LINEスタンプ 宛メとは?
カテゴリ
烏羽 さんの小瓶箱
烏羽
少し頭のネジが外れていますが、私は元気です。
Vtuberはいいぞ…

名前は、解る人に解ればいいという気持ち等から。
伝える事をはなっから諦めてるという意味ではないのであしからず。
固定された小瓶
小瓶箱トップ
烏羽
色々あって宛メに来れなかったけど、久しぶりにお返事するよ。

今、小瓶主さんが元気にしてるかしてないかはどっちでもいい。伝わるかどうか解らないけれど、これだけは伝えときたくて。

苦境に立たされても、何やかんや生きては来れた。
その事実はあなたが乗り越えてきたご自身の強さを証明するものだと思う。

あなたの予感が正しいかどうか、あなたが不幸かどうか、それはあなた自身が決める事だから何も言えない。
けれど、死にたい理由を作る為に、目に入る不運を、どうしようもない出来事を全てご自身のせいにしてはいないか?

死を諦めたくない事もどうする事もできないので残念に思いつつ、他人の意思なので仕方のない事だが、せめて背負わなくて良いものは肩から下ろしてやってはくれないか。

どうせ最後なら、金だって勿体ない。
全部手放すつもりなら、安い竿でも何でも、多少なり使えるもんを買って、どっかでミミズを捕まえて、川釣りでもするとかさ。

よそ様の事だから、苦しみや努力を100%理解できる訳もないが、小瓶主さんはそんだけ頑張ってきたんだから、釣りじゃなくても何かしら、息抜きぐらい良いんじゃないか。

生死問わず、小瓶主さんが多少でも心休める時を迎えられるよう願うよ。
・・・小瓶を見る
烏羽
(非常に長文になってしまってすまないが、それでも伝えられるなら伝えたいので、書かせて頂く。
多分、多めに見積もって、全部読むのに20分以上掛かるかも知れないので、時間に都合が付く時に読んで頂ければ)

なんというかな、不幸自慢じゃないが、俺は橋の下で野宿した事がある。
自殺するための移動手段が徒歩しかなくてね。山まで歩くには、引きこもりには時間が足りなかった。

夜は寒くて身体は冷え続けるし、飲めるのも川の水だった。
寄生虫や虫やらで、まともに飲めるようなものでもなかったが、少しでも飲める部分を探して、掬い取って飲んだ。
我慢できるような根性、強い自我もなかったものでね。

車が通る音や、体温につられてか、やってきては身体に這う蜘蛛やらの不快感で十分な睡眠も取れなかったが、眠りはした。

それでも、あの時を惨めだなんて思わない。
(「辛かった」とは思うが、それも過去の事で、今あの苦しみを味わえる訳ではないしな)

経過観察していないから、初期の診断を元にした推測だが、俺には恐らく統合失調症の症状もあったし、軽く鬱の症状も経た。
(これらの神経障害も、脳みそを使っている以上、一生涯付き合っていくものの類だ。緩和しても完治すると言う事はない。人生の一部になったようなもんだな)

疑心暗鬼に陥ったし、自分自身も信用出来なかった。(今もその気はあるが)
実際家族はいても、控えめに言っても信用なんて出来るような状態じゃなかったし、あの時の居場所なんてなかった。

自殺は失敗したし、せめて別の場所へ行こうと、何回かの家出も、発見者によって警察に通報され、補導されて家に戻る始末だ。
他人に言ったってどうしようもないが、心はズタズタだったよ。

確かに辛くてどうしようもなかった。
死にたい思いさえ叶わず、ただ寝る事だけが救いだったよ。
(そういう点では少し解る部分もあるかもしれんがね)

間違っても勘違いして欲しくない事だが、もっと辛い奴がいるなんて、そんなどうしようもない事を伝えたいわけじゃない。
(人の幸不幸は、人それぞれ感じ方が違うからこそ、比べられるものではないと思っている)

だから、少しでも人生に重なる要素があると思える分、そこの辛さが欠片なら解るつもりでいる分、主さんがどう思おうと、あなたが惨めだとは思わんよ。

最初の方の返事でも書いたが、あなたは苦難を乗り越えた凄い人だと思うし、これから死のうが死ぬまいが、その思いが覆る事はない。

詳しい事情は、その場に居合わせない以上、完全に把握できないから、俺の立場は赤の他人、傍観者だ。
(50通目のお返事をされている方の通り、限界はある)

だから、勝手に言いたい事しか言えないし、それによって何か、もしかすると不快に思われる事があったかもしれない。
違ったならスルーして欲しいが、それは申し訳なく思っている。

だが、それでも、辛さが理解できるつもりの分、頑張りに頑張ってきた事が欠片だろうと解るつもりだ。
(そこを疑われたら俺としてもどうしようもないがね)

現実は非情で、報われない事もある。何もしなければ落ち続ける。
俺も味わってきた。(その点、俺自身の社会復帰の難しさを感じてもいる)

それでも、抗えないような、決まりきった運命なんてものはないと思う。
強いて言うなら、自分自身の認識が、それを決まったもののように見せているだけだ。

何か言わせて頂けるのであれば、努力は運を掴むためにするものじゃないだろうか?

徒労に終わる事も多くあるが、それでも手を伸ばせる時は、伸ばさなければ、掴むことは出来ない。

その重要性は理解していらっしゃるかもしれないが、理解があったとしても、「もう終わっている。悪くなるしかない」という認識が、行動を妨げているんじゃないかね。

なので、認識の話をするとすれば。

これから先の制約を苦しく思うか。
それとも、制約の中でも、歴史の動画などをまだ見る事が出来ると思うか。

これには大きく違いが出るよな。
受け取る情報の解釈、捉え方に差が出る。即ち、「世界の見え方が異なる」。

「自分自身の体調や思考で色々変わる」という事が解っているのなら、あるかどうか解らない未来を今、耐えがたいものとして受け入れるのはやめた方がいいんじゃないか?

「耐えられない、辛い未来が待っている。」
先の事をそう決めて見ているからこそ、より不安が募り、悩み、苦しんでいるんじゃないのか?

確かに苦しさはあるだろうが、それでも、待っているのは苦しみだけではないだろう。

歴史が好きだとか、知りたい事が沢山あるという思いがあるなら、それに伴った喜びがあるんじゃないか?

それと同じように、これから苦しみが待ち受けているばかりだという思考に染まれば、伴って見える世界は苦しみに溢れてしまう。

上手く言葉を表現できなかったので、捉え方次第では追い詰めるようで申し訳ないが…
ご自身の人生を、惨めでしかないと思えば、あなたの人生だからこそ、それだけのものになってしまうんじゃないか?

