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烏羽 さんの小瓶箱
烏羽
少し頭のネジが外れていますが、私は元気です。
Vtuberはいいぞ…

名前は、解る人に解ればいいという気持ち等から。
伝える事をはなっから諦めてるという意味ではないのであしからず。
固定された小瓶
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烏羽
今思ったんだけど、「誰かのせいにするな」って、解釈次第で、意味がかなりブレる言葉よな。

自分に責任を持つ事なのか。
自分のせいにもしない事なのか。

あるいは両方を含めてなのか。

昔の事だろうし(今返事を書くのも時期的になかなか前の事だろうし)、俺としても人の事なので、どんな文脈の前後があって、全体的にどんな意味だったのかは解らない。

結果的には、「(自分以外の)誰かに責任を押し付けない」って意味として使われた結果、りぃふさんの概念が立っていったのかもしれないけどな。

…というか、生きてる指針お持ちやんけ…。
拠り所や支えという程、大きくはないのかもしれんが、小さな端々の要素が、指針や目的を作っていくものじゃないかね。

…まあ、求めるものが目的から目標になるというのか、求めるものが過程から、いつのまにか結果に…というのか(逆もまた然り)、それに近い事だと思うんだけど、子供の頃からの遊びが仕事に昇華したりという場合もあるしな、延長線上ってそういうもんよ。

そうやったりして、少しずつ「自分自身の芯」というのか、信じたいもの、守りたいもの、続けたいものとでも言えばいいか、何かしらが見えてくるのかもしれん。

哲学書か…
そういえば哲学者の言葉とか、サイトでの要約的解釈とかを読んだ事はあっても、哲学書そのものって読んだ事ないな。

うーん…
何だろな、自分で興味を持って、考える方が楽しいからかもしれん。
人の考えを知ってから何かするより、自分でやってみてから他のやり方を知るのが良い、となっているのかもしれん。

(ネットで調べたらパッと出てくる事もあるんだろうが、人生の中でそういうものって結構少なかったりするしな。人間、スマホばっかりだと漢字を忘れるとかもあったりで、使わない能力は衰える。それと同じように雑多な情報の中から自分で考えを導き出す能力的なものが薄れるんじゃないかとか色々考えたりもする)

…と思うと、それが今ある俺の、一つの生きがいというか、ある方向へ進む際の支えなのか。

それとも、単に偶然で、行動が積み重なった事により、それが癖になったのか。

ところで、哲学ってなんなんだろうな。(哲学)
・・・小瓶を見る
烏羽
(長いので、もし読まれるのであれば、時間のある時や、元気のある時に…、また一気に読み切る必要もないので、お節介かもしれませんが、休み休み目を通して頂ければ)

もちろん、「被災などの条件下で励ましてくれる」だけのために敬っている訳ではないよ。
天皇陛下は確か、「日本統合のための象徴」であられる筈。

…んまあ、元々は、神社とかの祭り(神様を祀るための行事)を取りまとめる、祭事の長…、たちをさらに取りまとめる大長、みたいな感じだったかな。

詳しくは、俺の解釈や説明が間違っているかもしれんので、それも踏まえてネットで調べてみて欲しい。
そうすれば、解りやすい説明が多く出てくると思うが、要は、「今まで続いてきた、日本の歴史そのものの象徴」なんじゃないかね。

不敬に当たるかもしれない事を承知の上で書くが、天皇陛下には私事(殆どの自由意志)がない。
天皇としての名前はあっても、確か、我々のような住民としての「個人名」もない。
天皇として使用するものはあっても、自分の車とかもなかった筈。(要するに、好きな時に外出とか、ゲームとか出来ない)

悪く言って、国ぐるみで、「天皇」としての立ち振る舞いを強制される。

多くの制約の元、日本の続いてきた歴史を背負って下さっているのが、天皇陛下、という感じかね。
そういった背景などから、敬意を表してる…と、俺は思ってる。

当然、御公務というか、普段の立ち振る舞いも全て公のものになる訳で、つまりは常に人の目線に上がり、天皇としての立ち振る舞いを求められて、自分自身としての行動、「我」というスペースが許されない。
かつ、精神的にもそういった事から辛さはあるだろうし、日本の歴史を背負っているという重圧が更に拍車を掛ける事もあるだろう。
(その状況がどんだけ苦しいのか、察するに余りある。そういった畏多さからくる敬意もある)

そういった、日本を統合する象徴としてある、天皇陛下への敬意と、被災地へボランティアに来て何かしらの行動を起こして下さる方々への敬意って、やってる事そのものの、中身が違うと思う。

だから、「どっちが」とか、俺は比べて語る事は出来なくて、「どっちも」凄い事だと思ってる。

「地位的なものは平等だ」という言葉についてはちょっとよく解らんが、地位があろうとなかろうと、人は人として平等な立場である、的な事や、それに続く言葉を仰ってたような気がする。(同感だった事もあってか、詳しく言葉を覚えてない)

で、次。
限界を超える、について。

そうだな、人は肉体の限界を超えるとボロボロになるわな。

…だが、人間の身体(もちろん脳も含め)は高性能なので、限界を超える力は基本的に出さないようになっている。リミッター(出せる能力の制限)という奴が掛かっている訳だな。
そのリミッターを、訓練によっては少しずつ緩めていく事が出来る訳だ。

…が、やはり、問題があるからリミッターというものがある訳だな。
と言っても、この人間の身体というのはかなりの高性能なので、だからこそ相当の状況でなければ、まずリミッターが外れるという事はないし、少し緩めるにしても相当な努力や忍耐が必要になる。

(身体も生命維持、生命保護のためにリミッターを外さないようにしている訳なので、「ちょっと限界を超えよう」と思った所で外れる事はまずない。自動的にとでも言えばいいか、調整された中での力しか発揮できないのが常だ。自分の足を叩こうとしてみると解るかと思うが、加減されているだろうし、強く叩いても痛みから、少なからず「やめよう」と思う筈だ)

で、また別の側面、人間の身体は成長する。
リミッターを緩めた事による負荷へ対応できるように、変化する事ができる。
…無論、その為には食事による栄養や、適度な休息、細胞の更新までの時間が必要になる訳だがな。

(急に限界を超えるなんて事は現実的にまずない。大体、身体の変化をも伴うので、少しずつ限界の上限が上がっていくものだと思う)

栄養が足りず、休みも取らず、動き続けるとなると、人間の回復力が追い付かず、まあ消耗するというかな、壊れる。

…が、これにもリミッターがあるので、よっぽどの事や、自律神経のリズムが乱れるなどがなければ、空腹で物を食べようとするし、眠ったり休もうとする。
(あるいは、動かないようになったりと、回復が追い付くよう、身体が働こうとする)

そのリミッターを超える無理は、そうそう出来ないようになっているという事だ。

…ただ、そのリミッターの下、制御下の範囲の100%が「やれる範囲」なのかと問うとそうではないよな。

その上、「どこまでが限界なのか」ってのは、他人が外見だけで判断する事は難しいし、例え行動する本人であっても、リミッターなどの影響から「動けるエネルギーはあるのにやりたくなくなる」という事もある。

(身体のリミッターが正常に働いていても、正確に、状況に適した働き方を必ずしているとも限らない。極端に言って、身体のリミッターが大雑把に働いている時があるという話)

しかも、どこまでが限界なのか、「自分の意識」として理解するためには、ある程度動いてみないと解らないという事もある。
(日々の体調や、成長などの変化があるため、微妙に変わったり、大きくズレたりする事もあるので)

小瓶主さんの仰る通り、「自分のやれる範囲でやればいい」というのは全く持って同感だ。

だが、逆に、「やれる範囲」でやると、頑張り過ぎる傾向の人は「無理をし過ぎる」場合もある。

「やれる範囲」という感覚は、その人の、「現時点での当然」から来るので、この場合は「無理をし過ぎないように」という点も考えておいた方が良いかもな。

つまりは、何かしらのきっかけで、無理がたやすくなっている場合…、例えば、楽しい時とか、怒っている時、やる気に満ちている時などには、リミッターが緩みやすく、その状態がスタート地点だとすると、終わった時にドッと疲れが出やすかったり、とかもある。
(その状態での基準が、通常になってしまっていると、リミッターが緩んでいる為にその分エネルギーを多く使い、疲れやすくなるなどから、困る場合もある。大体は一時的なもので、寝れば元に戻りがち)

小瓶主さんの文章を見る限り、出来ているとは思うが、一応書くと…
他の人に伝える時や、言葉を受け取る時は、自分との認識の違い、感覚の違いがあるという事も頭に入れておいた方が良いというかね。

「限界を超えろ」という言葉が、誰かから言われたものだったとして、「限界」とはその言葉を発した人の基準からして何を表したものなのか、主語も解らないし。

その言葉に、文章的に続く言葉や、状況(運動中とか)があるのだとすれば、「続く言葉も含めて伝えたい事」になると思うので、「限界を超えろ」という言葉の意味が変わってくる。

まあ、小瓶主さんの文章は、読んでいて皮肉とは受け取れなかったし、不快にも思わなかった。
それに、常識ってのは一人一人の中に少しずつ出来ていくものだ。疑問を持って、考えた事は大事だと思う。

ひねくれるというか、素直に疑問に思ったからこそだろう?
・・・小瓶を見る
烏羽
いつか全ては終わる。
いつか幸福が訪れる。

同じ事だ。遠すぎる。

しかし、あまりに遠い出来事と言うには、日常に欠片がありふれ、実感が曖昧になる。

世界を語るには小さい。
だが、見たもの全てを世界だというのならそうだ。

そして、そのスケールを幾ら変えた所で、現実にある苦しみが消えはしない。
幾らか変えて考えてみれば、この苦しみは重く大きく感じるというのにな。

平穏か。俺も知りたいよ。

生きていて、あるのは苦しみ。
だが、苦しみに苛まれている間には忘れる、一瞬の安らぎや、小さな幸せも確かにあった筈だ。

何も失う筈はないのに、何も変わる筈はないのに、どうしてこうも見えなくなるんだろうな。

そりゃそうだ、嫌な事を考えれば、行動している自分の頭の認識が変わる訳だ。
嫌な事をそのまま、ガス抜きも何にもなく、変わりなく続ければ辛いままだ。

意味のあるなし、価値のあるなし、今までとこれからのあるなし…、人はよく考えるものだ。

なのに、自分の今、どういう瞬間にあるのか、それはあまり考えない。
現在が当然の状態だからなのだろうか。当然の状態として、あまりにも距離が近過ぎるからなのだろうか。

辛くなれば目を逸らす。
それは自分を守るために必要な行為の筈だ。

なのに何故?…何故?
時に自分を追い詰める行為へと、成り下がってしまっているのだろうか。

人間には野生の記憶があるのだろうか。
勝てるかどうか解らないものと闘争するよりも、逃げる方が、怪我をするより、食い合うより、ずっとリスクが低い。

簡単な事だ。
「社会」なんてものは「本能」ではない。

だが、この「社会」は、本能を持った人間が構成しているのだ。
当然、「本能」が少なからず反映される。それだけだ。

だから、どう見ても下らない諍いに巻き込まれる事もある。
「野生」の延長線上でしかない。

社会がなければいいという訳でもない。
完全に自由になればいいという訳でもない。

ゴミの掃き溜めみたいな、くだらねえ人間関係を作ってる、それを「社会」とは呼ばない事さ。
その集団は、ただの猿の山だ。

何のために「社会」を作ってんのか、何のために倫理観や法が存在すんのか、何のためにお歳暮やらお中元やらやたらとしきたりが存在してたのか、何も考えねえ奴が「社会」を作れる訳がねえ。

人間関係だろ。
社会のルールを守るって事は、人への尊重なんだよ。

そうだろ?
だから、人を貶めたり、金やら利益を不当に得ようとしてる奴が犯罪者って呼ばれんだ。

なのにゴミみてえな事ばっかりだ。
ゴミみてえな事ばっかりだ。うんざりだ。

…その憤りが、またクソみてえな人間関係を作ってるんじゃ埒があかねえ。

畳の上に寝そべって、穏やかな隠居でも決め込みてえよ。
焚き木がどうにも恋しくっていけねえ。

人間の社会ってのはこんなにも狭っ苦しい、人間関係の問題に溢れていたもんかね。

…と吐いた所で、何一つ現状が変わる訳もなく。

少なくとも、せめてもの、自分自身だけは腐っても落ちぶれないようにしようと、この私め、ニートは考えております。

せめて、ウェットに富んだ、バカらしく笑える事なら良いんだがなあ、笑えない馬鹿な事が多いのが一層虚しい。

ともあれ、一人一人が全体の構成員な訳で。
明るいかどうかはいっそどうでもいい。全体が変化するかどうかなんて神様じゃあるめえし見れる訳がねえ。

それでも、身近のため、愉快な事をするために、ユーモアとは何かを理解するために、常識を考えねば困るだろう。
でなきゃ、非常識な事で笑いを取るなんて芸当が出来る訳もない。

自分自身の問題や、人との問題を、一人一人が考えられるようになれば…、あるいは、例え感情的になってしまっても、後から謝れるのであれば、心の軋みや諍いを少なく出来るよう努められれば…

それが上手くいけば、一瞬一瞬の豊かさに繋がる。
それが続けば、平穏になっていく。
そうありたいものだ。

考えてもみれば、心の痛みというのは一生引きずるような深刻なものに繋がりかねない。

…一生を振り返れば俺自身にも言える事だが、なんでそんな、重大な事を見落としてしまうんだろうな。

状況が許すなら生き地獄を味わせてやりたいものだよ。
行動はしないけどな。ただ永遠に許さないだけで。


…ってな感じに、心穏やかじゃない事もよくあるよな。

ちょっとストレス発散がてら、石畳でも殴ってくるか。
・・・小瓶を見る
烏羽
何か嘘をついてしまったら、それより多く、言われたり、されたりして嬉しい嘘(サプライズ的な)を考えて、嘘をついてしまった人に対して行動してみるとか?

