないだろうか。

これから先の事を考えるのであれば、多少迷惑と思っても、聞いた方がいいのかもな。
聞く事で知識が身に付けられたなら、他の人に教える事も出来るだろう。

そして、迷惑だと思うのなら、今後もし、その人が困っている時に気が付く事があり、手を差し伸べて、多少でも助けてあげられれば、それはそれで良い事だと思う。

更に、そのやりとりがコミュニケーションの練習にも繋がるだろうさ。

…推測でしかないので、あまり口出しをしたくない事だが、多分、クラスメイトがあなたの事を笑うのは、多くの場合あなたの能力の低さを心の底から馬鹿にしているという訳ではなく、「アイツまた間違えてるよ〜」という「いつもの日常」感として、笑っているのかもしれない。

まあ、かもしれないと言うだけで、事実は聞いてみないと解らないし、細かく言って見れば、聞いたとしても答えてくれるかどうか。
また、聞かれた人が自分の気持ちや思いを上手く言葉に乗せて伝える事ができるか。その言葉や、言葉のみに含まれないニュアンス(顔の表情や仕草)を感じ、受け取り、どこからどこまでが伝わるかどうか、というのは、それぞれ別な事の訳だ。

「物事を説明する」と言っても、人によって伝え方などまちまち、様々なものだろう。
その為には、小瓶主さんのいじめという経験からくる、恐怖という現状を考えると、やや難しいものかもしれんが、様々な人を知らない事には「言葉へ、延いてはコミュニケーションでの理解力」というものは向上しづらいかもしれないな。

要は、大人数とは言わない、深くとも言わないが、人と関わる事だな。
人を知る事で、「この人はこの気持ちであの言葉を言っていたのかもしれない、この気持ちだからあんな態度を取ったのかもしれない」と、思う事も簡単になっていく。(相手側としても)

俺もそれらしい経験はあったが、いじめを受けた心持ちとしては、どうしても人と距離を取りがちと言うか、どうにも恐怖心などから「こいつは何か企んでるんじゃないか」とか、人と会う時にそういう気持ちが出てきやすくなってしまうものなんじゃないだろうか。

もし、小瓶主さんが、その状態の自分を嫌いと言うのなら、俺は逆に、「人を疑う姿勢」のまま、それを続けていいのだと思う。

何故って、どういう人間なのか知る為には、思考を巡らせる必要性もある。疑問はその燃料になる。

他に、漫画やアニメ、創作物によく出てくる、本当に気の許せるような、絶対的な信頼の置けるような人間、相棒というのは、現実的にはそう滅多に…、というか、それこそ寧ろ、絶対的に、ほとんどいると言えたものじゃない。
恐らく生涯、人生の中で一人か二人見つかれば良い方だ。

例え気の許せる人間がいるとしても、その人間の疲れや、気の迷い、いわゆる魔がさすという奴だな、そういったものから、関係性が拗れるような事も割とある。

本当にそれがその人の性格なのか、疲れや心労から、感情的になってしまったのではないかとか、自分の対応はどうだったとか。
現実と自分の推測は異なるかもしれないとか、現在と過去は性格が違うのではないかとか(人の性格が変わるなど数ヶ月か、年単位ぐらいのものだと思うが)、そういった事を理解した上で、判断したくてな。

まあ、あくまで俺の考えだし、小瓶主さんのあれこれを俺に変える事は出来んがね。

今は、いじめられた経験から、どうしても特定の人物や集団などが、自分に対してやった事、やってきた事を、他の人もやってくるんじゃないかという疑問や不安が浮かぶ事だろう。

それを直ぐに止める事は、経験上とても難しいと思うし、止められなくても仕方がないのだと思う。
俺も何とか、これがなくならないか、それなりに頑張っていた事もあるが、怠けや甘えではなく、どうにも上手く行かない事もある。

なら、その上で自分の身を守るためにも、距離の取り方を学べばいいのだと思う。
他の人が、いじめてきた人と同じような事を、絶対にやらない道理はない。

ただ、もちろん、他の人が、同じ事を絶対にやる道理だってない。

手の届く範囲の事をやればいい。
例えば、コミュニケーションと勉強など、両立させたいのか、それとも、例としてコミュニケーションの事は一旦置いといて、受験が終わるまでは勉強に専念してみるとか、優先度を付けてみたりな。

ああ、あと、お節介かもしれないが、ちゃんと休みは取れよ。
勉強や練習以外に、絵を描くとかの息抜きも大事な事だし、そういった「遊び(余裕)」がないと、勉強した事も頭に入り難くなったりするしな。

運動して、食べて、寝て、そして筋肉が付いていくのと同じように、脳みそも運動したら、食べて、寝る時間がないと、成長して行かないだろうから。

まとまりもなく、読みづらかったかもしれない。
目を通してくれてありがとう。
・・・小瓶を見る
烏羽
この「消えたい」ってのは、なかなか面倒なんだよな。
自分自身の内に溜まっていって、俺も解消されてない。