要は、「人生が詰んでいるという認識」によって、苦しみや惨めさを探しているような状態になるんじゃないだろうかと思う。
認識とは、そういうものだと思うよ。

(厳しい事を言うと、文面のみから察するに、そこを理解できているようには、俺には受け取れなかったので、申し訳ないが書かせて頂いた)

成功体験がないとは言うが、それも似た類いの認識として、個人的には解釈している。

それは「振り返ってみた時に、後悔や、もっと出来たんじゃないかという気持ちなどが影響して、上手くいった・上手くできた、とは思えなかった。思える要素を探せなかった」という事ではないかと、勝手ながら思う。

失敗は多くあったかもしれないが、チャレンジは出来たのだろうし、その時々、一瞬一瞬、精一杯頑張ったんだと思う。
どんな人間でもそうだが、それはすごい事だ。踏み出したものにしか出来なかった経験だ。

結果が失敗であれ、チャレンジした事こそが素晴らしい事だし、何より価値のある事だと思う。

そうやって、色々躓く事があった中でも生き続けてこれたという事実は、俺は価値があると思う。

今まで生きてきた事そのものが、あなたが成し遂げてきた事だと、俺は考えているよ。
生き続けてきたじゃないか。それだけで、出来ているんだよ。

出来るできないではない。
生きている以上、そこに関われる以上、何らかのチャンスやきっかけはある。

…とは思うものの、俺のこれも、「チャンスやきっかけはある」と、無根拠に信じているからこそ、そういう認識だからこそ言える事なんだろうがな。

思考回路や価値観も、物理的な身体に根付くものだから、変化に時間は掛かる。
言った所で出来ない時はできないというのは、解った上で言っているよ。

ただ、「認識とはどういうものか」という事を、改めて知る事が出来れば、そこに対する意識が少し変化するかと思う。

その僅か、少しずつでもの変化が、何かきっかけになる事もあるかもしれないじゃないか。
そう信じているから、伝えたかったんだ。実際どうなるか解らないとしても、解らないからこそ。

とりあえずここまでの内容を纏めようとしてみると…

きっと、主さんは、やりたい事もいっぱいあるし、向上心も高いのかもしれない。
だからこそ、上へ上へと進もうとする気持ちが、後悔や、「人生が詰んでいる・もう嫌な事しかない」という認識に引っ張られて、気力を削いでしまう事に繋がっているのではないかと、俺は邪推している。

そして、「解決するものでもない、という思い」や「変化したくてもできない」などという認識から、行動しようという気力を止めてしまうし、事態は何も動かなくなってしまう。

思考は堂々巡りになり、悪循環になってもしまう。

辛さもあるとは思うが、死にたい思いを加速させているのは、そういった認識の仕方でもあるんじゃないだろうか。

また、自分なりに頑張っても上手くいかなかったのなら、50通目さんが言うように、専門の人に頼るのも良いんじゃないだろうか?
(頼った上でなら、継続もそうだし、出来る範囲で、間が空いても、少しでも改善するまで頼り続ける以上に出来る事もないだろう。無料で相談できる所もあるしな。他の人や場所だってある)

「運動するとろくに動けない」というのも、自分の思うように上手く身体が動かなかったというのなら解るが、ある程度でも、それなりに動く事は出来たのだろう?

…散歩すら挫折したというのは、いつの話だろうか。
どれぐらい過去の話なのかは解らないが、今は今だ。少なくとも、日々の調子も違う。

前できなかった事は今できるかもしれない。今できる事が明日はできないかもしれない。
体調などで色々変わるという事も理解してらっしゃるんだろう?

なら、それを踏まえた上で…、変わらないかどうかは、やり続けないと絶対に判断できないよな。

こんな事を言うと死にたい思いを後押ししてしまうかもしれないが、「大嫌いだ」という感情で改善策の一つから離れてしまうのか?
小瓶主さん自身の命が掛かっているんじゃないのか?

俺は所詮他人で、生きるか死ぬかを、直接どうこう出来るわけじゃないが、あなたの人生なんだ、本当にそれでいいのか?

どうあろうと、あなた自身を大事にして欲しいよ。

話を戻すと、筋肉は使わなければ衰える一方だし、筋肉量が増えれば、糖分の消費量が増えるからか、詳しい事は知らないが糖分に対する抵抗も上がるらしい。

過去、どんな運動をしたのかは解らないが、ラジオ体操のようなストレッチや、軽い柔軟体操でもいい、筋肉量が少ないというのなら本格的な、ハードなものなんてしなくていい。
(寧ろ筋肉量に見合ってない運動をして、尚且つ十分なタンパク質が摂取出来なければ、筋肉量は落ちる)

俺も二十歳半ば過ぎではあるが、引きこもっているから痩せ細った爺さんと大差なくてな。
…というか、平均的な高齢者より筋肉がないかもしれん。腰も関節も悪いし、骨も歪んでる。若いなんて言ってられん。

だから、高齢者向けのストレッチを、気が向いた時にしている。
負荷は軽いから、それなら小瓶主さんでもポツポツ継続できるんじゃないかと思うが、どうだろうかね。

(youtubeで検索すれば動画もあるだろう。「低体力者 筋トレ」などで検索してもそれらしいのは出る。
…もしやるなら、姿勢には注意な。背筋や足の開きなどの姿勢で、負荷のかかり方が違うので、姿勢が悪いと過剰な負荷をかける事になってしまったり、効果がなかったりする事もある)

まあ、それはそれとして、例え古い歴史の本でも、ネットなどから解る情報との齟齬で、「何故ここは情報が異なるのか」という興味に繋がる事もある。

「誰かが都合の悪い事を隠蔽しようとしたんじゃないか」とか、「この人と関連のある人物がもしかすると…」とか…
情報に間違いがあろうと、なんだかんだ、古い資料も貴重といえば貴重だしな。
無理にそうしろとは言わないが、そういう妄想、考察も楽しいものかと個人的には思う。

それって、価値じゃないか?
それに、歴史に興味があって、そう言った動画を続けて見ているのなら、もう趣味の一つとして数えていい部類なんじゃないかね。

俺は人の人生を知るのは好きだが、歴史となると、見るものが多いわ深い歴史はあるわ、ジャンルが幅広くてよく解っていないな。
なんだったら、主さんは歴史のどんな所が好きなのか、教えてくれないか?

他の人がどういう所に興味を持つのか知りたいんだ。

友達になれるかならないかは、いつの間にかなっているものだし、正直どうでもいいから気にはしないが、少なくとも俺は、知り合い以下って事はないだろう。

これからも苦しい思いが続くかもしれないし、死後の事は解らないが、確かに死ねば楽になる事もあるのかもしれない。
どんな関係だろうと、所詮は他人でもある。だから、主さんがどうしようと、受け止めていく事しかできない。
俺が、あんたの人生を支える手助けになれる訳でもない。

だから、これは身勝手な思いだが、俺はあんたに死んで欲しくない。
祈り、願う事しか出来ないが、少しでも良い事があって欲しい。
・・・小瓶を見る
烏羽
少し、小瓶主さんに対して否定的な事を書くので、厳し目に捉えられ、不快に思わせてしまうかもしれないが、書いてみる。

能力や器量というのは、自身の体調や思考の仕方、認識によってコロコロと変わる。
いとも簡単に変わってしまう。

その上、思考や認識というものも能力の一つ。

確かに、年齢を重ねていくうちに自分の事を知っていける。
確かに、推測が正しい事もあるだろう。

だが、その推測という思考も、体調や入ってくる情報によって変化した認識により、いとも容易く間違える事もある。

小瓶内のやり取りで、少しでも、小さくとも、ポジティブでなくとも、前を向く事はできたのではないか?
(そして、なんらかのきっかけによって、落ち込んでしまったのだろうとも思いはするが)

有頂天の時は全ての事を、少なからず「良い」と思いやすくなるし、どんぞこの時は全ての事を「悪い」と思いやすくもなる。
体調は認識の土台となり、認識は思考に影響している訳だ。(「苦しい時は、より辛く考えやすくなる」というような傾向が、人間にはあるという事を認識しておいて欲しい)