まあ、積み重ねた嘘の場合は、どっかでほぼほぼ嘘はバレるだろうし、大事な事なら、現時点から見て、早めに嘘でしたって言った方が良い事もあるかもな。
(勘の良い人や、洞察力高い人は割と嘘を見破れるし、見破った上でスルーしてる事もよくある)

今まで習慣付いたものを、急にパッとやめてしまうのってメチャクチャ難しいので、少しずつ嘘つく事を減らすなり、嬉しい嘘にするとか、行動をすり替えて行くと変えて行きやすいかもしれん。

そうだな、すり替えるのの別の案で言えば、「誰がどう聞いても嘘だと見破れる嘘、あるいは冗談」を考えて、自分から嘘を付きに行くのもありかもな。
話のネタにもなるし、冗談というか、ユーモアを磨くチャンスにもなるし。

例えば、「知ってたか?テレビって中に人が入って動いてるんだぜ?」とか。
「タピオカってカエルの卵なんだぜ」(正確にはイモ科のでん粉だった筈)とか。

…まあ、大抵、仲の良い奴以外にそんな事言っても無視されるか、「えっ、本気でそう思ってるの?」とかガチで戸惑われたりする事もあったりするので、そこん所は注意な。

また、その時、カエルが嫌いとかで、ガチで怒る場合もあるから、その場合は正しい知識なりで訂正したり、すまない、冗談だ、とか、撤回する事も必要だな。

ただ、逆に、平然と相手が「えっ!?知らなかった」とか言ってきたら、「んなわけあるかーい!」とか解りやすくツッコミ入れるのもありよ。

そうだな、後、応用として「俺こういう奴マジで許せねえんだよな」とか言っときながら、自分もそういう事するとか。
いわゆる「ボケ」って奴だよな。

…ただ、これは使い所が限られるのと、あまりに非道な事をすると冗談、シャレの範囲じゃ済まなくなるし、「ボケている」って事が解りやすい状態だったり、ある程度親しい間柄でやらないと、マジで「アイツやべー奴だ」と思われても仕方ないので、状況判断とテクニックが必要になる。

とにかく、少しずつで良いので、何らかの行動を考えたり、試してみると良いと思う。

まあ、状況解らんのであくまでも仮定的な話だけれども。
言いたくない事があって、とっさに嘘をついてしまうとかなら、「悪いけどそれは言いたくない」とか、冗談めかして「黙秘権を主張します」とか言って、話に区切りを付ける方法もあるし。

また、つきたくない嘘をついてしまったと気づけた時には、どれだけ時間経っても良いので、「あれはちょっとパニックになっちゃって、とっさに出た嘘なんだ、ごめんね」とかなんとか真実を話せば解ってくれる可能性もある。

人との会話で緊張しやすいとか、話題に合わせられないとかなら、無理に会話をしようとする必要はないしな。

むしろ、知らない話だったら、「それってどういう事?」とか…、もしも興味が湧くのであれば、色々質問して聞いてみるのも会話になるし。

確実に虚言癖をやめれる方法ってのは俺もよく解らんのだが、「どういうタイミングで」、自分自身が嘘をついてしまうのか、「何がしたくて」嘘をつこうとしている、していたのか、そこが解ってくると具体的な対策がしやすくなると思う。

(取りたい行動に合わせて、すり替えるなり、行動を少しずつ変えて行ければ良いわけだしな)

上に書いたのと同じような考え方として、少なくとも、確実に解るのは…、小瓶主さんは虚言癖をやめたい、この状況を変えたいんだよな?
じゃあ、それは何故、「どういった困る事があるから」、変えたいのだろうか、という話だな。

それが、具体的な「どうしたらいいか」に繋がる訳だ。
(正直、どうしたらいいと思うかを俺に聞かれても、俺は小瓶主さんではないので、解らん)
・・・小瓶を見る
烏羽
「自分を強く持つ」というか、「自分のなりたい姿」という自分の部分を、しっかりと持っておいた方が良いかもな。

常住坐臥、常日頃から、その姿を頭の中にも、物理的に目に付く何かにでも保持して、自分の行動を見つめ直し続ければ、自ずと取りたい姿の行動が思い浮かびはするだろう。

いかなる時もだ。

そう、例えば、取りたい姿の行動が取れず、悔しい思いをするとか、後悔の念で、くよくよしている時もだ。

「こんな自分だからこそなりたい」と思った事を忘れてしまい、「理想的な自分になれない」と思う時が、来ないと言い切れない。

忘れる事も流される事もあるかもしれない。
心乱す時は、いずれ少なくなるかもしれないが、先に一体どれ程多く、来るかも解らない。

どんなに強い心になれたとしても、「動じない心」だけが強さとも限らない。

…あんまり言いたくないが、「動じない」という事は、認識や感情の変化が薄いという事にも繋がるからな。
そこから、自分自身が間違っている事をしていたり、気付かぬ内に正当化しているような状況だと、思わぬ落とし穴に繋がる事もない訳ではない。
(正義の反対は別の正義であって、悪とは限らない的な話とニュアンスは近い)

なら、傷付かないように…、衝動や、流れに乗ってしまうなどから、間違った事、したくない事をする状況にならないようにというのも確かにあるが…、もしそうなった時の為にも、立ち上がれる力を。対応や対抗、対処できる行動、知識を。
受け切れないものは、受け流せる技量を。
後からでも、何か出来ることはないのかを。

人に頼るって手もあるしな。

粘り強さやしなやかさ。
硬いだけだと、脆くもなる。

自分がどういう人間なのか、行動と共に作り、壊し、試し、固め、それらを繰り返し…、成長し続けて行けばいいさ。

んまあ、端的に書けば、ストレスの発散やら、対処法やらの他、現状の自身がどういった状況の中、どんな行動をしやすくて、それに対してどんな工夫が出来るのかという事の繰り返しになる。

逆に言えば、状況などの運も、もちろん絡んでくるとはいえど、行動する事が、自分の流れや、自分自身の形成に繋がるという事なのだと思っている。

いかなる時も、自分の芯というのか、心構え、志し、そういったものを据え続けるのは難しい。
とてもエネルギーが必要で、それ故に疲れる。
だが、「自分を変える」というのは、それ程の事だ。

(変えたいものが多ければ多い程、また大変だと思うので、その場合は目標をまず3つ以下に絞って行動していくと良いかもしれない。
あと、物理的に人間の身体、脳などの仕組みとして、変化までに、数ヶ月単位か、長くて数年は掛かるので、長い目で見た方が良いかも。
ただし、数週間で変わる事もあるなど、個人差や健康状態などでの差があるので、ご自身で判断して頂ければ)

失敗も成功も真摯に受けて、大真面目にやって、行動の一部、自分の芯に迫る、認識、概念の核へと成していく。
大きな川というのか、自分という流れ、流されない心を作るってのは、そういう事かと思う。

息抜きや休む時間も大事にしつつ(休憩や睡眠で記憶は定着していくらしい。筋肉と似たようなもん)…、言われるまでもないとは思うが、無理し過ぎないようには頑張ってな。
・・・小瓶を見る
烏羽
(なかなかの長文かつ乱文なので、もし全て読まれるのであれば、気力やお時間のある時に、余裕を持って読んで頂けると幸いです)

弱音を吐いても良いんじゃないか?

俺は、上手い絵師さんでも四苦八苦してんだなとか、俺も頑張りてぇなとか、色々思ったりもするし。

まあ、強いて言うなら、言葉の表現というか、出し方よな。

ただ一言「自分は下手だわ、こんなんじゃダメだわ」と書いて、出してしまうと、今まで自分の…というか、小瓶主さんご自身の作品を見て、それを好きになってフォローなりなんなりと、付いてきてくれた人が、なんやかんや思ってしまうかもしれないし…
絵師さんの中でも、小瓶主さんの絵を上手いと感じる人は、ネガティブな感情を抱いてしまう可能性も思い付く。

だったら、…一応言っとくと、絵とかデザインを商売にしてる人には絶対にオススメ出来ないが、「何が出来ていないと感じ、どこをどうすれば、もっと、少しでも上手くなれそうなのか」を弱音としてぼやけば良いんじゃないかね。

単なる弱音として終わらず、次にどうすれば良さそうなのかを考えれば、次に繋げる事も出来るし、そこまでをワンセットに表せば、単なるネガティブな発言だけとして終わらない。
(他、反感を買う可能性が低くなるような、『「何へ」どう思っている』とか、主語などを抜かない言葉の表現も大事)

自分自身の目的の確立や、それを見た人のモチベーションアップにも繋がるし、小瓶主さんがどんな所に気を付けて絵を描いているのか、見る人にも伝わる。
なので、ノウハウ、改善策、向上策などが伝わる可能性がある。

(※逆を言えば、そこからどう意識して描けば、そういった絵を描けるのかの可能性が、延いて見て取れるので、そういうのが嫌だって人にはオススメできないし、絵を商売にしてる人には致命的かつグレーな問題に発展しかねないので、前述した)

とにかく、一例として今あげてみたが、別にこういったやり方じゃなくても良いだろうし。

今までのやり方を続けるのか、変えるのか、変えながらも通すのか、通さないのか。
色々目標というのか、着地点というのかね、そこが見えれば、考えられる事はあるだろう。

何をしたくて、何が嫌で。
何を避けたいのか、何に優先度があり、どれが高いのか。どれを現在、高いものとして行動するのか。

影響力が大きくなるという事はあると思うが、絵だって言葉だって、自分が使っている以上は変わらん。
自分が出来る事や、したい事に合わせて、成長していければ良いのではないか。

評価は確かに指標になるし、目的の目安にもなりやすい。モチベーションにも繋がりやすい。

だが、指標でしかないので、目的そのものにしてしまえば自分自身が揺らぐ事になるし、モチベーションが上がり下がりする分、疲れやすく、それに慣れない人は絵を描く事を辞めてしまいやすくもある。

だから、長く続ける為には、「自分自身」が大切だったりもする。
その視点から話をすると、評価っつったって、細かく見れば、ただの人間関係の、その一部よ。

人の意見を聞く事も含め、自分がどうしたいのか、ある程度でも理解しておく事だ。
じゃないと、自分の絵は描けんし、筆も迷う。

まあ、もし人生を絵に例えるとするなら、その筆の迷いの表れをも含めたものが、人生だとは思うが。

…話は戻って、言うまでもない事だろうが、倫理観を含めた自分自身を、守りながら絵を描こうな。
(自分がないと絵が描けない)

色んな価値観を持ち、様々な視点を持つ人間が、SNSを利用している。
俗に言う炎上なんて、どこで起きてもおかしくはない。

絵を描く人も、描かない人もいる。
どのような人間が、どのような価値観、視点、思考を持って、何故の評価をしたなんて事は細かに解らない。
評価の価値、重さ、認識という考え方、それらは、重なる所があるとしても、人それぞれ異なる。

評価の多さや、人目に付く数から、感覚は狂いがちだと思うし、それらによる影響もある事だろうが、基本は、絵を描き、発信する己、評価を受け取る己の内にある。
だから、自分自身の事は大事だ。

評価なんて、感情の上がり下がりはあれども、大したものじゃない。

「どこを大したもの」として見るのは自分自身だから。人それぞれだからだ。
(だからこそ足場のぐらつきというか、「ご自身の立場にそぐわない高評価が来る」という認識にも繋がったりと、ややこしくなるものかとも思うが)

だから、炎上もそうだ、評価の良し悪しもそうだ、「そういった発言は控えたほうがいい」と伝えられた時や、「言いたいことを言いたい」という思いの中、何を問題として見ているのかもそうだ。

一人一人の感覚、認識や考えから発せられたもの。
何を大きなものとして、認識するかが異なるので、それ故に、言葉の価値や重みは変わる。
(そこが伝わらなかったりで、解らなければ、言葉や示されるものから、その人が伝えたい事の本質…、何を思って、何を価値、比重とし、表したのか見えてきにくい)

だが、シンプルだ。
評価というのは、人間関係だという事に変わりがない。

立場がどうだろうが、人目の多さがどうだろうが、人間関係とは、相互に影響のあるものだ。
それが、数の多さからか、立場の変化からか、明るみへと、見えてきたという事なのではないかと思う。

自分への理解。
したい事があるならすれば良い。
だが、そうだろう。見えるものへの不安というやつは、付いて回るものだ。

その、したい事をする上で、見えてくる不安については、どうしたい?