なんだろな、今はそれ程強く、消えたいと思っている訳じゃないんだけど、俺はそういう時、心から落ち着けなかったりで、何かしらの安心や安らぎを求めていた気がする。
寂しさとかではなくて、「自分自身の根幹が揺らいで落ち着けない」みたいな。

(大体そういう時は、散歩に出かけて自然に触れたり、自然の中でぼーっとしたり、曲を聴いたり、頭使わずに出来るゲームとかをしてたと思う。一時しのぎにはなっていた)

これが良いのか解らんのだけど、「何も持っていない」と小瓶主さんが書かれているので、何かしら持ちたいもの、「そうありたい状態」のようなイメージがもうあるのかな?と思う。

出来るなら、それを求めてみるってのは、どうだろうか。(形になってないあやふやな状態なら、少しずつ具体的にしてみるとかから)

確か…というか、生きていて確かな事なんて数えるぐらいにしかないのかもしれんが、しっかり、「これが自分の持ってるものだ」というか、自信というのかね。

例えば、自分の中に、信じられる能力なのか、自分自身がありのままでいいんだというか、これが自分なんだとでも言うのか、うまく言葉にならないんだけど…
そういう支えがないというのなら、見つけるなり作るなりで、ほんの少しでも、小瓶主さんご自身の心持ちが楽になるのかな?と思った。

まあ、実際どうなのか解らないし、試してみてやり方の合う合わないもあるだろうから、参考程度に留めておいてくれれば。
・・・小瓶を見る
烏羽
例えから返答してみるなら、好きと恋は違うぞ。
like(好意)とlove(性的欲求も含めた親しみのある愛)が違うように。

言ってみるなら、好きで、愛があっても、恋とは限らない。
恋っちゅーのは言ってみれば、悪く感じ取れる表現かもしらんが、一種の、我欲からくる甘えだ。

要は、自分の感情に関心を持って、それを軸とし、行動に反映されていれば恋に近い。
自分の感情に関心があろうがなかろうが、それを抑えるなり見ないなりその時関心が薄いなり、何らかの経緯から相手への関心の方が高かったり、自分を自制する心が強ければ好きや愛に近いのではないかと思う。

多くの人がそうであるように、基本的に横沢さんのおっかさんも多分、自分の持ち得る経験などから、その延長からでしか、「当然」という基準を認識できない。

その上、そもそも横沢さんはおっかさんとは異なる性格をしているのだから、「差し引いて考える」というのなら、「何が当然」なのかなど基準そのものが違うために考えられないと思う。
(極端に言って、言葉通りに差し引いては考えられていないように見える)

なので、おっかさんは自分の性格を、「世間一般の人間基準」に近い、少なくともそっちの側だと思った上で放った言葉だと俺は推測する。

人間の事を語れる程長く生きて、経験を積んではいないが、俺が思うに横沢さんは正常の範疇だと思う。

それに、嫉妬も持っていると思う。

人間は言葉として、ある程度、現実を解りやすい認識として捉えるために、対極化、極端化しがちだ。

だから、「長所と短所は紙一重」、なんて言葉があるが、恐らくそれは、人間が物事を理解する時、長所と短所をそれぞれ別のものだと考えがちだからだろう。
同じものを見て、状況などを足した結果、自分に都合が良いか悪いかを判断している。

俺としては、嫉妬というのは、詳しい元は解らんが、何かをある立場、条件から見た一面の状態でしかないのだと思う。

だから、「嫉妬」と脳が判定するには薄いのか、その方向で発生していないだけで、持ってはいるんじゃないかね。

…ただ、まあ、気に障ったらすまんが、横沢さんの過去からして、もしかすると、何かしらの感情が薄まっている可能性もある。

よくあるんだが、暴力や虐待を受けた人間は、それをどうにも出来ない場合に、その環境に耐えるため何かしらの感情を抑えつけたり、それによって感情の一部が希薄だったりする事がある。

それが反射的なものとして身に付いていると言うのなら、その環境から離れていれば、自然と抑える必要もなくなるので、恐らく、何かしらの感情が出てくる事もあるかと思う。

ふむ、いや、寧ろ、ご自身で疑問に思ったという事は、「抑え」が薄まる、あるいは薄まってきている前兆なのかもしれん。

まあ、全然そんな事はないかもしれんし、解らんがね。
比べる事による嫉妬や憧れがない、あるいは薄いという人もいない訳ではないしな。

横沢さんの仰る事が理解できるというか、俺もそういう考え方に近いから多分解るんだけど、あれじゃないかね、「周りの人に囲まれて彼女(あるいは友人)が喋ってんの楽しそうだな、俺も混ざりてえな、アイツと話してえな」って気持ちがあるなら、それが状況や発生の仕方によって、嫉妬に繋がる事もあるってだけなんじゃないかね。(俺はある。それでも少ない方かとは思うが)

