自分らしく生きたいと懇願するけれど、叶わぬ今日を迎えるばかり。愚痴をこぼし、衝動に任せ、無計画な行いをしたとしても、それはただ、大切な時間とチャンスをふいにする。どうしようもなく、下手なのだ。生きることに喜びを感じるよりも、生きていることに恐怖を覚える。感動の一雫を味わうために、今日という苦悩を乗り越えるのであれば、希望の光は何処から、苦悶の空を照らしてくれるのでしょう。私の瞳に映る曇天は、生存のための日常をほくそ笑むようで、無性に、この怒りの獣物を解き放ちたくなる。しかし、奴らが揺蕩う天空と地べたを歩むしかない私とでは、仰ぐばかりの空間が支配し、この拙い獣物が手をのばしたとて、遥かに遠く及ばず、向かい風に笑いものにされながら、この感情と共に、涙するのみ。もし、私が天を勝ち取る事を恐れず、続ける事を諦めず、闇雲に研鑽を積み重ねる事なく、あの憎たらしい雲をこえるための、晴天を拝むための一助の羽があれば、私は向かい風すら味方につけて、一気に夢へと駆け抜けることできる。そう幾度となく夢想をすれど、疲れ切った身体が微睡みから覚めれば、濡れた瞼を袖で拭い、重いため息と空虚な日常達が、今の私を包み込む。そして、日々を揺蕩う卑猥な強欲達が、私の財を求めて躙り寄ってくる。あーあ、なんてことだ。今日も私のお財布は、コト切れた羽虫の様な軽さしかないというのに。刹那の情欲を血潮を求めて、今日の喉の渇きを潤そうとしている。こんな事をしても、なーんにもならんのだ。今日を生きるには、目標と計画と継続力がいる。夢ではダメだ。人は弱くて脆く、夢は儚く砂上と消えゆく。この日常に揺蕩う強欲の悪夢を薙ぎ払い、可能性を閉じ込める曇天を突き抜け、天の光を浴び、満点の星々の祝福を受けるためには、この苦悩と葛藤から今すぐに掻い潜るのだ。そして失敗するとしても、研鑽を尊び、計画と試行錯誤を絶やす事なく、心の鑽を振るい、実力を鍛え上げ、いつか心を躍らした、あの夢という奴に手をかける。それこそが、生きる事の一端なのかも知れない。この境地に、後10年、後20年早く気がつけたら、行動を起こせたら、今日の私は、輝ける星々と踊りながら、誰かの希望へとなり得たのだろうか。仄暗い希望に浸っていたけれど、眩い朝陽が夜を溶かして、その日暮らしの幕を開ける。おはよう、今日も何とか生存しよう。