広義の意味で、周りの反応を気にしているのは…、絵を描いている時、どうだ?
少なからず、見た人、読んだ人が、「楽しんでくれるかもしれない」という期待はないだろうか。

そういった事などを含めて、「描きたい」という事ではないかと思い、俺は話を進めてきた。
その「描きたい」気持ちと、「自分が発するこの言葉は大丈夫なのかと考える事」は、方向性の違いあっても、根本が同じ事だと、俺は思っている。

自分が出したいかどうか、これで描き終わりなのか、大丈夫なのかどうか、少なからず考えはしないか?
今まで何となく行ってきたかもしれないそれが、価値観や重み、視点が変わって、表面化したのではないか、と。

表現の自由というものは確かにあるのだがな。
ただし、同じ表現するものだとしても、「絵」と「言葉」には違いがある。

情報量だ。
たった一言「面白い」と発しただけでも、人によっては不快に思ったり、大小の共感を覚える人も、無関心な人もいる。
そこには、現実における、対面コミュニケーションによくあるような…、絵で言えば「表情」「色」がない。

また、「音」「身振り」「リアルタイムなフォロー「人を知る事による、情報共有からの補正」が存在しない。

だから、「何が」という主語や、目的が、たった一言抜けるだけでも、情報の伝わり方が違ってくる。
その上、ある種リアルタイムではなく、一方的な投げ渡しになるので、言葉のみの情報だと、解釈が大きく、その時点の受け手に委ねられるからだ。

…自分自身の運に、余程の自信がないのであれば、言葉のみのコミュニケーションに置いて、最低限でも、目についた場所だけでも、伝えたい事を表すため、表現には気をつけた方がいいと俺は思っているよ。

小瓶主さんが気を付けていないとは思わないが、言いたい事を倫理観抜きに言ったとして、そこは様々な人が目に触れるSNS、公共の場だ。
諍いやら問題やらもある。好き勝手出来る場所でもないという事はご存知だろう。(自分の発言へ責任が付いて回る上での、自由の場)

ただし、人の違いから、どんなに気を付けていても、気を付けていなくても、起きやすさの違いはあるかもしれないが、殆ど問題は起きる。
(また、人が多ければ多いほど、可能性として起きやすくもなる)

嫌な事があって、怒りから当たり散らしたい人が出てくる事もよくあるだろう。
言葉の解釈の違いから、すれ違う事、そこから諍いになってしまう事もよくある。

まあ、そこに何を思い、どうするのかは人それぞれだ。

とにかく、絵を描く時はあくまでも自分自身への比重を重視する事になるのだろうが、公共の場、人と関わりのある場へと自分の表現を発信する時は、己が身だけの事ではなくなる。
どう行動したいにせよ、それは考慮しておいて欲しい。

だから、そこを理解した上で、自分の比重をどう混ぜていけるのか、出来ないのか、試し試し成長していければいいと思う。

…因みに、小瓶主さんと比較したいという話ではないが、そういう点、天皇陛下って詳しく知るとすげーよ…。
「自分」の比重が許されない立場なんだってよ。

極端に言って真似は出来ないが、それを軽くした「自分の比重を薄める」ってのも時に、人と関わる時の、ある状況の中、また一つの参考にはなると思ってそういう話をしてみた訳だな。

ああ、そうそう。
心が強い弱い、なんて考え方してるなら、そこに執着というかな、こだわるのはやめとけ。
それは結局の所、現時点で見た「評価」でしかない。(と書いているのも俺の評価なのだが)

大事なのは、強いか弱いかという評価じゃなくて、自分の心の得手不得手、強い弱い、良い悪い、好き嫌い…、「そう感じる所をどうしたいのか」だと思う。

立ち向かう、逃げる、休む、何でもいい。
それがストレス発散の方法やら、心の支えやら、立ち上がる力、立っている力に繋がっているものじゃないか?

そうやって出来上がったものが、自分自身の強みに繋がってくるんだろう。
絵だって、同じじゃないかね。

長ったらしくなったが、単純に言うとな。
絵でも言葉でも、それを扱う俺たち人間の認識が、変化している中の、その一瞬を写真のように切り取って、切り出している。
その光景への美醜感はあっても、そこに取り残されて、立ちすくんでしまうのは、もったいないと思わないか。

…もったいないかと思ったかは知らんよ。
けれど、何かしたいと思ったから、この小瓶を流したのではないかと感じたのだ。
・・・小瓶を見る
烏羽
おっと。
前した返事の補足をさせて頂きたく。
(他の方の返事を見て気付く事もある)

お返事のお返事(ラリー的なやり取り)に関しても同じくだな。
自分が小瓶主であっても、拾った側であっても、好きな時に返事を書くし、来るかどうか期待はせず、もしも来たら嬉しいし、やりとりを続けようとする事もある、そうでない時もある、って感じ。

小瓶主さんとか、小瓶主さんからのお返事を貰った方が、返答するために返事をしたとする。
その時、相手からの返事が返ってこなかったら、小瓶主さんや、小瓶主さんへ返答した方が不安になったりする事もあるとは思う。

ただ、お返事のラリーを続けても、歯切れが悪いというか、だらだら続く感じを避けたいとか、これ以上時間を取らせたくない、などと思う場合もあるかもしれない。
のんびり続くその感じや、連続したコミュニケーションを求めているという事もあるかもしれない。

現実で忙しいかとか、心の余裕があるかとか、運営さんの掲載とか、色々とあるのかもしれない。

その点は、現実で、というか、会話でのコミュニケーションと似たようなもんだと思ってる。

…ちょっと、何処が会話の終わり(やりとりの終わり)なのかって事を、言葉にしないと伝わり難い、フワフワしたまま終わりやすいって事もよくあるし。
終わりだと伝えたとしても、そこにまだ聞きたい事だとかがあって、お返事が来れば、やりとりが続く時もあったり…
やりとりが続いたと思ったら、急に途切れる事もあったり。

まあ、そこん所は「流れ着いた小瓶」だと思ってるので(前に書いた小瓶に辿り着けないうんぬんも含め)、そう考えて自分の感情と折り合い付けてるかね。
・・・小瓶を見る
烏羽
いや、待て待て。

高血圧な上に無理に筋トレすると、血管が耐え切れずどっかしら異常が出る可能性がある。

筋トレをするなとは言わないが、心拍数の上昇というか、動機が激しくなる時には気を付けて、その都度、動機がある程度収まるまで運動量を緩めるなど、体を労って欲しい。
(水分補給を忘れずにな)

で、お節介かもしれんし、もう知っている事なら流し読みして欲しいのだが…

運動に関して、脂肪を燃やす為には有酸素運動が良いらしい。
有酸素運動というと、早歩きでやるウォーキングとか、縄跳びとか、フラフープ、自転車とかエアバイクとか、簡単に言うと動きが持続しつつ、呼吸を続けるものになる。
(筋トレも同じく。ランニングは、心拍数や血圧の観点から、あまり小瓶主さんへオススメできない)

因みに、食事の時、噛む回数を三十回程として意識するのも良いらしい。
満腹中枢を刺激して、食べ過ぎを抑止できるとよく言われている事もあるが、「三十回噛む」という行動も運動の一つになる。

どんな食べ物が良いか、詳しくは調べてみて欲しいんだが、玉ねぎや、納豆とかトマト(←脂肪の吸収を抑える作用もあるそうな)とか、血液がサラサラになるようなものや、血管を柔軟に、要は強くできる栄養が見込める食べ物を、意識的に摂るといいんじゃないかね。
(高血圧の時は塩分を控えるとかも大事だったような。あとは、カリウムのある食品の、適度な摂食とか)

ただ、食べ物に関して、カリウムにしろ、幾ら必要なもので、良い効果が期待できるとしても、栄養の取り過ぎは逆効果になる。
そのため、栄養バランスの良い、適度な食事が大事になる。(栄養価が高いからといえど、ほうれん草を偏って食いすぎると尿結石とかになる事も)

また、肥満だけではなく、高血糖による血管の硬化が、高血圧を招いている事もある。…が、一概にそうとは言えないので、病院の健康診断や、動脈硬化検査とかを受けたりで、医師と相談し考えた方がいいかも。
(相談された上の運動ならお気になさらず)

あと、食事制限について、もうご存知かも知れんが、お菓子などの糖分や、揚げ物の油などが一番カロリーが高く、太りやすい(脂肪の元になりやすい)。

(一応書くと、お菓子やジュースなどの糖分は大抵過度だが、米や根菜などの炭水化物や、果実やある種の野菜などから来る糖分は、そればかりをやたら多く食べるとかじゃなければ…、また飢餓状態のため、糖分を吸収しやすくなっているとかでなければ、過度の摂取にはなり難いし、脳や筋肉などが運動するための主要な栄養として、必要だから食べている。糖質制限ダイエットが流行っていると思うが、カロリー制限ダイエットでも同じく、すべての糖質を抜いたら逆効果になるので、栄養管理が大切になってくる)

意外にも思われるかもしれないが、チーズ(種類にもよる)や豚肉などに含まれる動物脂質や、タンパク質を摂っても、糖分や油に比べると、脂肪の元にはなり難いという事が解ってきているらしい。(運動していると尚更)

むしろ、タンパク質を取る事で、筋肉も付くし、基礎代謝(生命維持のための消費エネルギー)も上がるので、身体の脂肪を燃やし易くなる。
(かと言って、脂肪も必要だから蓄えているのであって、脂肪の全てを燃やせば、死亡リスクが高まる。体脂肪率は、女性だと20%〜29%が標準とされている)

逆に、タンパク質を取らなかったり…
基礎代謝のカロリーと、筋トレなどの運動量を合わせたものより低いカロリーの食事だと、筋肉が痩せてしまうので、体重は落ちても、脂肪を燃やす効率が落ちたり、脂肪が付きやすくなったりもする。

…ただし、脂肪よりも筋肉の方が重いので、身体のバランスによっては、178cmの身長で、90kg付近の体重がおかしくない時もある。
(ボディビルダーとかマッチョな人の話)

BMIと身長による適正体重や、体脂肪率を調べてみるとか、身近にあれば、体組成計を利用してみるとか…、とにかく、「体重が落ちて、痩せれば必ずしも健康になる」訳ではないので、そこの所はお気を付けを。

(血圧の高まる要因が一つなくなるので、下がる可能性はあるが、複合的な要因で高血圧になっている場合はその限りでないと思う。ただ、肥満度というか、内臓脂肪の減少は、動脈硬化などの予防や血圧の上昇を防ぐようなので、効果がある筈。知りたければだが、内臓脂肪の、大凡の測り方とかも確かあったと思う)

そういえば最近では、腸内環境を整えるのも良いと聞いた事があるな。
・・・小瓶を見る
烏羽
基本的に人間の判断力だとか、思考力とか、物を見た時の認識とか、みんな違うものだよ。
(メンタルも含めた体調とか、今までの経験の癖とかにもよってくる。)

初めてやる事に対してだって、ある程度、何かしらの共通点のある経験や、学んできた事を活かそうとしてきたノウハウ、そして心構えというのが、人それぞれ違ってくる。

また、極端に言えば、考えて何かをする人と、ぼーっと何となく物事に当たる人には違いがあるので、「初めて」という条件は同じでも、対応が違ってくる。
人それぞれ、過去から来るものを含めた現在の対応や、今までの経験から学んできた事が違うので、能力に「出来て当然」はないと思う。
(なので簡単さが違う。あるいは、「何が」簡単なのか、そこまでの手順がはっきりしていない為に見えていない、などが思い浮かぶ)

そりゃ、当事者というのか、周りに自分よりできない人がいて、何かしらの被害を被る時や、時間がなくて切羽詰まったような状況とかには、イライラしてしまうんだろうけど…

ただ、人として違いがあるという上で、例えば一言「見ればわかる」と言われても、「何が」という主語や目的の説明されていない言葉になってしまうので、大事な部分が通じない事も多い。

やってみた時に上手く通じるかどうか、気が向くかどうかは別にして、一人一人の速さってのも違うから、自身とどの程度の違いがあるのかを理解した上で、やり方とか注意点を教えてあげれれば、より的確な指示、アドバイスが出来るのではないかと思った。

その人の事は知らんので、肩を持つつもりでもないけど、たとえ状況判断が出来るとしても、判断出来る故の申し訳なさから認識や思考力が落ちて、やって貰った事へのお礼が言えなくなる、なんて事がない訳でもないし。

怒られていたり、ミスしたら尚更の事、焦ったりで自分が何を言ってるのか解らなくなるなんて事や、思っている事とは真逆の事を言ってしまうなんて事もある。
(人間の防衛機構が働くと、いわゆる逆ギレというか、無意識に怒りという感情が働き、上記の状態に近くなる事もある)

その人に関わった事がある、周りの人から、その人へ教える時、どう教えれば通じたかという、何かコツのようなものや、注意点はないか聞いてみるのもいいかもしれん。
・・・小瓶を見る
烏羽
人は本当の事も、嘘の事も言う。
人によっては、自分自身さえ、騙せてしまう。

だが、どうだろう。
自分自身のなりたいものを思い描く時は?