憧れに関してもそうで、俺の場合はそもそも、相手と自分を比べる上で、「今まで得てきたものや経験、順序、それに対しての対応、考え方、行動の取り方、そして何より時間、タイミングが違うのだから、厳密な対照比較にならない」と思ってて、そこに競争心というか、「俺もアイツみたいに出来るんじゃね?」という気持ちがないしな。
(また、今は然程でもないが、「競争」そのものが幼い頃から嫌いだったので、それに合わせてか、少しずつ考え方が変わって行った)

「あいつ俺にない能力持ってる」って、そりゃ様々なものが違う訳だし、その考えが「当然」や「基準」になってるから、自分で出来る事をしよう、にしかならない。

(「アイツみたいにやってる事、近い事は再現できるんじゃね?」はあるし、俺には出来なさそうだとかで落ち込む事はあるが…、言い方は悪いけど、「あんな奴には出来て、何で俺には出来ないんだ」というものがない。一応、憧れはある。)

人として病気があるか健康かならまだしも、正常って、誰ぞの主観で決められるものなのかね。
「人として」大事なものってのは、人の価値観、考え方がそれぞれ違う以上、近いものや普遍的に通る概念はあれど、人それぞれ別々のものになり得るし。

深刻な事じゃないさ。

だって、別に、今まで横沢さんが嫉妬や憧れを感じない事で、不幸になった事や、嫌な思いをした事はあるのか?

寧ろ、人に嫉妬しない(か薄い)分、諍いになる可能性は減るし、嫉妬のある立場からは、少しだけかもしれんが、心穏やかに過ごせる時間が増える可能性はある。

憧れがない(か薄い)分、自分に出来る事へと向き合う時間が増える。
言ってみれば、俺の場合だが、憧れたりする中で、「俺には出来ない、どうやっても無理だ、悲しい」という何も出来る事がないと落ち込む時間が少ないので、そのエネルギー(元気など)や時間を短縮できるという訳だ。

…もしかすると横沢さんは、「嫉妬や憧れ」という心に対して、「憧れ≒興味し」ていないか?なんてな。
流石に冗談だが。
・・・小瓶を見る
烏羽
本気で考えて書くので、長くなります。
(めんどくさかったら一応…、それでも長いけどある程度のものを下部に纏めてあるので、そこを読んで頂ければ)

少し風刺的かもしれんが、人間、同族が死ぬと諍いの理由になりやすい事を解っているのかもしれん。

他にも、日本だの海外だの、嘆かわしい事に今でもそうだがな、領土問題や国同士の諍いで血が流れた歴史もある、その無益さは嫌という程解っているんだろう。
(それでも起こる時は起こるから現実に存在している)

戦争問題、法的な人権問題、実際に今現在ある安楽死制度に対する波紋。
そして何より、恐らく人を物として見ている訳ではないと思うが、国は人民がいないと成り立たないからな、国にとって将来性のある国民、つまり国の一員を、望み好んで殺そうという国のリーダーはそういないだろう。(そう願いたい)

だが、安楽死を望む人や、その…、医療現場において、どうしようもない場合があるのだが、高齢者が身体の負荷などの問題から、延長的に麻酔などで記憶喪失となり、豹変してしまった際の、周りの人が望む尊厳死など…
それぞれ理由はあるが、国自体と、個人の、死を望む人々の向く先、見ている場所は異なるのだろうな。

(健康であっても死にたく、周りに健康だから安楽死が許されないんじゃないか、という事と、国として、人権的な問題や、制度変更に伴う法改正におけるルール、世論などと言った観点から安楽死を制度として取り入れるかどうかという事は、人の死において、焦点を当てて考えている場所がそれぞれ違った場所にある。つまり、その個人それぞれの思いと、国政の中で制度が通るのかどうかというのは、お分かりだと思うが違うものだ)

また、命に関して個人的に思うのは。
そうだな、人だけじゃない、虫、動物、果ては植物から微生物、細胞、どこからどこまでを命とするのかは人それぞれだろうが、今日も人の知らないところで命が生まれて消えていく。

実際俺はそういう視野でものを見ている。
その上で、それはとても重い、辛い、ストレスの掛かる生き方だと思う。
とてもお勧め出来るような考え方、生き方ではない。(そもそも、やりたくてこう見ているかと聞かれれば、そうでもないのだが)

命の重さ、というものがあるのなら、それは人それぞれが勝手につけているものじゃないかな。

俺にとっては、アリの命も人間の命も、同じものだ。
アリを不意に踏み潰せば悲しむ。家の中を歩き回られても嫌だという事で、多く入ってきた者たちを処理に困り、故意に殺しても、それは重い事だ。

何が悲しいものか、アリの気持ちなど知る事は出来ないのに、それこそ身勝手にも悲しいなどと思ってしまうものだ。

人間の命が失われれば、その家族、周りの人間達は恐らく悲しむだろう。
亡くなった方自体の行先、将来や人生そのものに対して、様々な情感が巡る事になるだろうと思う。

将来の人生は良くも悪くも解らない、そこに至らなければ良いか悪いかを判断できない。
健康な人がある程度若い場合に(年齢という話に留まらず行動する先がある)、その行先が失われるという事に値する程の価値を誰が付けられるだろう?