この先が厳しかろうが、笑う事はできる。
厳しさの中でも、楽しみや、ささやかながらの安らぎを感じる事もあるだろう。
可能性の話をすれば切りはないが、そういった事を感じられる要素がこの先、存在しないとは言い切れない。

「負けた」と決めつけてしまうな。
生きている限り、そこにまだ変化のチャンスはある。
たとえ変わらない事、どうしようも無い事があっても、まだ出来る事はある。

こう書くのも心苦しくはあるが、立ち向かう事に疲れたのなら、逃げれる事から逃げ、手を抜ける事からは手を抜き、少しでも休める時間を増やさないか?
(個人的にはなんのゲームをしているのか気になったが)

このまま死んだって、凹んだ気持ちは消えないだろう。
よくよく考えると、死が「無」だというのなら、そこには「解放」すらもないのだぞ。

死を心のよりどころとする事を、否定したくはないが、俺たち人間は、生と同じように、死も大して解っちゃいない。
少なくとも、死は「一かバチか」だ。どうなるのかまったく解らない。(生もやや似ているが)

後悔と嘆きばかりで、心の中が一杯であれば、辛いものだ。
己を省みた時、惨めにもなってしまう。

だが、捨てられないなら、無理に捨てようとする必要はない。
上書きすればいい。追加していけばいい。

今までネガティブに、後悔と嘆きから、未来は不幸だと思うような思考回路を、何度も何度も使っていたのなら、それは「癖」になる。
反復して覚えてしまった、反射行動として、何度も揺り返しがやってくるだろう。

それは負けではない。
負けだと決めて、終わりだと思い込んでしまうのは、まだ早いんじゃないだろうか。
揺り返しは何度でも来るだろう。

だから、その都度、上書きするんだ。
後悔も嘆きもやめろとは言わない。やめたくったって出来ない事もあるしな。

だが、後悔し続けても、嘆き続けても、何も変わらない。より辛くなっていくだけじゃないか?
何より、そんな自分が嫌になっても来ないか?それを変えていきたくはないか?

だから、悔やみ嘆く自分に気づけたのなら、一旦深呼吸して、別の、その時その時、手を伸ばせる事をしていくしかないんじゃないか。
(それこそ、気づけた時は、歴史系の動画や調べ物をしてみるとか、何か気分転換になるようなものはないだろうか?)

そうやって、時間が掛かっても、少しずつでも癖を上書きしたり、すり替えたり…
とにかく、少しでも頻度や時間を少なくしていけたら、苦しくなる思考を緩める事は出来るのではないかと思う。

(他にもやり方はあると思うが、俺はこれでやってきたので、すまないが、これしか教えようがない。なので、やり方が合わない事もあるかと思う。その時は、主さんのせいではないよ)

まだ残っているのなら、変えていきたいというその思いを、肯定し続けて欲しい。

その、主さんご自身が惨めに思う、ネガティブとでも言うような思考が、問題の一つだというのなら、それを変える事で見えてくるものも、あるかもしれないじゃないか。

まだ終わってないぞ。
言い方は鼻につくかもしれんので申し訳ないが、それを承知の上で、「変えられない」なんて、解ったつもりになって、未来を塞いでしまう事だけはやめてくれ。

確かに変えられない事も、諦めて受け入れなければ進めない事もあるかもしれない。
苦しい事も悲しい事もあるだろう。

それでも、自分の意思が残っていて、まだ生きているなら出来る事はあるし、他にまだ変えられる事もある。
そのチャンスを潰してしまって欲しくないんだ。

過去の軌跡を辿る事は出来るが、先の事はあくまで、「予測」する事しかできない。

確かに過去の情報はある。過去よりは見えるものも増える。
だが、今現在が、1番未熟で、1番無知な状態なんだ。

過去があろうとなかろうと、日々の体調や認識、総合的な感覚から、能力はコロコロ変わっている。
だから、輪郭は朧げに掴めても、絶対的な能力の評価なんて出来ないし、土台となる「評価・判断するという能力」そのものも振れ幅がある。

それを心の片隅にでも記憶しといて貰えると助かるよ。

…それはそうと、飯を食った後の小腹が空いた感には、白湯もいいぞ。(夏場は水かね)
たまには魚やら鶏肉やらも、塩だけで調理するのも良いだろうし、焼いただけの味を感じるのも悪くないだろうしな。
あとあと塩やら醤油やらを小皿に入れておけば、そこに付けて食べる事もできるし。

それと、酢は血糖値の上昇を抑えてくれるらしいな。脂肪や、内臓脂肪やらも減らしやすくしてくれるようだし。
(疲労回復の効果もあるとかなんとか)

効果を期待するなら、1日あたり15mL(大さじ1杯)程度を継続して摂取する必要があるらしい。
(いわゆる「りんご酢」だとかの「お酢ドリンク」は大体糖質入ってるから、もうやってる事もあるかもしれんが、調理用の酢やらポン酢やらを料理に使う方が良いかも)

使っているサプリメントに疑問があるのなら、それに関して、通っているであろう病院の医師に聞いてみたり、調べたりしてみても良いんじゃないだろうか。
(言うだけ言ってみてはいるが、もう調べたりしたのかも解らんので、不快だったら申し訳ない)

話は変わって、俺は炭水化物よりも、強いていうなら肉の方が好きなので、趣向が変わらない限りは解らないが、やはり好きなものを我慢するような状態は辛いかと思う。
(そのうえ過剰なら問題になるが、必要だからこそ糖分のある食べ物を取るわけで)

そうだな、制限が効かないというのなら、何か紙に「目」の絵を描いて、炭水化物を食べる食事の時に、その目の絵が視界に入るようにしておくのはどうだろう?
(または、Google画像検索から引っ張ってきた適当な目の画像でもいいし)

どうやっても他人の目線…のようなものを意識せざるを得なければ、夢中になってしまう事の障壁となる要素になるかと考えてみたんだが。
(その辺も医師と相談してみただろうか?)
・・・小瓶を見る
烏羽
あー、細かいようだが、文字だけのコミュニケーションなので、判断が難しく、一応訂正させて頂くとすれば。

もしブロッコリーだと思われていたのなら、ブロッコリーではなく、「ブロッコリースプラウト」の方だ。
(もやしや、かいわれ大根と同じく、「ブロッコリーの新芽」。スプラウト=新芽、的な意味。)

多分、相場的にブロッコリーよりも安価だし、栄養もあるから。
(スプラウトでない方のブロッコリーも、もちろん良いものなので、食べて悪い訳ではないが)

ブロッコリースプラウトは、水でゆすげば生で食えるしな。
加熱しない方が栄養取れるらしいんで、サラダとか、トッピングとかにお勧めしておく。

料理は俺、全然しないからなあ。(出来るだけでも凄いと思う)
まあ、日々の変化を求めるんなら、サラダにドレッシングをかけないで食べてみるとかはした事あるな。
(もやしは塩か塩胡椒ないと個人的に辛かった。農薬キツい野菜とか、鮮度悪いのとかも美味しくない。そういう意味では、食材の味を知れるかも)

俺だったら、卵かけご飯にわさび入れてみたり、ケチャップとマスタード混ぜてみたり、混ぜたせいで美味しくない時もあるけど、少ない量で試してるから、痛手は少ない。

そこから応用して考えると、ツマミになるくらいの量を、作った料理から取り出して、ちょっと味変えというか、どんな組み合わせが合うか(好みか)試行錯誤する事も出来るとは思う。
(あとはクックパッドとかで人の料理の作り方を真似してみるとかぐらいしか、今は思い付かんかね。アレもピンからキリまであるようだが)