人は一瞬一瞬を生きながら、過去や未来という遠くも見る。

そうやって、社会という群れ、人間関係という問題、そういったものを起こさないよう、倫理観から責任を持つ。

国としての法や安全保障の観点から、国民に義務や権利が生ずる。

取れるのはその中で、己が選択しようと、選択した行動への責任だ。
流れに乗せられたようなものへ、体を動かしてしまった責任は付いて回っても、気づかぬ内に悪い流れへ入ってしまった事へ、どんな責任が取れるだろう。

取れるものは行動。これからどうしたいのか、だ。
強いて言うのであれば、それが、これから取れる、なんらかの責任へと繋がるのだろう。

答えや正解なんて、人間が概念として作ってるだけ。
一人一人の人間の中にしかない。

俺の今書いている文章だってその一つ、一人の概念の現れだ。
十六夜さんだって、そうだろ?「わからない」って事が一時の答えだって訳で。

なら、自分自身の内にある、知らない事がどれ程あるのかを理解していければ、自ずと見えてくるもんなんだろうさ。

一瞬一時の中で、これからどうしたいか、どうなっていきたいのか。
そうやって、人間は…、「何が良し悪しなのか」、「答えはあるのか」、現実と関わる自分の姿を、知ってか知らずか、つぎはぎに作り出しているものなんじゃないか。

真実や、現実という事実に近付こうとするのであれば、手段は違えど、重なる部分は出てくるのかもしれない。

それを人は共通点だの、普遍だの、真実だのと、認識するのだろう。

…だからこそ、それが、あくまで、「自身の概念」だと言う事を、忘れやすいものでもあるのだろうがな。

初心というものは、真の意味では帰ってこない。
だからこそ、初心を心掛ける必要があるのかもしれん。

少しでも手放さないように。
手放しても、もう一度作り上げられるように。

俺はその途中だ。

…柔軟運動をしてると解るが、随分身体が硬くなったものだな。
・・・小瓶を見る
烏羽
言葉ってのは難しいよな。

結局の所、言葉は自分の、一瞬の思いの、そのまた一部を表すものであって、他人に自分の「思いの全て」を説明できるかと問えば、そうでもなかったりする。

また、殆どの思いを言葉に出来たとしても、読み手側の解釈によって、部分部分伝わったり伝わらなかったりする箇所も出てくる。
(そういった事から来る、判断の難しさから、言葉に詰まる事もあるかと思う)

一言に「面白い」と言っても、「何が面白いと感じたのか」は、その言葉を発した本人にしか解らないか…、あるいは、その本人が、感覚的に、「なんとなく」発した言葉であるなら、本人にも解らない場合だってあるだろう。

(平和的に「面白かった」という言葉を解釈すると、「人1人の人生が知れて、興味深い面白さだった」と感じた所もあり、その言葉を使ったのかもしれないなと個人的には思う)

だけど、思いの丈を書いてみて、それを自身の目で見る事にだって、意味はあると思う。

その暗い話は、どんな風に悲しかったのか、あれは怖かったり、不安だったのか、悔しかった、怒りが湧いてきた、憎しみが湧いていたりしたのか。

また、色んな思いが渦巻いて、どうにも一つの感情、感情を表す言葉として捉え切れない事もある。

この小瓶で、小瓶主さんが言葉へと書き起こしたように、気持ちを言語化したものを読み返してみると良いんじゃないだろうか。

気持ちを言語化していない箇条書きにしろ、読み返してみれば自分の気持ちが湧いてくるだろうから、今回の小瓶のように、その気持ちをまた別の所(今回で言えば宛メの小瓶だが、ノートやメモとかでもいい)で書いてみると、少なくともご自身の気持ちは解ってくるんじゃないかね。

大きなショックのある出来事だと、人間、どうしても感情は揺れ動くと思うので、その中で、言葉を考えて説明する際には、言葉がまとまりにくかったりもする。

その点、気持ちを書き出す事でも感情の整理になる上、それを見て確認する事でも更なる感情の整理へと繋がると思う。
(延いては、説明する為の、言葉の表現の向上にも繋がる)

また、この小瓶の文章は、見た感じ、説明下手には感じないというか、状況説明も、小瓶主さんの気持ちも、俺の解釈が間違ってなければ多分、伝わってきていると思う。
・・・小瓶を見る
烏羽
…なんで、自立が出来ない中で、それでも誰かを助けようとする事がいけないんだ?

なんで、自分が救われたいから、感謝や自己承認を満たしたいから、それで誰かを助けようとしちゃいけないんだ?

酔いたいなら酔えばいい。

何が愚かなのかを理解しているのであれば。
何が困るのかを理解しているのであれば。
何が迷惑なのかを理解しているのであれば。

…恥ずかしくなるのは自分だけだろう?
本当の愚か者ってのは、自分を愚かだ、なんて思いもしないような奴だ。

理解があるのなら、それらに対しての対処だって考えられるだろう?

小瓶主さんは、手の届く範囲に手を出してるだろう。

自分にそんな力はないと思いつつ、助けたいと葛藤する。思いを綴った小瓶を流す。
それが今、その時に出来る、手を伸ばせる事だったんじゃないのか?

それは偽善、上っ面の見せかけじゃねえだろ。

少なくとも、カガリさんには、自分自身の内側を救おうという力がある訳だ。
もちろん、カガリさんの思う、手を伸ばしたい範囲の、苦しんでいる人を含めて、だな。

正直、悪いが、「メサイアコンプレックス」というのも初めて聞いたし、それ故に治し方とかも解らん。
それに、助けられるか助けられないかなんて、やってる途中、あるいはやった後でも解らん。

少しでもカガリさんの気が楽になる事、延いてはそれを見た俺の気が楽になる事は何かないかとは思ったが、結局出来るのは、自分の思った事を、倫理観を守りつつ、正直に伝えようとする事だけだ。

カガリさんにも、自分で立つ力というのか、ご自身の、内側を救おうとする、助けようとする力は、少なくともあるだろ?
人間、それぞれ違うとはいえど、それと似たようなもんだよ。

突然だが、俺は、命とかについて、こう考えてる。
「人間関係、人生、命、これは、自分と、他人とが存在して出来てるもの」だってな。

確かに、命は自分の、一人のものかもしれない。
だけど、誰か何かと関わった以上、食べ物を食べたり、誰かの知識や経験を知ったりする以上、他人との関わりの中で構築されてきた命なんじゃないだろうか、って。

…まあ、ここまで書いておいて、読んでくれているのなら、ズルイやり方かもしれんが、俺もカガリさんの命、人生の一部になるって事だ。

馬鹿馬鹿しい話かもしれないが、少しの時間でもいい、その俺を殺さないでくれや。

…いや、別にそんな深く考えなくても良いんだけどな、見ず知らずの他人だし。
それに、そんな見ず知らずの、わけわからん他人を、自分の命や人生の一部なんて考える必要性もないし、考えたとしても含める必要もない。
(気色悪い事を言ってる自覚はあるので、ドン引きしてくれても構わんよ、それはそれで笑えるからな)

でも、とにかく伝えたいのは、あんたは一人じゃない、孤独じゃないって事だ。

…だが、まあ、一応言っとくと、誰かを助けようとするのは、とても難しい事だし、それだけエネルギーを使う事だと思う。

だから、辛い時とかは、考える事もそうだが、控えめにしたり、疲れている時にはちゃんと休めよ。
ちゃんと休まないと、記憶とかノウハウとかって身に付きにくいらしいからな。

誰かの助けになる事が出来るかもしれなくとも、誰かから助けを受ける事があるとしても、本当に自身を救う事が出来る力を持っているのは、自分自身なのだと、俺は思っているから。
(精神的にも、物理的な肉体としても)

大きな、全体重を預けて、寄りかかれるような、そんな支えじゃなくとも、そっと側に寄り添うようなものでも、支えは支えだ。

抽象的な表現になるが、助けようとする側も、助けを受けようとする側も、どちらも寄り掛かりあって、互いに今にも倒れそうとかじゃなければ…
支え合いながらでも、支える力が少なくとも、立ち上がる、あるいは立ち上げる力を持つものだと思う。

至らない点があると感じれば、時間が掛かったとしても、成長すれば良い話よ。
(助けようとしながら、自分も成長しようとするのは、険しい道のりかとも思う。やりたければという話でもあるが)

辛い状況なのかもしれない。
こんなものはただの、意見の押し付けだと解っている。
だがそれでも、その救う力、立ち上がる力をご自分の手で手放して欲しくはないんでね。


…因みに、こういう流れを、態々計画して作り、誰かを信じ込ませようとか、都合のいいように丸め込もうとする演出をするのが、偽善っていう奴なんだぞ…。
(いや、別に俺はしてないが。本当に。…という旨を書くと余計に怪しく見えるの図)

それと、ある程度でも自分に酔ってる部分がないと、こんな、読み返してみてこっ恥ずかしい文章書ける訳ねーぞ!
(これが自分に酔っているという悪い人間の例でもある)

感覚的に書き綴ったから、俺のもまとまりなく、読み難かったかもしれん。
そんな中、もし読んでくれたのなら、こちらこそ態々、ここまで読んでくれてありがとうな。
・・・小瓶を見る
烏羽
(長くなったので、もし読まれる時は、お時間などに気を付けて下さい)

死が無かどうか、それは解らない。
死んだ後どうなるかなんて、生きている人間には解らない。
少なくとも、どうなのか俺に確証は持てない。

だから俺は、「死は無かもしれない」と仮定してもいる訳だが、来世はあるかもしれないとも思うし、ご先祖様の墓やら、神棚やら、そういったものへ向けて会話のような事をしたりもする。
死後の世界の存在を否定はしないよ。

(心当たりはあるので、言わせて貰えるのならば、話の流れから、それらのどれか一つを仮定し、話が進む事もあるので、もし宛メの中で、俺のそういう返事が不快だったという事なら申し訳ない。俺の勘違いだったなら、その周りの話はスルーして頂けると助かります)

ただし、個人的に、否定しないと思ってはいても、確証のない事はどうにも、自分の取れない範囲の責任として言いたくない事があるので、無いものとして扱ってしまう事がある。
その点、気を付けるように努めたいと思う。

ちょっと角の立つ言い方かもしれないが、「やったもん勝ち」という考え方や認識を決めるのは、その人それぞれだとも思う。
(やったもん勝ちで、やられ損なのかと言われると、そういう状況もあるし、そうじゃない状況もあるから個人的には一様に判断できない)

また、この状況、俺の立場から、正直かなり憚られるが、様々なものことに対しての考え、認識や判断から、どのような行動へと移るのかが、人それぞれが背負う事の出来る責任って奴じゃないんだろうか。

修行だと思うも、来世があると思うも、それは人それぞれの考えや、宗教、生きる上での心の支え、あるいは一時一瞬の人が為せる愛って奴なのだろう。
(認識や判断からする、行動の種類の話)

この世の殆どの事なんて、ちっぽけな自分、延いては人間が正しく認識できるのか、そもそも真実を正しく認識できているのかどうかすら怪しいと思ってる。

だから、考えの足場のようなものへと、自信が持てない時、こうではないかああではないかと、何か、信じようともするんじゃないだろうか。

その点、無駄かどうかという判断は、誰か何かに縋り、それに頼るではなく、根本としては人の言葉じゃない、自分の感覚で判断するものだと思う。
(人の言葉や宗教などの教えという、支えを、情報として含めた上で、自分の感覚)

生きている限りは、意味があるかないか、自分で行動して作り上げる事が出来る。
人間が言葉を作れたように、物事に対して意味や理由を考える事が出来る訳だ。

だからこそ、生きている限りは終わりじゃない。
生きている事自体が、意味の継続に繋がる。そう考える事も出来る。

意味の継続。つまり、生きているというのは、意味を作り続けている事、(多少だとしても)行動の余地があるという事でもあると思う。
だからこそ、生ある限り可能性があるからこそ、良い先へ、繋がる事を信じるのだと、そう信じる事が一つの支えになる事もあるのだと考える。

また、多くの古くからある宗教の経典には、この世の不条理や不公平に対してどう対応すれば良いのか、どう考える事で凌げるのか、大体書いてあるように思う。

この世の不条理や、理不尽さに、心折られないように。
折れる程に心が傷付いたとしても、立ち上がれるように。
心を救うためにも、そういう「教え」って考え方や、倫理観…、いわゆる道徳って奴があるんじゃないかね。

で、それを否定されたのだと推測する上、もしかしたら自分のせいで傷付かれたのではないかという身の上からして言える立場ではないのだが…
否定された事で残酷な、ショックの大きい事柄が見えてくる時、小瓶主さんは、今までの考え方に関して、どうしたいだろうか。