(勿論、健康でなくとも先行きなど解らない)

「もしかすると」なんて言葉は幾らでも言えるが、健康的、五体満足か、あるいは自力で何かしら、問題解決へ向かえる可能性がある際に、心が傷付き死を選ぶという事は、悲しい事だと思う。

命、人生、それは形のない、それこそ物質ではないものだ。
比喩だと解ってはいるが、幾ら医療技術が発達して、心臓などを提供できるとしても、他の人が自分の人生を使う事など出来ようがない。

どれ程大きな事か、重みのある事か。
言っておくが、現実的に、これも身勝手な話だと思う。
それこそ、極端に言ってしまえば、自分の内にある「命の重み」という価値観を、勝手に人へ重ね見ているだけなのだから。
(※身勝手だからと言って、それが良いか悪いかという話ではない)

例え同じ人間だとしても、考え方や価値観には差があるだろう、その人の考えが100%正しく予測出来るなんて事は、ほぼ不可能な話だ。

だからこそ先に書いた通りに、どれ程の重みがあるかどうか人それぞれの考えを、価値観を持っているものだと思う。

安楽死やそれを望む人自体を否定はしないが、人間の人生というものは人…、あるいは他の動物達と共に、紡がれるものだろう。
言ってみれば、確かに「自分の命」に違いはないが、「自分だけの力で支えられて存在する命」ではなく、「自分一人だけで存在した人生」でもないという話になる。

赤ん坊の時に手を加えられなければ今まで生きてきてはいないし、そもそも親無くば産まれてもいないだろう。
そして色々な生き物や、原子や分子を食らって、己の身体として生きている。そう考えてる。

安楽死…といっても、それを行う人間が居るとなれば、どれ程の苦悩を抱える事になるか、死を身近に感じた経験のある方はよく解ると思う。
(戦争でも、覚悟があったとしても、人を殺した事で精神的に大きなショックを抱える事は珍しくなかったらしい)

死は、本来的には日常のすぐ側にある、馴染み深いもので、ドラマや漫画みたいな大それたものではない。
現実的に、死ぬ時はあっさりと死ぬ。

殺すのは人だけではない。
生き物によっては、遊びのために他の命を殺す事もある。(その後食ったり食わなかったり)
同族の恨みのために、己の傷など関係ないとばかりに相手を殺そうとする者もいる。

そして、食べる為に、生きる為に殺す。
沢山の生き物達が今日も知らぬ所で、大雨や強風、食物連鎖によって死に、産まれてくる。

もう一度言うが、アリの気持ちなど、体の作り、脳の作りの違う人間が、安易に解る筈もない。
だが、アリの命が失われ、その周りのアリたちは何を思うだろうか。人間のように何を思わずとも、違和感は間違いなく感じるのではないか。

そう考えるからこそ、身勝手であったとしても、俺は命を無下にしたくないと、せめて命という概念に対し、真摯に向き合いたいと、そう思って生きている。
自分が命を奪った現実から目を逸らしたくないし、それを何もせず、何も考えず、ただ過ぎ去っていく事をしたくないってだけだがな。

何故人間以外に対し、命の法制度などが手薄いのかと考えると、人間だけが高尚だとか、傲慢だとかではなくて(そういった事も考えられはするが)、人間も「死」っていうのがどういう事なのか、認知が広がっていないんだろうと思う。

天国、地獄、無。色々考えたり、科学で推論を立てる事は出来ても、それはあくまでも推測でしかない。
少なくとも今、生あるものに確かな死の形というものは掴めていないんじゃないか。

それだけ、人間の手に余るって現象なんだろう、「死ぬ」って事は。

具体的には多分、他の生物達に慈悲や対等さ、生命としての尊重がないって訳じゃなくて、そこまで考えると、人間の脳はパンクするか、パンク寸前まで行くんだろう。

要は、死の重みを確かなものとして感じた時、今まで生きてきた者たちを、無邪気に殺してきた、頂きます、ありがたい事だと感謝を込めて(いるかどうか、それぞれの事は知らんが)命を食べてきたのか、それらが苦痛に、重荷へと変わる時もあるだろう。(実際俺はそうだ、その重荷が生きるという事を支える原動力になってもいるが)

それに、安楽死が受け入れられたとして、制度変更に伴う法の改正や、人間以外の生き物に対する法改正…あるいは制度の追加も手間取るだろう他、あくまでも例えだが、海外のシーシェパードだったか、ああいうのが特定の動物を過度に保護する事で、逆に生態系を乱してしまう場合すらある。