それと、宗教の勧誘とかではないんだが、お金がなくても出来る事として、ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想と呼ばれる事もあるっぽい)も良いかもしれないな。

「瞑想 やり方」などで調べると詳しく出てくるかも。
(瞑想には種類が色々あるので、やり方以外にも、探してみるだけでも暇つぶしになるかと)

…ついでに、どうでも良い事なので気が付いてもいなかったが、俺は烏羽(からすば)であって鳥羽ではないので、ご注意を。
随分と前だが、過去、鳥羽という名の方もいらっしゃったかと思うんで。

青汁の人、と呼ぶのもどうかとは思ったが、37通目の方もわざわざありがとう。
ケール青汁で鬱を緩和できるのは初めて聞いた。

青汁は幼い頃に飲んだっきりだな。確か大麦若葉のタイプだと思うが、あれは飲みやすかった。
ケールの方は試した事がないので解らんな。苦いと聞くが、どうなんだろうか。

まあ、もともとゴーヤとか、俺みたいに苦いものも好きとか、抵抗がないなら飲めるのではと思う。

お節介かもだが、念のため書くと、サプリメントとか青汁とかは、普通の食品よりも栄養が多いので、摂りすぎると過剰になってしまい、栄養が毒になってしまう事もある。

なので、1日何粒とか、何杯とか、恐らく説明書や箱などに書かれている用法は守った方がいいでっせ。
(普段食べる食品はそこまで気を付けなくても良い。…ほうれん草とか、プリン体が多いあん肝など、偏って食べるのを控えた方がいいものもあるにはある)

俺もそんなに詳しくはないが、今の時代ネットで検索をかければ、食べ物の、大体の栄養情報とか、どんな栄養がどう身体に影響してるのかとかが出てもくるし、もし興味があるのなら、検索した方が解りやすいかと思う。
(「〇〇 栄養」とか「〇〇 食べすぎ」とかで大方出る)

ただ勿論、ネットの情報(個人がなんの資格もなしに書き込める情報)でもあるので、他のサイトなどで、別視点からの情報を見るのも大事だな。

言われるまでもないかもしれんし、俺が書いている事もそうだが、話半分程度で、鵜呑みにはなされぬよう。

ちなみに、アレルギーがなければ卵もいいぞ。
コレステロールはどうなのかと思うかもしれないが、大して問題はないっぽい。
(あくまで身体で作られたものが血中に流れるだけで、コレステロールのあるものを食べた所で、吸収前に分解されるだろうなので、別の物質になってるっぽい?)
1日何個とかそんな制限もいらない。タンパク源としても栄養としても優秀な良い食材だ。

ただ、脂質異常症とか、卵を食べるとコレステロール値が上がりやすくなる体質の場合には注意が必要だな。
(血液検査でコレステロール値とかも見れるかと思うんで、コレステロール高めなら医師と要相談って感じ)

また、ご存知かもしれないが、起き抜けとか、空きっ腹の時、真っ先に炭水化物など、糖分の多いものを食べるのはやめた方がいいな。
腹が減っていると、身体が必要な栄養を多く吸収しようとするので、糖分の吸収率が大きく上がってしまうんだとか。

なので、最初は食物繊維系のもの…、例えばもやしとかから食べた方が良い。理想を言えば、次に肉系で、最後にご飯などの炭水化物だったかな。

まあ、白飯だけで食べるとなると口が辛い時もあるので、大体で良いらしいが。
(米なら醤油をちょっとかけるとそれでも美味しいし、あえてよく噛んで、甘みを感じる事も出来はする。麺やパンはそこまで噛んだ事ないから解らん)

糖尿病とのことなので、魚中心かと思われるし、それもそれで身体に良いんだが、タンパク質が不足しがちになるのではないかとまたお節介をさせて頂いた。

それでは、また機会があれば。
・・・小瓶を見る
烏羽
そうだな。
顔も洗わなくなる、歯も磨かなくなる、風呂なんて数週間に一回入れば良い方だ。
体臭はキツくなるし、ベットに染み付いてニオイは落ちない。服にも染み付く。黄ばむ。

外になんてまず出ないし、部屋からほぼ出ないから足腰の筋肉なんてなくなって、下手すりゃ爺さん婆さん以下になる。
(衰弱したニートに若い人は〜なんて文句は通用しない)

同じ体勢で過ごしてばかりだと、身体の骨は歪み、あちこちが痛み始める。
身体で重要な関節部位が、大体ゴキゴキ言うようになる。

歯を磨かないから雑菌が血管に入り込んで、頭が痛くなったりするし、生活リズムなんてあったもんじゃないから、自律神経系が乱れて常にだるい。

風呂に入らないから毛根が詰まるのか、動かないしロクな食事もせず、血の巡りも悪く栄養が行き渡らないからか、俺の頭部は禿げつつある。

今の俺にはもうないが、大体家族との問題が発生して、死にたくもなる。
…まあ、この部分は人によるというか、家族や状況なんて一様じゃないからなあ。
(マニュアル的なスタンダードはニートに存在してない)

そんな現実が解ったら、ちゃんとした引きこもりニートなんて目指さず、半端なニートで我慢しておけ。
(冗談でもなんでもなく)

なろうと思ってこんな状況になった訳でもないし、なりたいからなれるもんでもないと思う。

これからの高齢化社会にそなえて、カルシウムはしっかりとって、適度な運動で骨を強化し、骨密度を蓄えとけ。
そして筋トレやストレッチの習慣は付けておけよ。

あと、猫背や姿勢の歪みはヘルニアにも繋がって、慢性的な痛みや、半身または下半身不随にも繋がる恐れがある。
背筋を正すのは大事だ。

そして歯磨きはちゃんとしろ。
歯周病が連鎖して、心臓病や脳梗塞を起こしても知らんぞ。

…別にお前さんがニートになった時のことを心配してる訳じゃないぞ。本当だぞ。

ご時世的に求人率も上がっていくかと思われるし、だからって明るい未来が待っているなんて事は言えんが、無理しすぎない程度に頑張れよ。
大学出た方が稼ぎも良いらしいしな。

心の中で応援してるぞ。

まあ嘘だけどな。
心の中から文字に出しちゃってるし。
・・・小瓶を見る
烏羽
タイミング的に口を出すのもどうかと考えてはいたが、思う所があったので、お節介は承知の上、暫くぶりに書かせて頂けるとすれば。

食事の面で、インスタントや冷凍食品などをとり続け、栄養に偏りが出てくると、体全体の働きが落ちやすくなりがちでな。
(こうなると、体の一部である心、精神面の働きもネガティブな傾向になりやすくなる場合がある)

なんだろな、だから、もし最近、食べ物が偏っているのなら、もやしとか、ブロッコリースプラウトとか、栄養のある食べ物を摂る事で、少しずつでも良くなる部分はあるんじゃなかろうかと。

栄養の摂れるご飯を食べるというかな、いい意味で、小瓶主さん自身を甘やかした方が良いんじゃないかね。
(かといって、栄養の高いもの一つを偏って食べるとやはり毒になる点は注意。ほうれん草とか尿結石の元に繋がる事もあるし)

あと、夜勤でリズムが崩れる事に関しても身を持って存じておられるようなので、一応書くと、その「生活リズムの乱れ→身体への負担→精神への不調」とも繋がっていくため、ないがしろにはできない。
(精神は身体の一部なので、どうしても引っ張られる部分がある)