信じ続けるか。新たに意味を考えるか。

他にもやり方は書き切れない程に色々あると思うが…、そこで思い悩む事は、無駄ではないと、無駄にはならないと、意味のある事に繋げられると、俺は思う。

命失われし時、残された立場が今後の為に出来る事は何だろうか。
比較し、不公平さを感じ、悔しく思った時、現実の自分に出来る事は何だろうか。
会いたい人に会えない時、故人をどう偲ぶだろうか。

例えすぐに自分の答えが出ないとしても、考える時間は無駄ではないと思っている。
何故って、何故かはよく解らないが、もう一度考えた時に、最初に考えた時よりも、考えがまとまりやすくなっている事が多いからだ。

この世の摂理や、真実なんて、俺には解らない。
だが少なくとも、先に進みたいのであれば、何かしないよりはマシだ。

辛い気持ちをどうにも出来ないまま、このままでいるよりはマシだ。
だから、もしかすれば小瓶主さんも、小瓶をここへ流したんじゃないのだろうか。

先程の「何が出来るか」に関して…
例えばだが、俺としては、「虐待される赤ちゃん」という状況がそもそもまずいので、それを防止、ないし、状況を知れる状態とはどういう立ち位置だろうかとも思うし、いざ子供を持つだとか、関わる事になるのであれば、そのような事をしないようにとか、自分も、もしかすれば虐待をするかもしれない危険性を心得て置くとか。

比較した時の境遇に関しては、人に迷惑をかけない範囲でストレス発散する(個人的に絵を描くとか歌を歌うとか、動物とか景色の動画や、音楽系のものを拝聴するとか。散歩するとか、など)事とか、比較している自分に気付けた時、その考えを止める事とかだろうか。
(他、止めるに相応しい自分なりの理由を考えて置く事で、何が困る事なのか解っていれば、止める以外にも取れる方法はあると思う)

会いたい人というか、故人の事だと思うのだが(解釈違いだったらすまない)、墓参りに行くとか、墓参りに行かないにしろ、何か、手を合わせて、心の中で語りかける…、つもりになるというか。
それで近況報告とか、挨拶でもすれば、通じる…かどうかは解らんが、俺はそうする。

参考になるかも解らん、この立場上、何を伝えようとも自己満足で、やったもん勝ちだと思いたくはないが、これこそ一方的なものなのかもしれん。

そう受け取られてもおかしくはないので、小瓶主さんに不快な思いをさせただけかもしれんという懸念はあるし、それだけに許されるとは思っていないが、今思い付く事は書いたつもりだ。

もしここまで、長い文章を読んで頂いたのならありがとう。
そしてごめんなさい。(盛大な勘違いだったら、それはそれですまない、なんか変な奴が来たなと笑ってやってくれたら幸いだ)
・・・小瓶を見る
烏羽
俺は自分の返事を書いた後、何書いたか覚えてない事なんてよくあるし、だから変な事書いてないかとかも気になるんで、気が向いた時には小瓶の内容を確認する為にも、マイページから飛んで見に行くぞ。

で、その繰り返しや、他にこの小瓶へ何かお返事したいな、なんか書きたいなと思いつつ言葉にならなかったりして、一つの小瓶に対して何度か見送っている内に、他の方々からのお返事や、それらに対しての小瓶主さんからのお返事が来ていたりする事も。
(そういう事も含めて、多分拾った数の表示が増える)

小瓶主さんのお返事を求めているかというと、なんだろな、運営さん方が忙しそうな時は、求めるような返事は極力控えるか、質問などで返事を求めるにしても短文にしようかな、とか思っている。

小瓶主さんからの返事が来たら嬉しかったり、また返事を返すなりでやりとりを試みる事はある。

逆に、自分が小瓶主になった時の立場としては、好きな時に、なんか思い付いたら返事を書くようにしてるかね。

昔はよく、出来るだけお返事してくれた人に対して、返すようにはしてたけど…
なんというか、そもそもが人間不信というのか、あんまり人と関わるのが好きでない事や、対面よりはマシだけども、緊張しやすいとかもあって、やりとりをする際に気になる事だらけになったり、感情的な面でパンクする事もあったんで。

まあ、気兼ねなく返せる時に返したり、気になった事や、どうしても伝えたい事があるって時には小瓶主としての立場から返事をする…、事もある、ぐらいかね。
(小瓶にお返事をする時もそれに近い感覚)

…いやあ、また別の話になるんだけど、多分、横沢さんに対して、状況を知らないとはいえ失礼な返事(親御さんがうんぬんかんぬん)をしてしまったかなとか今でも思ってるんで、正直どの面下げて返事をしたら良いのかガチで悩みながら返事書いたりしてました。
時期的にはもう結構前だと思うんだが、手前勝手に謝らせて頂くと、あの時は申し訳なかった。

あー、とにかくは、俺自身、小瓶主さんのお返事は、気付けたら読んでる事が多い、と思う。

小瓶主さんからのお返事は、強要したくないという事と、気兼ねなくというか、状況や都合を加味した上で、当人の気が向いた時にしてもらえれば良いかなと思うんで、来たら嬉しいけれど、期待はしてない、といった感じだな。

マイページ作ってない人とかもいるだろうから、そういう人が自分の流した小瓶に辿り着けるか、そこで小瓶主としてお返事を返せるか、って考えると、必ずしもそうではないだろうし。

コミュニケーションである以上、言葉の発信者にも説明する表現に日々のムラはある訳だし、受け手にも解釈のムラはあるだろう。

気を付けている上で、運営さんのチェックが通った返事があったとする。
その状況下で、もし返事の内容から、伝わるものに関してのすれ違いが起きて、悲しい事だがギスギスした感じになるのであれば、その状況で無理してやり取りを続ける必要性はないと思うんよな。

また、そういう状況だとなんというか、小瓶主さんや返事をした当人が少なからず傷付いて、その状態で即座に書く返事ってのは、経験上だけど心の動揺から荒くなったり、より誤解を招いてしまう可能性もある。

だから、もしそこで、お返事を送るとなれば、一旦落ち着くなり、書いた文章や、対象となる小瓶やお返事の内容をもう一度、あるいは念入りに何度か読み返すとか、慎重に、冷静に、あるいは感情を殺して、書き終えた返事を見直したりして、送る必要があると思っている。
(自分が出来ているかと問えば、出来ない事の方が多い故の反省点なのだが)
・・・小瓶を見る
烏羽
長話になるが、時間が許すのであれば、そして、もし気が向いた時があれば、読んで頂ければ幸いだ。

神と言うと、西洋感から来るキリストとかの、唯一の絶対神(God)、なんでも出来る全知全能、みたいなイメージがあると思う。

実は、これらのイメージは、元々日本に根付く「神様」感とは異なったものなんだそうな。

日本の神々は八百万。
様々な神々がいらっしゃり、それぞれ得意な事やそうでない事、言葉遣いが不遜ながら書かせて頂くと、出来る事や出来ない事があったりする。
(そもそも「神」という言葉が、大自然の擬人化だったり、「とんでもねえすげー半端ない畏れ多い方」みたいな、人間の偉業を称えた最上級の言葉だったりしたみたいだ。驕り高ぶるとか、権力問題とかで、生きてる人には使われなくなったようだが)

もちろん人間の都合にとっては、悪い事をする神様もいらっしゃる(祟り神とか、病の神とか)ので、神の悪意によって、生まれついて不幸な者が産まれているのかと問えばその可能性があると考える事は出来る。

ただ、捨てる神あらば、拾う神あり。…との言葉があるように、少なくとも「あらゆる局面の全てにおいて不幸な者」というのはいないのではないか、と思ったりする。

別の視点、神様だのを抜きに考えると、人それぞれの価値観というのか、「何をどの立場、視点から見て不幸と感じるか」という事はそれぞれ違い、かつ人生の中、次第に変化していくだろうなので、そういう意味でも全てにおいて不幸かどうかは…
俺には、人の人生も自分の人生も、これからの未来、一生涯不幸なのかどうか、判断できない。

もちろん、小瓶主さんには、そう考えても、それを凌ぐ程、大きな絶望、失望感、虚無感などがあるのかもしれない。

俺自身もそうなって、後遺症がない(多分、鬱病とか統合失調症的なものはまだある気はするが)という点で、軽いものなのかもしれないが、自殺未遂をした事がある。
(今は比較的平気)

だからそんな、保証できない、あるかどうか解らない未来に、希望を持てなんて事は、自分で確証を持って思う事が出来ない。

これは死ななかった、死ねなかった人間の言い訳なのかもしれないが、希望も抱けず、かと言って、抱く失望が現実に起こるかどうか、未来は解らないものだ。

小瓶主さんに対して、生きなければならない、などとは思わないが、生きている中で、少しでもその心の重みや苦しみが安らいで欲しいとは思うし、俺自身に対してもそう思っている。

また、話を変えるが(興味がなければ読み流してくれても構わんぞ)、人間というのは、似たような失敗をよくするが、決して同じ失敗などではなくてな、まず時間が違う。
時間が違うし、状況も違う。

それを何故か、「同じ失敗を繰り返している」と、度々判断してしまうものでもある。

それは何故かと考えると、恐らく、失敗した時の怖さ故、また失敗してしまうんじゃないかという不安故に、過去との共通点はどこかと、「目を凝らして、失敗を探しているような状態」になっているんじゃないかと思う。

だから、少し違う所のある失敗でも、同じ失敗として認識してしまう可能性があるのかもしれん。

だが、先に書いたように、時間が違えばまず違う。
時間が違うという事は、そもそもの状況が違うという事だ。

人はどうだ?自分はどうだ?
過去の時と、心情の中身に大差はないかもしれないが、回数も違う、時間による体調も、温度も、呼吸も、事細かに見ればまだまだ違う。

…読んでいると、何故、ここまで「違う」という言葉を連発しているのだろうか、…と思わなかっただろうか?

思っても思わなくてもなんでもいいが、「あの時と同じ」と思い、考える事で、俺の経験上、気が滅入る。

「あの時と同じ失敗を、また繰り返すのか…、自分は変わらないのか…」と。
(俺は後悔で立ち止まりやすい)

気が滅入るという事は、メンタル的にストレスがかかる。
…簡単にいうと、元気ではなくなるよな。

だから、もし「同じ失敗」だと考えてしまい、それによって気が滅入って、過去とは異なる、目の前の状況に対処するにも支障が出るようなら、「あの時とは違う」と考えて、「違い」を見つける。

「その違いは何か?」と集中し、少しでも考える事で、少なくとも態々、自身の気が滅入るような「あの時と同じだ…、出来ないんだ…」と考える時間を減らす事が出来る。

そしてその分の、元気と時間を、失敗した事のフォローや、その時起きている事への対処として、行動に繋げられる可能性を増やせる。

未来は解らない、結果も解らないが、態々不幸な方向へ進もうとする必要もないし、ある程度なのかもしれないとはいえ、自分の選択によって変化もしていくものだと思う。

(もし、人生に定まった運命とかがあるとしても、まず生きている中では、それがどんな運命なのか、何が定まっている事なのかなんて解らんべ。なんで、深刻に悩まなくても良いかもしれない)

…個人的なものなのかもしれないが、経験上、効果はある、と思う。
あるいは…、正直何がどうなって今の状況があるか説明できないが、何度も、上手くいかなくても繰り返してきたから、少しずつだとしても何かしらの経験が積み重なって、俺自身のやり方として確立してきているのかもしれない。

小瓶主さんの状況など知りようもなく、言いたくないのであれば聞く必要もないと考えたので、思い付いた事を書いてみた。

もしもではあるが、その点で悩みがあるのであれば、多少なりとも参考の一つになれば幸いだ。

読んでくれてありがとう。
・・・小瓶を見る
烏羽
手軽ではないけど、一番高いとなると玉露とか、次いでエスプレッソかな。

あと、抹茶はコーヒーとカフェインの摂取量が大差ないからおすすめ。
(茶には大体カフェインが含まれている上、日本人は茶をよく飲むので、ある程度カフェイン耐性がある傾向)

他、抹茶やコーヒーよりは低めだけど、紅茶とかも。

あと、紅茶などより低いとはいえ、麦茶とかウーロン茶とかにもカフェインは含まれているので、「1日のカフェイン摂取量」としてみると、多分そういった茶からの摂取量って意外と多いんじゃないかね。
(その分、「一回のカフェイン摂取量」としてみると、少ない訳だが)