他の動物、生き物に関わる事で、その周りの環境にも間接的に影響を与え、全体的な環境が変わってしまう(例えば、「食物連鎖のピラミッドの構成が、逆三角形状になる=肉食の生き物の生息数が草食動物を過度に上回る」など)、その変化により多くの命が失われる(食物連鎖の関係から、草食動物がいなくなり、肉食も餌がなくなるので次々と死ぬ、など。現実はもっと複雑)、という事態は起こっているだろう。

生き方の違う…、例えるなら、文化も考え方も、そしてその生き物が与える周囲への影響も(主に「食性」など)、人間とは全てが違う生き物と「関わる」上での問題点というものも多くあるだろうな。
人間もそうだが、それぞれを国のように…、環境の一員としてみた場合、とても繊細な、微妙なバランスで成り立ってる。

地球で生活する都合上、大気気温が平均でほんの1度でも上がれば、世界全体に住む小さい生き物の我々は大きな影響を受けるという程の、そういったバランスだ。

重要なのは、少なくとも、それを崩す力を人間が持っているという事だな。
その上で「関わり」というものを考える程でなければ、安易に生態系のバランスを崩しかねない。

人間同士でもそうだ、コミュニケーションの取り方…、どのような言葉にどのような意味を乗せて使うのかだって、よく見ればそれぞれ微妙に違うものだ。
まったく普段関わりのない人と話す時、知人とのコミュニケーションにいかに慣れているか、解るかと思う。

その上、人々の認識の仕方、考え、価値観、そこからなる意見、それぞれが異なるし、そのそれぞれを結び付ける…というのか、良い所を上手く合わせて通せるような、そういった仕組みを考えるというのも、中々に骨の折れる事だろう。

…まあ、それは置いといて、大した事は言えないし、言えるつもりもないが、すぐ側にある人間、自分の手が届く範囲の命、自分の命などと、まず真摯に向き合うのも、大切な事の一つなんじゃないかね。

俺には安楽死があってもなくても、良いとも思えないし、悪いとも思えない。

いつまでたっても、どれだけ思い巡らせても、人それぞれの考えがあるという事は、決まりきった答え、命に対する考え方がないという事に近いと考えられる。
もちろん、一瞬一瞬、足を付けて止まる場所はあるだろう、自分の考えが固まって行くと言う事は。

命という事へのわだかまりというのか、モヤっとしたこの感情は、自分の人生と共に、命を考え続ける事でしかないハッキリしてこないのではないかと思って、考え続けてる。

最後に、大体まとめると、現時点では、命、人生、それは自分のものであって、自分一人によって作られて来たものではない、とか。

多分、安楽死の際に、健康だという事だけが問題ではなくて、それを含めた上で、医師などによる安楽死といっても、医師も人であり、人の手で他人の人生に幕を下ろす訳だ。
これから何が起こるかもわからない、替えの効かない個人の人生、その未来を奪う事になる、それに葛藤、ストレスはあるだろう。人によりけりだろうが、非常に大きなものが。

国における話だと、倫理的な問題、制度変更の際に関わる法の見直しなどがあるので、恐らく国政としてはかなり慎重にならざるを得ない、とか。
極端に言って、海外では安楽死が制度として容認されたらしいといえど、その流れに乗ろう!…なんて軽率に国政が変わりはしない。(そんな首脳のいる国に居たなら、控えめに言っても国外逃亡したいレベルだ)

安楽死を提供する側の心的負担、国政関係。
そして、死という事に対して、逃れられない人間関係としての、親族や周囲の人々の心の機微。
中々に難しい問題だと思う。
(悪いとかダメとか思ってるんじゃなく、それらの関係を考えた上で、制度を導入するのは中々に骨の折れる事であり、楽観的に見ても、少なくとも時間の掛かる事だと)

…あまり不安の種を撒き散らしたくないので、言いたくない事だが、正直に明かせば、安楽死とは言えど、本当に苦しくないのかなどと、解るものなのだろうか。
安らかに楽に死ぬ。例え本当にそうであったとしても、現実的に動物の殺処分に当たった方々はかなり苦悩しているらしい現実もあるしな…。

命に対する考え方は人それぞれあり、小瓶主さんは、「それだけの事」と思っているらしいが、俺は「重い事だ」と考えている。
そのどちらもが、そして今まで俺が書いてきた文章全てを含め、自分の意見でしかない、という事も。

そして、「死」とはどういう事なのか、多くの人に、考える機会は少ないのではないだろうか。

多くの人は、それがどういった事なのか解らず…というか、間違いなくどういう状態かなどと、それこそ死ななければ解らない。
生命活動の停止という事は解っていても、真にどういった事なのか知らず、死んではいけないとか、死にたいとか、そういう事を言う。(当たり前の事だが)