その点で、少しでも体内時計のリズムにリセットをかける為に、朝起きたらある程度冷たい水で顔を洗うとか。(最低限、手だけでもいい。欲を言えば足先も少し冷やしたい)
寝入る際には手足を温める(手に吐息をかけるとか、靴下履くなど)とか、そういうのもあるな。(身体機能的に眠くなりやすくなるとか)

温まる点で、白湯など、暖かいものを飲むのも良いのだが、大体の茶にはカフェインが含まれるので、寝る前のお茶やコーヒーはお勧めしない。

(睡眠直前の酒は健康上よくない。最低でも寝る2時間前には飲まない方がいいかも。
どうしてもというなら、せめて卵かけご飯などで、生卵を食べてからにした方が良いかもな。アルコールを分解しやすくなるとかで、出来れば、酒を飲む二時間半程前に食べると効果が見込めるかと)

また、寝ようとする時にどうでも良い事を考えるというか、なんだろな。
動物が動いてる様子とか、たくあんやちくわ型の雲が飛んでいる様子とか、どうでもいい想像をすると、ネガティブな思考を続けたまま寝入るよりは、気持ち楽かもしれない。

まあ、小瓶主さんには、生活の金銭面から来る負担もある。
仕事でのストレス、夜勤で生活リズムが乱れる事による負担もある。
そして、気持ちが落ち込んでいるとそれにつられて能力も落ちてしまいがちな中、小瓶主さんの事、俺はものすごく頑張っているんだなあと思う。
(悪条件の中どんだけ頑張ってんだ、すげーよ、という)

それに、これだけ文章のやり取りをしていて、意味を汲み取る能力も、伝える能力もあって…
少なくとも、長文乱文まみれの俺より、文章をまとめる力があるように見えるしな。出来ている事はある。
(こんな俺と比べられてもアレかと思うが)

んで、精神面の話をすると、主さん、過去のショックから、どうしても出来ない事、出来なかった現状等をクローズアップしてしまうのかもしれないが…

良くも悪くも、体調やら、思考回路の変化やらで、当然のように、簡単にできた事が出来なくなる事もあるし、出来なかった事が出来るようになる事もある訳だよな。

その上、例え出来ている事があるとしても、「"ここまで出来なければダメ"という基準」が、「出来ている事」を塗りつぶし、かき消してしまう事も、よくあるかと思う。
(「上手くできていない」が「何もできていない」に置き換わってしまう)

だから、その基準(ハードル)を少しでも緩めて、ご自身が「今ほんの少しでも出来ている事」や「出来ていないからこそ、今何ができるか」を見ようとされれば、もしかしたら和らぐ苦しさもあるんじゃないだろうかと考えてみた。
(出来ていない事を見つめると苦しくなる訳で、足も止まりがちになる。ならばそれは程々にしておいて、次できる事を考えよう、というか)

ただ、あくまで個人の考えなので、合わない事もある、体調や状況が噛み合わず、上手くいかない事もあると思われる。

もし今まで書いた事が、何か参考になれば幸いではあるが…
例えこれらのどれかを試す事があり、上手くいかなくとも、それはあなた以外の要素も関係しているので、どうか、全てをご自身のせいにはなされぬよう。
(ネガティブな思考の流れに負けるなよ〜)

端からではあるが、小瓶主さんと、小瓶主さんとのやり取りを続けた方に、心穏やかに過ごせる日々が少しでも多くありますよう、俺も祈らせて頂く。

それと、とりあえず、もやしとブロッコリースプラウトはお勧めしとくぞ。
・・・小瓶を見る
烏羽
(長文につき、お時間と気力のある際に読んで頂ければ幸いです)

お返事をしたら、何回か非公開小瓶になった事のある側から返事を書いてみるとすると。
(勝手ながら、そういう内容の返事なので、アイスコーヒーだと思って飲んだら、炭酸の抜けたコーラだった的な事のないようにしておくんなまし)

…まあ、自分が何かやらかしたんじゃないかとか、色々気になるよな。

でも、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。非公開の原因は、全く関係ない事情だったりするかもしれない。
別に返事が欲しかった訳でもなかったから、というだけかもしれないし。

一応、「何故非公開になったのか」お問い合わせから、運営さんに聞いてみる事はできるよ。

…本来、気になってどうしようもないなら、そうした方が良いんだろうし、俺も嫌な事あったなら言って欲しいとは思う。
けど、「嫌な事を伝える=悪口」になってしまう方もいたようだし、「自分が嫌だと思う事を、相手に伝える事」に抵抗感を感じる人がいるんじゃないかとも理解できる。

「不快に思った」記憶が呼び起こされる訳だから、程度の大小はあれど憤りや悲しさという感情で、言葉が乱れるのも理解できるしなあ。
誰かを非難したい訳ではないけど、出来ない時は出来ないような事を、人に求めようとしている自分自身にも悩んでしまう。

正直俺としては、(小瓶の内容とはズレた件ではあるが)過去に揉め事を起こした事もあるので…
無理に聞こうとしたくない気持ち半分、仕方ないよなあという諦め半分、運営さんやら小瓶主さんやらに手間を掛けさせてしまうんじゃないかと思って内省に留めてる。
(言って欲しいと言いたい時は、言うには言ってみるが)

そこら辺、まだまとまんねえなあ。(そうそう纏まるもんでもないとも思ってもいる)
ただ、あくまでも今の所は、そう考えて行動してるわ。

こちらとしてもショックではあるが、小瓶主さんとしてもショックはあったからこそ…なのかもしれんし、互いにその時手を伸ばせると思える選択肢しか出来ないしで、仕方がねえのよ。
(…などと思っている事も変わっていくかもしれんが、それはそれ)

また、理由の見えてこない故のショックって強いんで、残りやすいから…
そういう後悔じみた点では、記憶を掴んでおけるとも言えるので、何度でも考える機会は回ってくる訳でね。
いつになるかは解らないが、抱えておく事で見えて来る視点や、考え方もあるかもしれない。それが改善や、別の何か、向上に繋がる事もあるかもしれない。そういう面もあると思っている。

(余談だが、世の中にはそういう、理由のはっきりしないショックを利用し、人を都合よく扱おうというクズも居たんで、それ対策も込みで、自分が潰れるほど重大なものとしては考えないようにしている)

…念のため書くと、そこら辺が合うか否かは人それぞれだとも思うので、あくまで一意見として、鵜呑みにはなされぬよう。
(こうすれば良くなる、なんて強制の意図もないので)

改善したいのなら俺みたいに聞かない(←というか聞くつもりになれないという事だが)選択よりも、問い合わせた見た方が良いかもしれないし。
(それでも、一概に良いかどうかの判断は難しい)

まあ、それはそれとして、返事に価値があるのかという件の話をさせて頂けるのなら。(興味があるので)
何に価値があるのかは人それぞれだろうけど、コミュニケーションは相手あってのものだと思うんで、個人的には通じ合った時に初めて価値になるんじゃないかと考えている。

…表情も声色もなんも見て取れないから、ぶっちゃけ通じ合ったかどうかなんて解らない。
なので、通じ合ったかどうかは、それぞれの解釈に大きく委ねられているような気がしてならんのだけども。

ただ、そこは突き詰めれば現実と同じで(ネットも現実の一部だから。声や表情という情報のあるなしはあるけど根が同じ)、裏があると思えばキリがなく、疑心暗鬼のイタチごっこが始まりもする。