因みに、あまりにカフェインを摂りすぎると、怠くなりがちだったり。
利尿作用などにより、水分不足になりがちだったりするので、別途、水分補給が必要になったり。

強心作用っつーか、過度に動機が激しくなったりして、心臓に負担掛かったり、高血圧の状態になる場合もある。

また、動機の激しさなどから、吐き気を催す事もあるし、恐らく周知の通り、睡眠障害になるので、飲む時間によって生活リズムを崩しやすいなどの点には注意されたし。

どれだけの分が、過度の摂取量になるのか詳しく知らんので、ご自身で検索して頂けると、多分俺よりも詳しく、解りやすい説明はある筈。

もしもカフェインによる良い効果を期待するのなら、多く取る事を意識するのではなく、適度に飲むのが良いよ。

デメリットを差し置いて、あんまり摂り過ぎてると、生物として耐性が付いていっちゃうから、カフェインの効果も薄まる。
(しばらく飲まなければ、大体耐性は下がるので、強いカフェイン含有量なのに効果がないと感じたら、個人差は間違いなくあるけど、最低でも一週間くらい間隔を開けた方が良いかも)
・・・小瓶を見る
烏羽
(やや文字数が多いので、もし目に付く事があれば、お時間や精神的な余裕には気をつけて読んで頂きたい)

多分、「医者」として、症状を治そうとする立場からすると、「ストレスの原因」となるものから患者さんを離して、症状を好転させようと努力するだろうと思う。

飛び込んだチャレンジは素晴らしいものだと思うが、それで身体を壊した、症状が出てきたとなるとな、どうしても状況から離れる事が頭に浮かんでくる。(その方が手っ取り早いし、少なくともストレス要因が減るので確実)

俺が今思い付くのは、ある程度、休む期間を考えるとか、予め退職後の事を考えておき、貯金やら、少しでも生活費の計算とか、生活状況を加味して、別の就職先を探しておくとかかね。

多分、資産の計算が出来れば(もちろん任意)、退職後どれだけの期間休めるかとか、現状で優先順位が高いのは「お金」なのか「退職して休む」事なのか判断を付ける時間も取りやすくなると思うし。

計算しないにしろ、極端な話、今取る行動は「自分の安全」な訳じゃない?
俺は医師でもないし、専門知識の裏付けとなる免許とかがある訳でもないので、鵜呑みにして欲しくはないが、「安全」を軸にして、何を優先した方が良いのか考えると良いんじゃないかと。

(体壊して動けなくなったり、ストレスで精神に過度な負担が掛かると困る状態な訳で。死ななければ、通院中という事もある、元気な状態になって復帰できる可能性もある訳だし)

これからどうするのかはご自身、延いては医師の方などと一緒に考えてみて欲しい事だが、チャレンジするにも体力は必要なので、またの機会を考慮するのであれば、症状が軽くなるなり、余裕ができた時に試すのが望ましいかなと思う。

他、今回チャレンジして、自分自身がどんな状況で、どんな状態になったか、なりやすいと思われたかについて、得た情報から対策を考えてみるとかどうだろうか。

対処法は、試す事も含めて、一回考えたきりで終わりじゃないので、逆に言えば一回で対処が思い浮かばなくても、余裕のある時とか、都合の付く時間を考慮しつつ、何回でも考えてみればいいと思う。

また、それを医師に聞いてみたり、ストレス発散や、休息方法(疲れが取れやすい休憩の仕方、睡眠など)について何かあるかと相談したり、調べたりも良いだろうし。

とにかく、まさまささんは身体壊す程に頑張ってらっしゃるんだし、それ相応に身体を休める時間も必要でしょう。
今こそは無理を控えて、無茶なさらぬよう。

あ、話は変わって、嫌いじゃなければココアなんかを一杯、如何です?
(こっちが勧めといて、行動するのは、まさまささんになるけれども苦笑)

この寒い季節、ココアってかなり身体のあったまりやすい飲み物らしくて、コーヒーとか度数の高い酒よりいいらしいでっせ。

(…というか、コーヒーや度数の高い酒には発汗作用や強心作用などもあるので、むしろ一時的に体温が上がった後、冷えやすかったりするらしい)
・・・小瓶を見る
烏羽
ええやん。
俺の考えてるイメージよりも、よっぽど感覚として解りやすい言葉の表現だと思う。

それに、小瓶主さんにとっての発見なんだし、いわばあなた自身の為の、考え方や、自分自身への向き合い方という基礎作りみたいなもんっしょ。

小瓶主さんご自身にとって解りやすいのであれば、その方がいいと思う。

あんまり関係はないけど、年齢に比例して経験数が多くなるとはいえども、年齢の高さが、経験から学んで身に付けたものの数や、知識の数を表しているとは必ずしも限らん。(不意の間違いや忘れている事もあるし)

誰しも、知らない事は知らないし、経験から何を学ぶのか、学ぼうとするのかというのも、運のような要素もあって、違いのあるものだ。
(それが一人一人の常識を形成する)

世間常識っていうのはそういう事の集合体だと思うので、一人一人価値観が違うのだから、一人一人の常識に重なる所があり、似る部分はあれど、それぞれどう思い、感覚として持っているかも違うものよ。
(また、だからこそ常識、マナーというのはその違いから来るいざこざを少なくしよう、思いやりのある行動を取ろうという、推奨される決め事、ルールでもある。法であれば義務だったり)

長ったらしくなったが、早い話、個人が口に出していう「一般常識」というものは「知っていて当たり前」という前提で使えるような言葉ではないって事やな。
(だから恥ずかしいという事はないぞ)

そうだな…、小瓶主さんの小瓶を見て、自分の感覚がどうなのか整理しつつ、文章として表してみたくなった。

個人的には、別の捉え方というか、また違った解釈からの表現なんだけど、過去も未来も同じものとして考えてるから、「最終的に今、どうすれば良いかへと繋がっている」というのなら良いんだと思ってる。

過去も未来も、どっちも見ようとしすぎたり、考え込みすぎると、どうしても「今」が疎かになりがちだからね。

…まあ、かと言って、未来や過去の事を考えないというのも、ちょっとした問題が出てきたりする。(予測や反省がなくなる)

過去と未来含め、今見えるものが何かを知り、それに対して何が出来るかを考える。
その、現在という地に、足がついている程度のバランス感覚というのかが、大事なのかもしれんと思っとるよ。

なんと言えばいいか、思考と身体の動きは、お互いがお互いを補い合っている、みたいな感じだからな。
己が身一つの上、誰か他の人に片方の能力を頼らない、という前提で考えると、どっちか片方が能力の高さや、実行回数として行き過ぎれば、片方を置き去りにしたままでは困る時が来やすくなるのかもしれん。

まあ、テストとか、仕事とか、車の運転とかしてたら嫌でも思い知らされるんじゃないかな。(俺にはどれもないが)
・・・小瓶を見る
烏羽
(長いので、もし読まれるのであれば、暇じゃないとか、寝る前とかにはあまりオススメ出来ないのでお気をつけを)

陰キャ、陽キャ、ねぇ。

ネガティブとかポジティブ、みたいなもんで、「どっちかっていうと」って話じゃない?

そんな明確に、極端にどっちかに分けられる人間なんておらんやろ。
少ないとしても隠と陽、それぞれが混じり合ってるもんじゃないか?

結局、陰キャはこういう奴だ、陽キャはこういう奴だと、概念を作って、レッテルを張っている。
そのレッテルが、自分はどっち側の人間だという判断や認識を支えている。

怒ってる時に、相手が何言ってても言い訳やらに聞こえたりしないか?
ちょっと抽象的な表現だが、失敗して悲しい時、自分に非があると思い責任感を感じて苦しい時、目に入るものの全てが、聞こえる話題が、自分の失敗を浮き彫りにしているような感覚を感じた事はないか?
(全部自分のせいだ、とか)

逆に楽しい時でもそうだ。
神様が見ていてくださったと、実際どうなのか知らんが、都合よく考える事はないか?
上手く行った時、絶対次からも上手くいくなど、楽観的に考える事はないか?

そういうのと一緒じゃないかね。
自分の考えている事、認識している焦点。多分、目や耳、感覚器官から入ってくる情報を、そういったものの材料にしがちなんだよ、現状の人間ってやつは。

自分の身の事の延長線上から、物事を判断する傾向にある、とでも言い換えられそうだがね。

だから、そうだな、まず、陰も陽もそれぞれ面白い所、嫌な所は感覚としてあるんじゃないか?
陰と陽そのものに、どちらが良いとか悪いとか、そんなものはない。

あるとしても、それは人間の判断という奴で、陰でも陽でも、良い奴は良い。悪い奴は悪い。
少なくとも俺はそう思ってる。

陰も陽も関係ねえんだ、小瓶主さんのあんたが、ご自身の事を卑屈な所があると考え、それが嫌だと感じるんなら、それに対して対応すればいい。

(陽にも言える事だが、陰という立ち位置が「卑屈」を保証するものではないのに、いつのまにか「陰=卑屈」「陰=悪、恥ずかしいもの」などという図式が頭の中で成り立ってしまう事がある。これが、最初に書いた「レッテルの支え」から来る問題点)

別に性格を直せって言いたい訳じゃない。
ただ、まあ、もし仮に性格を変えたいってんのなら、物理的に、脳の思考回路が変わるまでは時間がかかる。
だから、最低でも3ヶ月以上は掛かると思った方が良いかもな。(気長に考えた方がいいかも)

また、急にテンション変わって騒ぎ出しても、「あいつ普段とキャラ違くね?」みたいに思われても仕方ないので、それも含めて少しずつ変えていくのをオススメする。

自分の…、嫌な行動を止めて、理想、もしくは理想に近い、取りたい行動を取る。
その回数を、日に日に少しずつ増やして行けばいいと思うぞ。

また、性格を変えようとしないにしても、卑屈なところが嫌なら、自分が卑屈になる時間から逃げる。という手もある。

つまりは、「今卑屈になってるな、反省点も見つけたのに、まだ必要以上に自分を責めてるな」と感じられたら、一旦考えるのをやめて、深呼吸したら良いんじゃないかね。

悲しい時に、わざわざ自分を責めて、さらに悲しくなる。
俺も卑屈だったから…、というか、今でも若干その気はあるが、これって悪循環だろ?

なんで、悲しい時に、さらに悲しくなるよう自分で誘導しちまってんのかっていう。

その時間を、失敗した事とかがあれば、反省点を探すなり、次はどうしたら良さそうなのか考えた方が都合もいいしな、そこまで考える気力がなくて疲れてる、あるいは考えても疲れて思い付かないってんなら、自覚がある時点で休むなり眠るなりが行動の選択肢として上がってもくる。

(面倒だったら、俺の文章もいっぺんに読み切らなくて良いからな)

勘違いして欲しくないんだが、「後悔をするな」って事ではないぞ。
「後悔をして、反省点が見付けられたら」それは良い事だと思うが、「後悔して、悲しんで辛くなって終わり」ってのは、避けたくないか?って事だ。

でな、間違いなく、価値観ってやつは変わる。

今、小瓶主さんがこの文字を読んでるとしたら、情報を得れるだろ?価値観ってのは、得た情報から積み重なって、作ったり壊されたりを繰り返しながら、少しずつ形成されていくもんだ。

性格というのかね、感情の湧く基準というのか、そういうものは変わりづらい。

だが、その周りの行動や、捉え方(都合が良い悪いの解釈判断。つまりは価値観の元にあるもの)などは変えられる。
それが巡り巡って、感情の発露や対処の仕方を変えて行く事に繋がるんだろう。(捉え方とそれについての対応は、地続き的なものだろうからな)

とにかく、なりたいとか、目指したい理想とか、そういう場所があるんなら、余裕のある時とか、自分が良くない状態にあるなどと自覚できた上で、手の届きそうな時に取りたい行動を取るよう心がければいいんじゃないか。

もしもやるんであれば、出来るか出来ないかじゃなくて、やってみたい、こうでありたいという小瓶主さんの気持ちを、一番大事にしてやってや。

新しい事をする時には、赤ん坊と一緒だ、自分がどう歩いて良いのかも解らんのようなもんなのだから、手探りになる。
それを得て、自分なりのセオリー、テンプレートみたいなものが見えてくるもんじゃないかね。

手探りってのは結構にエネルギーを使うしな、ちゃんと飯食って休んでくれよ。

あー、あと、寝る前は大体疲れとかから、ネガティブになりやすい傾向があるらしい。
そんな時は、目を瞑った時、暗い視界の中、ちょっとチカチカするような、してないような、ザワザワしてるような、なんか色々変わり続けるよく解らんものが見えるんじゃないかと思うんだが、それをボーッと眺めてみる(?)のもいいかもしれんな。

色んな色があるのかないのか、個人的には面白く感じる。

結構長くなってしまったが、もし読んでくれたのならありがとう。
・・・小瓶を見る
烏羽
「良い人は早く売れる」?
似たような言葉もあるな、「良い人は早死にする」?

結果論だよ。

大体は「良い人」ってのが惜しまれる大きな一要因だろうから、多くの人に共感される事で、目立つ意見だというだけなんじゃないか。
(まあ、良い人が早死にする傾向はあると思うけれども、それは「良い人」って認識されている人物像が、大体自己犠牲傾向が強かったり、そういった性格によって自分自身の身の回りの事や生活がなおざりになりがちだからだろう。そうじゃない括りでの良い人もいるって話だな)

そもそも、誰に言われたか知らんけど、良い人が「売れる」って、なんかおかしくないか?