俺はそういう人間の一人で、そうして死のうとしたが、死に切れず生きている。
何度か死のうとして、他には偶発的に、命のもろさや、死のあっけなさを理解した。

所詮、どこまで行っても自分の意見、思いや考えでしかないのだろうが、例え、命が重かろうとも、命は儚い。軽く、あっさりと、死ぬ時は死ぬ。

多くの人は健康で、それが当然なのだから、健康が当たり前である事に有り難みを感じる事も少ない。
だからと言って、健康である事を有難がれという話ではなく、健康であっても、死にたくなる時は死にたくなるし、そういった状況でも死へと向かう。

例え死の間際、こんなに苦しいものだと思わなかった、と思ってももう遅い。
人間、壊れやすいという程には弱くないが、頑丈という程強くもない。

もし、死が無だとするなら、死んだ時には当然意識もなく、自分が死んで、苦しい人生が終わった事にも気付かない。
そういうものなんじゃないかね。

もし小瓶主さんが、辛くて死にたいと思う事や、ショックな事があって、死生観を考えだし始めたのなら、止めたい訳じゃないし、止まるも進むも本人の意思だ。

でも、多分死んだら後悔なんて出来ないし、楽しい事も苦しさから解放された感覚もないのかもしれない。
お節介かも知れんが、生きている内にやっておいた方が良い事もあるのかもな。
・・・小瓶を見る
烏羽
正直に言おう。

生きなきゃいけない理由はない。
また同じく、死ななきゃいけない理由もない。

…というか、小瓶主さんは、「生きていきたい」理由が欲しいのだろうかね。

それを他人がどうこうと…、少なくとも俺には、小瓶主さんの「生きたい理由」を言う事は出来んよ。

参考になるかどうかは解らんが、準引きこもり状態の俺が、今生きてる理由は、食べてきた食べ物、命に申し訳ないからだ。

逆に言うと、それ以外に俺をこの世へと縛ってるものは何もない。

強いて言うならば、そんな中で生きてて、やりたいと思った事…、例えばだが、腹が減ったとか、動画が見たいだとか、絵が描きたいだとか、歌いたい、運動したいだとか、それら一瞬浮かんだ事の連続で動いている。

正直、そういうものがあっても、個人的には今死んで何の悔いもないよ。

昔は、小瓶主さんのように、死にたい気持ちもあったし、自殺未遂もしたが、今は何もない。
生きたいと思える理由もこれと言ったものはないんだがな。

はっきり言おうか、小瓶主さんが死にたいかどうかは置いといて、何かまだ、したい事、楽しいと思える事はあるか?

生きる理由なんてものは、確かに簡単には見つからんだろうが、「生きている中で一瞬一瞬に動く理由」なんてものは、案外すぐに見つかる。

顔を洗うでも、歯を磨くでもな。

小瓶主さんが書いた、誰かの人生、心とかを傷付けたくないって事も含め、今まで生きてきたのって、大体はその、一瞬一瞬の積み重ねなんじゃないかと思う。

だから、「生きる理由」が見つからずとも、「生きている中でしたい事」を探せば、少なくとも何かしら「動きたい理由」は作る事が出来るんじゃないかね。
「したい事」まで行かなくても、「とりあえずやってみたい事」とか。

その継続が、生きている事の支えになるかもしれないな。

ただ、「自分を押さえて無理に生きてる」という事なので、死にたいという気持ち以外に、周りに対し、我慢し続けて苦しい事があるとか、嫌な感情を抱きながら、ストレスを抱えながら生きているという事なら、辛いんじゃないかと思う。

一番良いのはその環境が変わって、ストレスが離れていく事なんだが、それが難しいなら小瓶主さん自身で、ストレスを発散したりしないと精神的にキツイかもなあ。

例えば、散歩程度でも身体動かしたり、自然の風景を見たり、ペットとかと触れ合ったり、音楽聴いたり、なんか映画でも見たり。

ストレス発散の方法の合う合わないも、人によるので、自分にあったものを探してみる…ってのも、直近の「とりあえず生きている理由」には繋がるんじゃないか?
今の時代、ネットで「ストレス発散方法」とでも検索したら、色々出てくると思うしな。

もちろん、無理して生きるための理由を作る必要はないので、気が向いたら試してほしい程度だが。

ただ、うつ病ってのは、思考回路のほとんどが「死にたい」って方向へと向きやすくなってしまう病だとは言っておく。

…俺もうつの初期症状が出てたらしいが、うつ病ってのは人によって程度も様々で、判断が難しいらしく、診断に時間がかかるらしい。
なのに通院しなかったので、自分がうつ病だったかは解らんが、多分、その後の状況からして近くはあったと思う。
だから、一応、その重みは欠片だとしても解る気はする。

とにかく、そんな状態だと、体力というか、やる気出すのも中々しんどいものがあるだろうと思うんで、許す限り、あまり頑張りすぎないでな。
・・・小瓶を見る
烏羽
自己肯定感というと、よく自分を愛せるかだとか、自信だとかの話を聞くが、そうではなくて、ただシンプルに「自分はありのままでいいんだ」と思える事らしいな。
(小瓶主さんの言う、生きてていいんだ、ってのも多分そう)