「とりあえず信じる」というか、真面目半分、話半分くらいにして受け止めてる。

例えば、絵描きや作曲家などのアーティストが、「自分の作品を"技術的な視点"から評価して欲しくても」、ファンは、そのアーティストの事を「好きだから」、単に「良いという評価」をする場合もある。

要は、極論、相手の事なんて解らんと、開き直るというか。
それに、気持ちってのが凄く曖昧な、揺れ動く所に関わっているからこそ、価値や視点がブレるものなのだろうし、それ故に人と通じ合えもするというのか。

それ故に、俺がトンチンカンな事をお返事したとしても、ご厚意として「ありがとう」と言ってくださった方はいらっしゃったんじゃないかと思うし、視点を変えたりで理解しようともして下さる訳だろうとも考えられるから…

通じ合えたようなお返事を返してくれたとすると、ありがたいというか、申し訳ないというか、そんな気持ちにもなる。
(お世辞じゃないかとも疑うし、寧ろあんたのお陰でもあるんだよ、という)

そこら辺と似たように…
実は、受け手が伝わったと思っていなくても、実際には相手側として、伝わった上での言葉だったり。伝わったと思っても、伝わっていない上での言葉だったり。
認識で受け取り方が変わっちゃうしな。(先入観的なものによって、受け入れ幅が変わる事もある)

ちなみに、小瓶主さんかは解らんけど、お返事の文章に個性が滲み出てるように思える事は割とあって、「あの時と同じ人じゃね?」って時はチラホラあるな。
(実際には違う人もいたけど)
・・・小瓶を見る
烏羽
容姿は変わらなくとも、容姿の事を思い悩む、その精神面は変えられると思う。

産まれた時、幼い頃、自分の容姿に関して意識する事は、そこまでなかったんじゃなかろうか。
幼い頃…、少なくとも、産まれて直後なんて、自分の容姿に対して、好きも嫌いもなかったかと。
(容姿が「良いか、悪いか」なんて感覚も存在していなかった筈)

それが、誰かから「容姿に関する嫌な事や悪口」を言われ、気にしていく事になってしまったのではないだろうか。

(小瓶主さんが悪い訳ではないんだが、そこで結果的に、ご自身の容姿に対しての、自己嫌悪になるような認識の仕方をしてしまうまでに繋がってしまったのではないか、という。
正直、外見に対してアホな事を言ってくる奴は一定数いるので、小瓶主さんに対してそういう事を言う奴がいたんなら、個人的にはそいつらが悪いというだけだと考えるよ)

なので、まず精神面の、考え方や価値観、認識の仕方(解釈・視野)といったものは間違いなく変わる。
(良くも悪くも変わってきたのだろうから)

カウンセラーの方それぞれの方針にもよるかと思うが、カウンセリングというのは、基本的にその考え方、認識の仕方を変化させていくためのもの(きっかけ)らしい。

認識や価値観といった精神面は知らず知らずの内にでも変わって来たのだろうし、今後も同じように変わっていくだろうし、だからこそ変えられるというかね。
(もちろん、物理的に脳細胞の繋がりとかから思考回路はなっているので、それが変化するまでの時間…というか、栄養や睡眠なども必要)

容姿の事でいじめられているかどうか、暴力を受けていないかなどと、程度も関わりはするだろうけど…
嫌な事を言われて病んでも、立ち上がろうとする事はできるし、言われた事を受け流したり、気持ちをリフレッシュする方法だったりを模索する事もできる。

そう言った方法なども、専門の方から学ぶ事はできるかと思う。

とにかく、まだ変われる事や、できる事はある筈なので、くじけないで欲しいと、勝手ながら願う。
苦しみが少しでも和らぐと良いな。
・・・小瓶を見る
烏羽
誰かの目線を気にするとなれば、その目線を重視する己の事を、尊重している訳だ。

だから、人の気持ちが解らない自分が、己の視野に映し出される。
正確に言葉にしようとすれば、人の気持ちが解らない、とは「人の気持ちを解るか解らないかも判別できない」だ。

であれば、共感とは一体どういう事なのだろうか?
他人の考えや行動、気持ちに対して、「自分と同じである、と見なし、感じ入る事」なのだろうか。

己と他を分けつつある。
そこで、共感という、自他の曖昧な感覚の、根本が揺らいでいる。

安心感とは?
側に立つような…仲間意識のような…、その「同感」、「解った・解ってくれた」という感覚とは?

何にでも、理由を付けようと思えば、付ける事は出来る。
今知り得ている情報からしか、その理由を付ける事が出来ない…つまり、「知らない事は知らない」ので、未知の場合、付けた理由が確かでない可能性は理解している。

が、理由を付けた事によって、余程でなければ、事実との「差」が産まれる。
その差によって、事実がどうかを認識するきっかけが出来る事もある。(厄介な事もあるにはあるが)

少なくとも、解ったのは、今の俺には抱けないか、薄い事だ。
安心できない事を知った…、解らないという事を知った…、つまりはそういう考え方や価値観、認識となり、そこに重点がある。

だから優先度が低いのかもしれないという事と、もともと「理解出来ず勘違いしてしまう」という事を気にしている為、己を律しておきたいが故だろう。

今もう共感できない事は仕方がないし、出来ないものは出来ない。
あちらがどう思うかは、あちら側にしか出来ない。

どう思われるかもしれない。ああ思ったかもしれない。
不安なものは不安だし、取り除くことも出来ないが、不安だからといって潰れる事は、現時点ではもうなくなった。
(体の不調や思考回路の変化によって起こる可能性はある)

苦しむ時は苦しむし、死ぬ時は死ぬ。
関わる以上、単なる他人事では済ます事など出来ないが、ただ不安も、恐怖も、悲しみも、己への怒りや戸惑いも、受け止める事しか出来ない。
結果も然りだ。

後悔か。
もう少しこの危機感センサーのようなものが、まともに動いてくれればとも思う。
「ある」というだけで、あまり己の感覚とは合っていない。

言葉がつっかえる要因は、何度でも目にするだろう。
それは…、人が人である以上、どうしようもないものなのかもしれない。

だが、少なくとも、どちらともを優先する方法はあり、それによって心は八つ裂きにならなくなる。
つっかえた摩擦によっては、光が生まれ、光は仄かに闇を照らし、進む手掛かりにも繋がる。

未だ闇は深いままで、この小瓶は、整頓できない気持ちでメチャクチャだ。

だが、仄かに導があるからこそ、導となる光に顔を向けるからこそ、闇は立ち上がり、自分の視界から外れる。
今できる事をするしかないのだと、闇は立ち上がる。

眩い光は目が潰れ、見通せない闇は目が曇る。
難儀なものだ。

うずくまった闇の中を、見続けなければ。
忘れてはいけないと、そう願うからこそ。
・・・小瓶を見る
烏羽
(長文につき、お時間や気力のある際に読んで頂ければ幸いです)

比べる事そのものが悪いのか?というと、小瓶主さんの仰るよう、自分の位置を解る事に繋がるので、全部が全部害のあるものではなく…

そもそも、何が良いのか悪いのかというのが、根本的に俺たち自己の意識から決めるものであって、物事そのものの存在とは深く繋がっていなかったりする。
個人的には、そんな風に考えている。

だから、比べる事を止めるのは難しいと思ったのなら、今度は比べる事を止めようとするのではなく、比べる事で、「自分の中で何が嫌になるのか」、「それに対して何が出来そうなのか」、そこら辺が大事になってくるんじゃないかね。

「他人に比べられたくない」というのも似たように、「他人と比べられる事の何が気になるのか、嫌なのか」が少しずつでも具体的に見えてくると、考え方を変える事で突破口は見えてくる…事もあるかもしれない。
(自分の事とは違い、他人はどうしようもないので…、比べてくる人とは距離を取るとか、比べられる事で嫌になる、その気持ちへどう対処するのかとか。その方が、比べられたりで、嫌な気持ちになるだけの時間を過ごすよりも楽じゃないか?)