良い人とされるその「当人」も、ちゃんと意思があって自分で動く訳だ。
当人の行動性、それにもよるだろ。

良い人でも番いとなる人が見つからないとか、良い人でもそこそこ長生きしているとか、ニュースや巷の話題に上らなくとも、そんな人だって居るだろう。

何を思って言ったのか解らんが、文面だけから底意地悪く捉えると、最悪、その人にとって「都合が良い」人と交際したかったのに、既に目当ての人に意中の人や交際相手がいた事を惜しんでいるだけだ、とも考えられてしまう。

小瓶主さんに何があったかはよく解らんし、聞いていい話かどうかも解らんので聞く気もないが、まあ、「良い人は早く売れる」ってのは状況に適した言葉ではないと考え付くので、気にする意味はないと思う。
・・・小瓶を見る
烏羽
(長くなりますので、もし読まれる時は時間や、メンタル面などの余裕に気を付けてください)

あくまでも個人的な意見なので、小瓶主さんの周りの方々がどう思うかはわからんけども…
相談されて面倒くさいかだとか、そういう事はひとまず置いといて、小瓶主さんが不安だとか、消えたいまで考えるとすれば、それだけ重要な事だと思う。

それは迷惑だろうとそうじゃなかろうと、信頼できる人に話してみたり、聞いてみるなり…、重要な事だからこそ大事になってくるんじゃないだろうか。

んで、誰かを頼りにするとか、相談するっていう事は、そもそもが他の人、相手あってのものだ。
(他人と関わらないと成立しないの行動なので、もし他人と関わる事が迷惑な事という考えがあるなら、仕方ない事として止めた方が良いかも。本来的には関わる事そのものが、「迷惑」だってのもまずないと思うし)

で、迷惑っていうのは…、例えば、誰かに何か頼るとしよう。

「迷惑」とは、その相手が不快に思うかどうかという話だと思うので、頼る時の態度や行動が如何に思いやりに溢れ、気持ちのいいものでも、相手にもともと、何か耐え難いくらいの嫌な事や不幸な事があって、見えるものの何もかもが嫌になってしまっているような場合は、感情的に当たり散らしてしまう事もないとは言えない。
(こういう場合、暴力を振るってしまった時にはその人が悪い事になるのだろうが、そもそもどちらに責任があるとかいう話ではなく、理不尽な事というか、悲しい行き違いが起こった、と俺は認識する)

また、そういった不幸な場合以外に、忙しい状況の中など、相談する相手に心の余裕がない時(時間内に終わらせたい、など、焦っている時)、「面倒くさい」と言われてしまう場合はある。

嫌うとか怒るとか、面倒、迷惑って、相手(自分自身)がやる事、思う事なので、結構、それこそ理不尽な事や、勝手な場合もよくあるもんだよ。
そんなもんなので、そういう一つの考え方から見てみれば、皆生きてるだけで少なからず迷惑をかけてるし、その点を小判主さんが気を付けて、行動に活かせているんだったら問題ないんじゃないかね。

(人によって、何を嫌がるか、譲れない一線だとか、何を迷惑だと思うかは少しずつ異なるので、行動が不安であるのなら、一人一人を知る事も大切かもしれないと俺は思う。
その人の性格、特徴などがまだ解らなかったり、自分のやっている事、気を付けている点が不安であるのなら、せめて自分がやられて嫌な事はしないとか、思いやりを意識して行動に移せていれば良いんじゃなかろうか。間違っていると感じたら、その都度変えていく他ないし)

それに、まあ、嫌われたり怒られたりするのが怖いっていう感覚からかもしれないけど、それはそれとして。
そもそも他人への迷惑だとかを考えて行動できる人も少ないように思うし、立派な事だと思う。

ただ、話を戻すと、親密な関係というのか、仲の良い家族や、仲の良い友達、そういった中でも信頼できるような人なら、話せばちゃんと聞いてくれるかもしれないし、どうしても忙しそうな状況であれば、「相談したい事があるから、今時間大丈夫?」とか。
断られてしまっても、「できれば、不安なことがあって話したいので、都合の付く時間を教えてほしい」などと、予め今話せる状況なのか、いつ時間に余裕があるのか、などを尋ねるといいんじゃないかね。

また別件、なんというのか…
「メンヘラ」だとか、そういう言葉のイメージからか、「精神病」っていうのが、自分の気の持ちよう(根性的な)でなんとかなるような病気だと思われがちな傾向があると思う。

だけど、実際には脳の神経系だとか、臓器の不具合とか、そういった物理的な体の機構が、不調に関わっている事もあるし、そういった元気だけではどうにもならない場合、中々、自分では対処しようがなかったり、難しい場合もあるので、心療内科などの受診や、もし通学中であればスクールカウンセラーなどの助けを検討してみても良いかもしれない。

正直な所、小瓶主さんがこれからどう生きて行けば良いのかというのは、人の人生という事もあって、俺には解らないし、多分他人が決められる事ではない。

でも、そんな他人だからこそ言えるのは、小瓶主さんが、生きていても良いって事だ。

あと思いつくものとしては、好きなものに触れるだとか、好きな事をするとかで楽しめるなら、その時は楽しさを味わって欲しいという事。
ガス抜きというか、ストレス発散というかね。

それと、「問題の具体化」だろうかな。
詳しく説明してみると、「自分が、何を問題と感じて、それに対してどういった対処、対応が出来るのかという事を考える」って事だ。

将来の事に見通しが立たず、不安であるなら、それはどうやったら解決、もしくは少しでも緩和、心持ちを楽にする事ができるのか。

人に嫌われる事や、怒られる事、迷惑だと思われる事で、小瓶主さんご自身の何が辛かったり、困ったりするのか。
それらに対して、どのような行動や対処法が取れるのか。

そういうのをちょっと余裕のあるような、元気がある時に考えてみるのも良いんじゃないだろうか。
(答えはすぐに出せなくても良いと思う。また別の時に考えてもいい訳だし、試してみるのも大事だし)

最近は寒くなってきた事や、人によっては部屋のエアコンや電気ヒーター的な暖房(石油ストーブなど以外)を付ける事もあって、鼻と喉が乾燥しがちだろうから、うがいとか、ちょっとした水分補給とか、マスク着用とか…、ケアは気に留めておいてな。
(鼻や喉の乾燥は、免疫力を低下させる一要因なので…、つまりは風邪に気を付けろよって事だな)
・・・小瓶を見る
烏羽
(長文につき、時間や体力など、余裕がある時に読んで頂ければ)

無我の境地が悟りではない?
それは違うぞ。多分。

小瓶主さんにとって、「悟り」とは「その時求める幸せの状態そのもの」の投影だったのかもしれないが…
悟りは、あくまでも「いくつもの段階の一つ」というか、境地、状態を示す言葉なだけで、それが幸せな事なのかというとそういうものでもない…、気がする。

(言葉にすれば「悟り」の一言だが、一人一人、それぞれ別の悟りが存在しているように俺は解釈している。そして、決して、長い修行や苦痛を経る事のみにより至れるような…、ある種というか、言葉の意味的には多分「特別」というのは含まれていても、特別な…、高い壁のある境地ではないとも思う。もっと端的に言えば、昔の求道者が求める悟りと、今広く知られる悟りには違いがある、って事。個人的に、なぜ壁を作っていたのか、難解なのかという事にも多分しっかりとした理由があると思ってる)

なんと言えばいいのか、明確に言葉にはできないんだが、「自分の道や、自分が定まった、自分が見えた」って時や、それに近い場合に、悟りという言葉を見かけるような。
(求道者的な感覚からいうと、恐らくそこに「教える立場としての訓戒や教訓、倫理観としての知識と、指導者としての規範について」なども含まれるんじゃなかろうか)

よく考えてみてや。
大自然、大宇宙、そしてその一部である人間。

物理には法則があるし、俺は存在そのものが意味なのだと思う。

例えば、そこらへんに、無造作に、転がる石に意味があるか?

俺は、その石は、もしかしたら、地球の一部が、長い時間をかけ、川などで削られ、転がり、今ここにあるのではないかと思う。

それが本当に正しいのであれば、その石の背景、その石そのものを表している事になる。

その全ての背景を、写真のように切り取った一瞬が、「今」と呼ばれるもの、存在ではないだろうか。

だから、俺は、その一瞬の現れの、「存在そのものが意味」なのだと思う。
そして、それが「正しいのか、間違っているのかと思う事」が「我」ではないか。

全ては無意味ではない。無意味であるのなら、存在などしている筈はないと思う。(これも「我」だが)

要は、是非、良し悪し、善悪、その判断も、「我」のカテゴリーなのではないだろうか。

では、その上で聞きたい。
小瓶主さんは、「善人」に対する「我」、即ち、「善人とは何か?」というものは明確に定まっているだろうか。

それがないと悟りは生まれない。
逆を言えば、悟りの途中にある。

ああ…、そうだ、ついでに言っとくと、多分、「我」とは我欲のことではないと思うぞ。(欲そのものではなく、欲を含んだもの)

俺の思う善人には欲もある。

なんでって、仏陀でもなんでも、教えを広めよう、苦しんでる人を助けよう、そう思って行動してたんなら、それは我欲だと思う。

自分自身の思いを、実現しようという欲だ。
そして、その中に、気遣いなどの思いやりや、助けたいという気持ちが入っているからこそ、その行動を行おうとしたのではないだろうか?

そこには、彼らなりの道徳、倫理的判断があり、それに至るまでの理由、意味があったと考えられる。

「執着」という事に、良いも悪いもない。
(仏陀たちも、執着がなければ悟りへ辿り着こう、教えを広めたいとは、しなかっただろう)

あくまで、良し悪しのそれは、人間が状況に応じ、都合が良いかどうかを判断しているだけだ、と思う。
(執着を嫌がる理由があるのなら、それを否定はできないが)

では、小瓶主さんは善人でありたいと、何故執着するのだろう。
そうでありたいという、それ故の意味があるのではないのか?

ならば、その意味を立たせるため、自分の道を成すため、「善人」とは何であろうか、と問いたい。

少なくとも俺は、善人とは、完璧な人間ではないと思う。
善人であっても、間違いはするし、それを認める事もできる。だから罪悪感もある。

その過ちを認め、重みが理解できて、改善に努める事もできる。だからこその、善人なのではないのか?

あなたがその道を断とうとしているのなら、所詮他人事なので、そんなことを言われても虚しくなるだけかもしれんが、俺は悲しい。

現実は夢幻ではない。
だが、我ら人間の判断は、推測、憶測が飛び交う。
人間は目を通して、自分の意識、思考を通して、物事を見るものではないだろうか。

言ってしまえば、判断とは夢だ。
行動により実態を伴う夢だ。違うだろうか。
現実の中で、夢によって現実を認識しているのだ。

だからこそ、古き経典には、「我」は夢だ、と。
夢、つまりは、推測判断や思い込みが、現実から離れたものになり過ぎないよう気を付けよう、と…、時代背景を抜きに今風にしてみれば、そういった趣旨も書いていたのではないだろうかと、勝手ながら思っている。
(俺もよく解ってないので、厳密には違うかもしれないが)

解りやすく言って、過ぎたるは及ばざるが如し、みたいな。

それに、苦しみから逃げようとするも、人として健康というか、当然に考えられる事だ。(仏陀も苦しみを放棄したりしてるみたいだし)
小瓶主さんが将来の見通しの悪さから、不安になる事も仕方がない事だろう。

経典は、そうだな、あくまでも教えだ。
多くの教えは、認識の仕方や、人生や、苦しみに向き合った時の心の支え、気楽な生き方とは何かというもの等を教えてくれる。
もう解っているとは思うが、読んだだけで原因がなくなるという訳ではない。

具体的には、ストレスの発散の為の有酸素運動や、心療内科などで受診してもらい、「苦しみや気分が沈みがちである旨」を伝えるのも手だ。

多分、現実的に見て、仏陀もそうするか、何かしらの対処を考える事だろう。
(仏陀の人となりとか、実際に会った事もないし知らないけど、真面目にそういう事をすると思う)

あまり根詰めすぎないようにな。
生まれた時から善人、悪人なんて、そんなもんどこにもいやしないんだから。

もしも「善人」とはどういうものなのか考えてくれるなら、休み休み、気が向いた時にでも考えてな。
・・・小瓶を見る
烏羽
(長文かつ乱文なので、余裕がある際に読んで頂ければ幸いです)

ポジティブな思考か。
俺の中では、楽観的…、もっと言うと、ネガティブな思考の対として、物事を「軽く捉える、軽く考える」って事かね。
(逆を言えば、ネガティブは深刻に、重く捉える、考える事。悲観というか、都合が悪いものを探す事。)

俺が話をする前提として知っておいて欲しいのは、どんな人間にもポジティブな面もネガティブな面もあるよって事。
(明確な区切りを作っているのは人間の意識、延いては言葉から来るイメージや解りやすさのためであって、多分、両者は地続きにあると個人的に考えている)

死にたくなるとか、恥ずかしいとか、無理だなとか、そういう事をしっかり思うタチなもんで、俺自身の事を切り替えが上手いとは思えないが、なんだったか、「成功は99%の運と、1%の努力で出来ている」みたいな言葉あったような気がするんだけど、そんな風に考えてるから、いざ失敗しても「仕方ない」と思える。

もちろん、責任を手放そうって訳じゃないけど、例えばコミュニケーションにおいて、AがBに対し、純粋な楽しさから「あいつ面白いよな」みたいな事を言ったとする。

するとBは、「あいつ変な(悪感情的な意味)やつだから笑えるな」と、感じたとする。

これって、どっちに責任があると思う?