お節介かもしれんが、自己肯定感以外にも、自分のストレスを発散なり、軽減なり出来る方法が見つかると、支えがその分増えるだろうから、また変わってくるかもしれんね。

何か動物と触れ合うとか、自然の景色とかに触れてみるとか、ちょっとした散歩をしてみたり、音楽なり漫画なり、または動物や自然の動画を見るなり、好きな事するなり。
(不貞寝も結構スッキリするぞ)

なんだったら「アナと雪の女王」の「ありの〜ままの〜」って奴をカラオケとかで歌うのもアリだと思う。
(冗談半分本気半分。意外と声出したり、適度に体を動かすと、ストレスは発散されやすいらしい)

失敗した後の自分のメンタルをケアしたり、リセットしようとしたり…、まあ、そういう手段があっても辛くなる時は辛くなるけど、立ち直って、ある程度でも元気を取り戻せるなら良いじゃない?

というか、誤解だったら悪いんだけど、何が起こってもどんな失敗をしても落ち込まない人間なんてそうそう居るもんじゃない。
ショックな事があって、そこで生きてていいんだと思えても、さらにその上から死にたくなるような事も割とあるんじゃないかな。

(ショックな事があって、過去から来る周囲への意識や、自己否定などの流れから、今生きている事も否定してしまう生きづらさ、という感じのなら俺の完全な誤解なのですまん)

人間すぐには変わらないというか、物理的な脳の回路が変化するまでに時間かかると思うから、少しずつ、気が向いた時にでも続けてみると、変化していく…、かもしれんね。

どうあれ、好転するのを願うよ。
・・・小瓶を見る
烏羽
今更お返事するのもなんですが、読んで、寄り添いのあるお返事をくださって、ありがとう。

考える意味は、俺にはありますよ。
生きるか死ぬかだけの、何の意味もなく過ぎる人生なんてつまらないですから。
(もちろん、意味が溢れて疲れる事もありますが)

全てに意味がないと思う時も良し悪し、全てに意味があると思う時も良し悪し、それぞれそう思う事でメリットとデメリットがありますでしょう。
(そしてその中で揺れ動き、バランスを取る事もある)

お返事を下さったあなたなら解るかと思いますが、あれこれと考えて、意味を付けているのはあくまで主観を持った人間側ですよね。
(だからそういったお返事を書かれたのかと思いまして)

言葉遊びのようになりますが、「意味がある」と思うも、「意味がない」と思うも、結局は同じくして「意味」を付けている、と俺は考えています。

極端な例として言えば、意味がないのなら、考えすらしない、思い浮かびさえしない、みたいな。
(はっきり言って良いくらいに、そんな訳はまずないのですが)

実の所、この小瓶に書いた文章、こればかりは我が事として見逃せない為、真剣に考えた訳でもあります。

それに、寧ろ俺の場合、自己嫌悪どころか考える事が楽しかったりする面もあるので、一種のストレス発散になっているのかもしれんです。

はは、まあ、この件はガクンと気落ちする程のものではなかったので、確か、並みに元気でした。
文章を書いている時の気持ちとしては、普通を少し下回ったり、上がったりを繰り返してた感じでしたかね。

あまり気になさらんで下さい。
・・・小瓶を見る
烏羽
そうだなあ、また久しぶりというか、時間の経った上での返事になるから、もうある程度考え付いてはいると思うが、書かせて頂ければ。

人間なんてまず、自分の延長線上からでしか物事を考えづらいものだと思う。

もし、自分について、を捨てる事が出来るなら…そりゃ、もしかしたら出来るのかもしれないが、出来たとしても意識があるとは言い難いのではないかと思う。

どっかの心理学者が全てを疑い続けて、疑う事だけは真実であると、我思う故に我ありと、そういった事を言ってたらしいけれど、それと似たような事だと思うぞ。

「自分」というものから、思いが発せられているのだから、それを失う事は出来ない。
打ち消そうとしたってモグラ叩きになる。言葉にして説明するのは難しくても、単純な話なのさ。

それに、自分を捨てた所で、「自分」
から生まれた「自分から脱却したい」「この息苦しさから抜け出したい」というそもそものそれが解消されるという訳でもない。

自分がなくなる事で、苦しみはチャラにできるかもしれないが、「自分」がなくなるのだから、発せられた思いの、「悩み」というものもなくなってしまう。

一見良さそうに感じるかもしれないが、自分を失う事は、その他に発するものの、「解消」や「解決」そのものをも失う事になる。

悩み自体を停止や、保留するようなもの、と言えばイメージしやすいだろうか。
あるいは、悪くなれば、パソコンなどに溜まる事のある、削除も修復も不可な、アクセスできない壊れたデータのようになってしまうんじゃないかね。
(流石に人間は、もう少し融通が効くだろうと思いはするので、あくまでも例え)