まあ、存在価値を考えようとしない瞬間があっても、ここに生きてはいるしな。
だから、そういう考え方からは「生きる事そのもの」が難しい訳じゃなく、「生きている中で難しい事がある」という事になる。

少なくとも、考え方や認識の在り方によって、解釈による視点、物事の捉え方が変わる。
捉え方が変わる事によって、価値観や感じ方も連なり、変わっていく事に繋がる。

だから何だって話かもしれんが、人と自分を比べまくって落ち込みまくってた俺でも、今は自分の事を誰かと比べて、どうにか平気でいられるようにはなったからな。
(落ち込む時は落ち込むが)

比べる事そのものが、自分のしている事で、自分の考えなのだから、その中身、考え方を変えてしまえばマシになる事もあるかもしれん、というかね。
(「自分の内側へ視点が向くかどうか」という話にもなってくるので、そういう意味では自分軸かもしれない)

あとは…、強いていうなら、「人それぞれ」という事を深掘りしていく事だろうか。
(深掘りする事で「考え方を変える」)

人それぞれ、考え方も価値観も、認識の仕方も、感じとる感性や理解しやすい感覚も違うのだから、そもそも、全く同じものなんて絶対と言って良い程ない訳で。

そうなると、「絶対的に正しい、対照的な比較」が出来ないので、厳密に、正確に比べる事はまず不可能だという事に気付く。

だけど、同じルールを元にすれば…、同じ下の基準の中で動く事になれば、例え一人一人、能力が違っても、その「基準の中で、出来たか出来ないか」が比較できるようになる訳だ。
(要は、ものの見方、条件付けによって、比較する土俵自体を作り上げる事は出来てしまうという)

その上、生まれてきた時間や背景、人生の中身が違う人間であっても、種としては同じ人間、似たような機能を使っているので、同じではなくとも、重なり合う、似たような面はある。

「基準を出す事によって、共通、共有する枠組みが認識できる事」と、それによって「似ていると判断できるから」誰にでも当てはめてしまえる。
(そしてそれを、「同じものだ」と考えやすくもある)

本当の所は、人それぞれ違うので、正確な比較なんて出来やしないのにも関わらず、だ。

比べる事で、確かに、「自分にないもの、やりたくても上手く出来ない事をしている」と見て取れれば、羨ましさや、悔しさ、嫉妬、どうして自分はできないんだ、という嘆きなどが生じる事もある。

だが、それはそれで、「もっと上手く出来るようになりたい気持ち」があるからこそ、悔しかったり、羨ましかったりする訳でな。
考え方によっては、それを確認させてくれる、と解釈する事も出来る。

だからその点は問題ないのだが…
問題は、隣の芝生が青く見える感じのアレというか、「どうして自分は出来ないんだ」と思った時に比べている対象が「己の思った通りに上手く出来ている訳ではない」というか。
(実は比較の対象となった当人でも、それが上手く出来ていなかったり、そこは上手くいっていても、別の点で苦しんでいたりという)

極端に言えば、「自分の考えや思いは、あくまで自分のものであって、真に正しく、事実に沿ったものなのかは解らない」という所かね。
(ないものを「ある」と思い込んだり、逆に、あるものを「ない」と思い込んだりする事もあるので、そこは「自分の考えは、事実かどうかというより、あくまで自分の感想のようなものだ」と自覚しておく事で気を付けるというか)

…そう考えていくと、少しずつ「本当の比較をする事はとても難しい」ように感じては来ないだろうか?
(俺自身、実際には、かなり難しい事であると思ってもいるが)

比べる事よりも、例え比べたとしても、「(比べた事も含めて)今の自分がどうしたいのか」という考え方を重視すれば、自ずと考え方は変わっていくんじゃないかと思うよ。

どうしても比べたくないってんなら、比べる頻度を薄めて、落とす事は出来るだろうけど、全くなくしてしまう事は難しいだろうし、「比べて"しまう"」自分の事を責めても、より苦しくなるだけだ。
(苦しく、辛くなれば、それだけ気分も落ちてしまうので、行動や考え方もそれに引っ張られる)

だから、俺としては、「比較そのものに対して何かする」のではなく、「比較している時に、どんな思いをして、そこに対して何がしたいのか」の方が大事なんじゃないかって事を伝えたく、書かせて頂いた。

もしここまで読んでくれたのなら、ありがとう。
存在価値…というか、「今生きている中で進んでいる意味」は、誰かと比べても、比べなくても、己の中に生じ続けているものだと思うよ。
(腹減ったとか、眠いとかもその類)
・・・小瓶を見る
烏羽
(斜めやや下ぐらいの角度の共感を書きます。長文につき、お時間と気力のある際に読んで頂ければ幸いです)

これマジで思うんよな。

俺自身、宛メでお節介なアドバイスばかりしてる自覚があるから…

まあ言葉だけのコミュニケーションとして、俺が話を理解している上で書いた文章が、小瓶主さんに「この人話を理解していないんじゃないか?」的に思われているかもしれないお返事は割と頂いたりするし、そういう所に共感した(と受け取れる言葉)があるかないかの判断が関わってるんじゃないかと今までの経験から思う。
(もちろん、単に俺の理解力が足りてなくて、勘違いした内容のお返事もよくするけど)

俺自身、理解できても共感できない事もしょっちゅうあって、そんな立場からすると、やっぱ余計なお節介かけてるよなあと、自分でも思ってる。

なので、正直自分のお返事に対して、誰かからありがとうとか言われると、凄い疑っちゃったりしてるわ(笑)

小瓶主さんのはネットの話ではないのだと思うけれども、やっぱりこうして見てみると、あるんだなあとも思うし、申し訳なさもある。(俺が謝っても仕方がないが、すまないな)

そういう事も多かったから、今は共感ができる部分のある小瓶に主にちょっかいかけさせて貰ってる訳なんだけども、なんというか、それでもアドバイスだらけになっちゃってな…(苦笑)

なんだろな、小瓶主さんも、そんなつもりでは仰ってないとは思うが、気持ちを解って貰える事を求めるとなると、難しくないか?