俺はどっちにもないと思う。
…強いて言うなら、Bがこれから、「あいつ」に対してする行動には責任があるだろうけど、現実的にはこんな状況より複雑な、難解な、雑多な要素を多く含んだ場合なんて沢山ある。

例えば、会話などと同様、コミュニケーションの場において、仕事であれば、部下のちょっとしたミスは、上司の言伝やちょっとした行動のカバーで補える場合もあるし、それがなくても上司の責任とは普通言えない。(仕事の立場上上司が部下の面倒を見るとかいう形式になってはいるが)

で、部下がミスするとして、「そのミスが何故、どのような要素で、どのような順序や工程で起こったのか」って、自分の体調なども含めて、全て厳密に考える事が出来るだろうか?
その中から、自分の責任とはどの範囲なのか、事細かに考える事は出来るだろうか。

(↑体調が悪いとして、その体調の悪さは、気圧や温度のせいなのか、それともそれに適応できない人間という生物のせいなのか、そんな事を考えても解らないし、その不調からやってしまった事には責任が付いて回るといえど、原因もよく解らないような事に対して何が悪いなどと厳密に答え難い。もちろん、推測は立てられるし、それによって防止行動や対処を考える事はできるが)

俺には無理だ。それこそ厳密に知るには、判断材料を得るためでさえも、運が絡む。
自分の知り得る範囲での、知ったつもりになっている範囲での責任にしか手を伸ばせない。(それに対する謝罪なり、対応や改善策なり、フォローなり)

しかも、解った事があったなら、さっさと覚えるなり、紙に書いておくなりしないと、大概忘れてしまうしな。
全く同じ事は起こりもしないだろうが、似たような場面は幾らでも想像がつく。だから、後悔とかも含めて、先へ繋げたく、活かしたくもなる。
(何より似た失敗を繰り返すのも面倒くさいし)

まあ、正直、努力してそれが実らない事もあるが、辛い気持ちで、苦しいままでいるよりは行動した方が気が楽…なのかもな。
考えてみて、自分でもよう解らん。

それはそうと、ポジティブって奴には良いイメージがあるかもしれないが、極論、悪い書き方、それが行き過ぎればただの軽率なバカだ。行動の先など見据えず、注意力など散漫になり、人の話も聞けないような感じを想像できるだろうか。
(究極的には恥ずかしさもない。それが良い事なのかと考えると悪い意味で微妙。物事の全てを、曲解含め、自分に都合良く解釈する事が、真に良い事なのか?というか)

ネガティブも同じく…、というより、まず感情が思考と結び付いていると、楽観的にしろ悲観的にしろエネルギーを使う。

その上で、深刻に考えるという、また別にエネルギーを使う行動を取り、その消耗によって動けなくなってしまうなら本末転倒でな。何のために悩んでいたのだろうか、となる。

ポジティブであろうがネガティブであろうが、それぞれの…、ここで挙げる以上の数の長所と短所を、活かせるかどうかが大事なんじゃないかと思う。
(書ききれない)

ポジティブであれば、今回小瓶主さんがイメージして求めていると思われるもののように(間違ってたらすまん)、物事に対しての心の軽さはあるだろう。
(ただ、最初書いたというか、楽観悲観、どちらか片側のみの人間なんてまずいないから、そこは関係なく、ポジティブベースな人でも、多かれ少なかれ恥ずかしさを覚える場面はあると思う)

だが、ネガティブであれば、物事を深刻に考えるからこそ、不安なもの…つまり、物事において懸念した方がいいと思われる箇所を想定する事ができる。
そして、責任の重みを理解する事が出来る。(だからこそ人目も気になってしまうものなのだろうが)

小瓶主さんがやってしまったミスは、過ぎ去ってしまったものだ、もう仕方がない。(と俺は思ってる)

だが、そのミスから何を学べるだろう?
これから何に注意し、何を身につけていく事が想定できる?
想定し、対処を身に付けるために、何を練習などして、努力できるだろうか。

…周りの人間がミスに対してあれこれぐちぐちと…、本人が責任を感じ、反省していない訳でもない。軽くても悪口は悪口。言ったそいつが悪い。
寧ろ、俺からすればそいつらの方が恥ずかしい行いをしていると思う。

不安に思う事があれば、聞く事もできる。
後悔があれば、今後どうしたいのか、どうすればいいかという想定へと繋がる可能性もある。

とにかくだ、ネガティブにも長所はある。

だけど、ネガティブな故のバランス感、重さに耐え切れない時には、仕方がないと、ある種諦めというか、どうにもならなかった物事への執着を捨てるのがポジティブって奴なのかもしれない。
(後悔はあってもいいが、後悔に押し潰されて、ネガティブな自分で見つける事ができた、せっかくの懸念点に、対処するための行動や解決策ができなくなってしまう事は避けたい。それ故の、楽観…、というやり方もある。いわば、まだ死んでないなら何かしら出来る事はある的な発想)

他、ストレス発散(対処)のためには軽くラジオ体操とか、ちょっとしたジョギングや早歩きを意識した散歩など、有酸素運動がいいらしい。
(ストレス発散の方法については、自分の趣味、状況、やってきた事などから人それぞれ合う合わないがあると思うし、それ故に沢山の方法があるので、気が向いたら、人に聞くなり、Webなどで調べてみてほしい)

あと、眠くなった時とか、疲れている場合において、「自分自身が深刻になっている」と感じられた時には、考える事を止めるなり、綺麗な自然の景色を想像するなりで、できれば思考を深刻な、嫌な事を考える事からは避けて、休めた方がいいんじゃないかね。

(あるいは、元気がある状態で、かつ気が向けば、考えてみて上手く掴めなかったり、解らなくとも、不安な事への解決策を自分なりに考えてみるとか。何度でも考えてみて良い訳だし、したくないなら別だけど、自分一人だけで考える必要もないし)

延いては、すぐに、ベースの思考というのか、それを変えられる訳ではないと思うけど(専門的な知識はないので詳しくは解らないが、人間の構造上、多分すぐに変わるのは無理があるので、やってる内に少しずつ変わっていくと思う)
不安や、嫌な気になった事が引っかかった時、「引っかかった」という自覚を感じ取れれば、それに対する対処(休もうとか、一旦考えるのは止めておこうとか、別の、大して疲れもしないどうでもいい事を考えようとか)を試す事も出来なくはない。

また、「考える」という事関連で、真剣に、悩みにしろ考えるというのであれば、何かテーマを決めて、紙に書くかして、頭に留めておくといいかもな。
テーマからズレてきたなら修正できるし、ズレの頻度が多くなれば、考える事に疲れてきたか、このテーマに飽きてきたか、などと予想も付く。(休んだり、一旦思考を止める目安にもなる)

別件、眠りやすくなる方法としては、寝る前には目に入る強い光を避け、テレビやパソコン、スマホなどの画面を見ない、ないしはスマホなどの画面の明かりを最低に落としたり、iOSであればおやすみモード的な奴で、何時から画面が暗くなるか設定とかを試したり。寝る前に嫌いじゃなければココア飲むとか。

目に入る光の刺激が強いほど、目が覚めやすくなるらしいので、不安な気持ちと合わせてより眠れなくなってしまう場合もあると思って書きました。
(…夜遅くまで宛メとか見てる人は注意な)

あとは…、そうだな、自分にない(と思う)ものを求めて、苦手を克服するとかも良い事だとは思うが、それよりも、自分の持っているものを伸ばしたり、深掘りしていった方が手っ取り早い事もあるかもしれない。

まあ、大それた話じゃなく、しつこく、ネガティブにも良い要素はある、って言いたいだけなんだがね。

…いやあ、すまんね、同じ話を繰り返すのも、疲れてきたってサインなのかね…

読んでくれたならありがとう。

焦った時は、数回深呼吸だぞ〜。ほんの少しでも、多少はマシになるぞ〜。
・・・小瓶を見る
烏羽
あんまり関係ないかもしらんけど、無垢とか純真とかってよく解らんのだよな。

汚れってなんだ?純粋って?

どうにも、調べれば調べるほど、子供が大人へ憧れを抱くように、例えるなら、大人が子供へ憧れを抱いている事を表すような言葉にしか思えなくなってしまって。
(そりゃあ厳密には違うのだろうが、どっちも同じような事に感じる)

事実的に、子供も嘘は付くし、本心を隠そうとする事もあるだろう。
私利私欲から盗みや、暴力を振るってしまう事もあるだろう。

個人的な一意見だが、ある種、子供を見る大人の目も、「無垢」になり得るのではないかと。

また、己の欲求に素直であるが故の、暴力行為など、当然起こりうる可能性の一つとしては考えられる。

考えれば考えるほど解らなくなる。
素直である事が、必ずしも良い事なのだろうか。

状況に応じて、正しさとは変わるものなのだろう。
正しさとは、ルールがあってこそのものだ。

自分の内側に、倫理観や社会性に基づいた考え方、自分の価値観や認識からなる考えがあればこそ、正しさは生まれるのだと思う。

だが、まあ、そんな事よりまず、「考え方」の基本のようなものを小瓶主さん自身の中に、ルールとして確立(←方法の固定ではなく、臨機応変に対処するものとして)した方が良いんじゃないかと思う。

例えば、頭で考えていると、俺の場合、次第に話題が逸れていって、最終的に、始めから何を考えていたのか解らなくなる事もある。

では、何が必要になるのか、と考えれば、初心に帰る事だ。
「何を考えたかったのか、何を見つけたかったのか、延いては何をしたかったのか」そこを紙に書くなどして、それなりに明確にしておければ…
例え考えた末に明確な答えが見つからず、「解らない」という答えが出たとしても、また後に考える事が出来やすいだろうしな。

また、自分自身が思考する事に疲れている時のサインを、ある程度知っておいた方が良いだろう。
俺の場合、集中力が散漫になったり、ネガティブな傾向の考え方をよくするようになったり、それで考えたかった事から話が逸れやすくなるとかがある。

大体、このような時は、脳のパフォーマンスが落ちているので、考えも纏まりにくかったり、細かいミスが目立つ傾向にある。

(何故、俺自身が、ある程度のルールを作ろうとしたのかというと、疲れている時に考えても楽しくないし、まともな答えもあまり出なかったので、それを避けるため)

そのような場合、別の事をしたり、休息を取ったり、運動したりする事にしている。

また、「考える」というのは自由な、自由度がかなり高いものだろうなので、自分なりの進み方を作っておいた方が迷い難くなるよ、という。

そろそろ寒くなってきたので、胴体周りの冷えには特に気を付けてな。
・・・小瓶を見る
烏羽
打たれ弱いのもあるかもしれないけど、対応が悪目立ちしがちなのかね。

また、別の観点、受け売りなんだけど、Twitterでそういう悪い例が多く上がっているから、全体的な民度というのか…、倫理観が平均的に上がってるのもあるかもしれない。

かといって、例え話、客も客として「お客様は神様」というのは店の、サービスとしての経営方針なので、偉ぶれる訳じゃない。
(わがままに振る舞えば当然迷惑な客になる)

また、エゴサしなければというのも解らんでもないが、例えばアイドルとか芸能人とかだと、ファンとの交流がある場合、それを探すためには検索の過程を省けない。
(見つけたくなくても目に入ってしまう事はある)

ましてや、個人に向けられた情報のやり取りも多い事だろう。
酷い時は、殺害予告やら、何の根拠もないただの罵詈雑言が飛び交う。それを我が身の事だと考えればどれだけ恐ろしい事かと、欠片だとしても想像出来る。

あくまで小瓶主さんがそう言っていると考えてはいないが、「心の強さ」ってのは、一方に責任を押しつけられる言葉じゃないだろうしな。
(こういったSNSの場合でも、結局はコミュニケーションなので、二人以上のそれぞれに責任がある)

よってたかって、炎上の油の一人になる事は…、俺は避けたいね。
場合によっては、何か、これは悪い事なんだという情報の拡散にもなるし、どういう困った事が起こるのか、起きているのかという指標にも繋がるが、裏にいる人間が、どれだけ傷付くかも解らない。

…まあ、そもそもTwitterを見てはいても、利用してない俺の立場から言って、どうなのかとも思いはするけれど。
そう人間、完璧じゃないものだろうさ。

感情の昂りなどから難しい時もあるが、せめて、少しでも自分の持つ倫理観に、見合った行動を取れるようにだけはしておきたいな。
・・・小瓶を見る
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