偉そうに言える立場ではないが、物事を、深刻に考えるか、浅く考えるか。
近いと遠いの違いかね。ベルさんはその内実を理解できたんだろう。

きっと、ほんの少しでも明るい道が開けているよ。

所で、自分とは何なのか…
案外、業っていうのは、この事なのかもしれんな。いいも悪いも含めて。

まあ、自分っていうのは、変化、成長して行くものだろう。
自分と決めた己の部分と、その外の自分と、共にな。
・・・小瓶を見る
烏羽
なんとなくだが、20半ばから30レベル付近はあるんじゃない?
上限解らんけども。

とりあえず、お疲れさんだ。

人や時間、視界の焦点が少しでも違えば、例え同じ言葉を口にしても、何を感じるか、何を思うか、様々に違う事だろう。

同じ過ちだと思ってしまう気持ちは、解るような気はするが、それと似て、本当には、同じではないよ。

何より今あるりぃふさんの心持ち自体が、以前とは違うのだろうからな。

りぃふさんのように衝撃的な、人の死と密接に関わるような行動、出来事はないが…

死へ対峙した人への、自由意志の尊重というのか、それとも諦めや手放しというのか。
どういった言葉になるのかは解らんが、その両方のような時、不安で押しつぶされそうになるのは解るつもりだ。

彼氏さんがどういう思いで死にたいと口にするのかは、他人には解らんし、こう言った所で仕方がないのかもしれんが…
不安でも手放す、その覚悟が理解できれば、「死」という言葉に纏わる重みも理解できるかもしれん。

まあ、人にはそれぞれの生きる時間がある。
学ぶ時間も、考える時間も、やり方からペースから、何から何まで違ったり、その中で他人と重なったりもする。

りぃふさんと同じく、いつか解る可能性はあるかもな。
・・・小瓶を見る
烏羽
お返事どうも。

うーん、差し支えなければちょっと考えてみても良いのではないかと思ったんだが、書いた字や絵のどこに嫌悪感や気持ち悪さを感じるのだろうか?

字の汚さや絵の下手さというのなら、自身の目標が高いというか、こう描きたいのではないという納得感、向上心が関わっているのではないかと思ったりするのだけれども。

まあ、無理に向き合う必要もないと言えばないしな。

今回の小瓶に関して言えば、姉さんの行動が頭をよぎる分、絵を描きたいとか、表現したい気持ちを堰き止めているように思ったので、そうだなあ。

もし描きたいというのなら、姉さんやらに何か言われても…、実際言われたら気にはなるのだろうけど、「まあ、いつもの姉のいう事だしな」くらいに思えればいい…

…のかもしれんが、まあ、そう言われても事が起これば迷惑な気になるだろうしな。

とりあえず、自信とか関係なく、絵は描きたいから描くもんだ。
上手くなりたいという気持ちがあればそれだけでもいいし、それを抜きに表現したいというだけでもいい。

言われるまでもないかもしれんが、もしも上手くなりたいというのであれば、よっぽどの才能か努力、あるいは運がない限り、こなした数が少ない中で、上手い絵を描けるかというと難しい。

そもそも、絵は自由なものなので、何が目指す場所なのかという所も特にない。
あるとすれば、それは描き手の意思であって、「何が上手いと感じる絵なのか」という感覚や描き方も、身につく…というより、積み重なって、形成されていくものなのではないかと思う。

人から見た評価、というのもそうで、描き方が解らないなりの評価と、解った上での評価というものはまた訳が違う。

俺も小学校の頃描いた絵に、一度だけ、なんかの賞を貰った事があるが、なんというのだろうな。

あの頃は自分の絵の、何が上手いかなどさっぱり解らなかった。

ただ、今になって分かるのは、色をどのように付けたかというのは、絵を描いた奴には、直に絵を見てみると、それとなく解るっぽいって事だな。

勝手ながら、かつての小瓶主さんの絵を拝見させて貰ったが、水彩の色使いと言うのか、あえて水の量を多くしたり、筆先から水滴を垂らしたりしないと、そこまでぼやけたりしないし、あの色の付け方だと、結構描くのに時間が掛かるんじゃないかね。

俺も、昔の事はよく覚えていないが、やってた事はあるからな。

評価していいのかよくは解らんので、失礼に当たったら申し訳ないのだが…、無礼を承知で書かせて頂ければ。

主さんがそこまで色を付けた根気とか、労力が感じられる事、そしてなによりも、全体的な色遣い。
これを幼い当時、どこからどこまで考えてやったのか、考えてなかったのかはさて置き、一枚の絵として見れば、小学三年生の描く絵としてかなり上手い部類に入ったのではないかと俺は思う。

自分語りで悪いが、俺の絵はどっか行っちまったからもう解らんで…(どっかに展示されたかなんかで、手元に帰って来てない気がする)、ただ昔褒められたのだけは覚えててな。

昔から絵を描くのは好きだったが、その賞を取れたからか、絵を描きたいのかなんなのか、よく意識するというのか、身近な存在になっていったのだよな。
・・・小瓶を見る
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