人間、似たような要素はあるけど、それぞれの思考で、それぞれの価値観、解釈で、物事を認識する訳だから、受け取り方に差がある訳で。

その人それぞれの中で、似たような経験から、似たように感じ、思える要素を持った人間って、よくよく細かに考えていくと、とても少ない気がする。
その上、受け取り方(理解力など)に差があるから、情報を共有して、それに対して上手い事共感できるってのが、更に難しくなる。

しかも、過去の体験から共感できそうだなと思う事があっても、もう感情は薄れていて、昔は出来た共感が、今は全く出来ない事もかなりあるから…

そう考えると、本当に共感できるって凄い事だと思う。
最低でも、共有できるような、その人と近しい、未だ鮮度(というのも変かもしれんが)のある経験と、近しい感覚・感性と、状況に適した理解力がないと、難しい。

まあ、もし余計なお節介を掛けさせて頂けるなら、悩みを打ち明ける前に、「話だけ聞いてほしい」「愚痴に付き合ってほしい」「アドバイスは求めてない」などと前置きしてから話せば、まだマシになるかとは思う。
(勿論、もう解ってるかもしれんが、そう言った所で俺のように何かしら言ってくるような変な奴がいない訳でもないのは注意だ)

しかし、「試した事を打ち明けた」のに、相手側が不快感を抱いたりキレたりするってのは…、相手側にあまり共感できないな。

俺だったらという話しか出来ないが、それだったらまず「どんな風に試したのか」を聞きたくなるしな。
(人によってやり方とか考え方とか違うだろうし。あくまで、現実でのやり方でもあるがね)

辛い状況にある人を、対面の人間関係の悪化とかで、更に苦しくしたくはない。
あくまでも個人的にだが、するかしないかは別として、偽らずに、試したなら試したと言って欲しくもなる。
その方が多分、精神的に良いだろうからな。

(もちろん、それを強制したいから言っている訳ではないよ。そんなもん自分で判断する事だろうし)

無理矢理しようとする共感はなんか違うと思うんで、思った事を長い感想文として書き綴った訳だが…
まあ、小瓶主さんに本当に共感できたかは俺が知れる訳でもないのでさて置き、少しでも心穏やかに過ごせるような事があると良いな。幸運を祈るよ。
・・・小瓶を見る
烏羽
ブレないようになるという事は、それが己の内で当然になるという事でもある。

己の内に作った志(目的)を、新たな信念(状況の中、不変な態度)に変えていけるかというところなのかね?

誰かの為に思いやりを持つ、という事は、同時に自分の意思を尊重して優先する、という事でもあるかと思う。

なので、真心はあっても、不愉快な事をされたら自己中自己防衛になっていいんよな。
別に自己中でも自己防衛に走ろうとも、誰かを傷付ける行動に走らなければ問題ないし、行動の根本も変わっていない。

(ふと疑問に思ったのだが、自身への尊重とは、自分を守る事でもあるのか?)

また、「都合がいい」事だけが、優しさや親切という訳でもないしなあ。

まあ、良くも悪くも、他と関わるからこそ、産まれてくるのが信念よな。

失礼かもしれないが、他人事ながら、小瓶主さんのような、理性が形成されていくように見受けられる様を見るのは、なんだか楽しくなってしまう。

いや、嬉しい…、という言葉も、楽しいという言葉も変な気がするが、その中間のような気持ちだ。

…でも、人間なので必ずブレる事はある、と言っておこうかな。
なので、ある程度守れればそれでよし、として置くのも良いかもしれんな。

こんな事を書くのは悪魔の囁き地味ているとは思うが、予め「絶対はなく、ブレる可能性はあるものだ」と思えていた方が、立ち直りは早いかもしれんのよ。

とにかく、ブレそうな時。ブレていると気付けた時。
もう一度初心に立ち帰れるなら、手段はなんでも良いが、そんな時がもし来たなら、早めに立ち上がれるといいな。
・・・小瓶を見る
烏羽
(長文につき、お時間や気力のある際に読んで頂ければ幸いです。
個人の裁量なので書く必要はないかもしれませんが、そうじゃない時は飛ばして頂いて構いませんので)

あー、一通目さんのお返事も読んでから思ったのだけど「自尊心(プライド)」と「自らを尊重できる心」は異なるから注意な。
(どうにもグローバルになってから意味が混ざり、周知の意味が「プライド」寄りに変わってるようで、俺も混同気味)

自らを尊重できる心…、というか意思がないと、思い通り「諦める」事も、選択自体も多分出来ないから。

「諦める」という事をする以上は、諦める事が志、ポリシーになってしまっているというか、そういうもんよ。

ややこしい話が、「希望(望みたいもの)を諦める」という事に望んで行動する事になるというか。

なので、「全てを諦める事が不可能」なんだなという事に気付けたのは、俺の中で残ったものの一つかもしれない。
(諦めようとする事を諦めたとでも言える。なので逆に、諦める事を優先しなくなった)

…まあ、自らを尊重できるという事は、己の意思で決定するという事でもあるので、当然っちゃあ当然なんだけども。

プライド(自らを偉い立場だとか、尊大に思う心)は本当に要らない。俺は諦めて正解だったと思うよ。

小瓶主さんが何を説明したいのかは、俺には理解力がなくてちょっと解らなかったので、語りたい事を勝手に書かせて頂けるのであれば。

他者を尊重するという事は、「他者を尊重する"自分の意思を尊重している"」訳よね。

俺は、「他者への尊重」ってのは、「自分を下に持っていく」事ではないと思う。(他者を優先するとしても、自分を落とす事ではない)

そこまで行くと、自己犠牲とか献身の類へとなってくんじゃないかね。

で、少し話は変わるが、諦める(≒基準のハードルを下げる)事で、満足感は得られやすくはなる、と思う。(人によるだろうけど)

ただ、諦める事「だけ」では、辛い状況、苦しみの現状は変わらないので、辛いままとなる。

(思考による認識や、価値観の変化とかは必要。
ただ、無理矢理、「これは幸せなんだ。満足できるんだ」と、自分に押し込んで受け入れようとしても辛いものは辛い。
だから、満足できる事に繋がるかどうかは、変化した認識による物事への解釈に納得が行くかどうかが肝になるかと思う。
また、その過程で、物理的に思考回路が変化するので、その為の…、ある程度でも栄養バランスの取れた食事と、熟睡できる睡眠が必要になる)

俺としても、思考の…、試行錯誤(ダジャレじゃないぞ)をした上で、生きる事そのものにはもう十分満足しているし、今の所は、いつ死んでもなんの心残りもないまでにはなっている。
(もちろん、後悔や悩みはあるし、これからも無くなる事はないだろうが、その折り合いがついた)

…が、別に俺の現状はただの引きこもりニートだし、諦めた事も、諦めきれない事も抱えたままだ。

正直、俺としてはその状況に関してもはや何も思っていない…、見る人が見ればただのクズなんだが(ニートがクズという乱暴な思考もどうかしてると思うが)、そういった状況に関しては満足している訳でもない。
(興味はなくなった。関心がないので、「引きこもりニートだから俺は最悪なんだ。底辺だ。終わりだ」みたいな、なんの根拠もない思い込みもしなくなった)

そもそも、「満足」とは何かと問うと、個人的な解釈では「一瞬のもの」だ。
人は一定の条件やルールの中で、出来る限りの力を出せたと納得すれば、「そのときは」満足する。

だが、次には「もっと上手く出来るんじゃないか」という向上心などから、充足感は消え去る。

だから、俺は自身の満足に重点を置くよりも、向上する事そのものを重要な事として、喜び、成果が見えれば「今回はまあ頑張ったか」などと満足するようにしている。

なんというか、次よ次よと、一瞬しか満たされないものなのだから、「満足する事を目指して、生きる(目的まで行動していく)」より、「満足はおまけでいいや」っていうか。

諦めてきた事は…、他所様と比べて多いのかどうかも解らんが、それなりに諦め続ける中で、執着心が薄まってしまったのかもしれん。
(執着心も、デメリットはあるが、行動の原動力として見ると優秀なので、今まさに「執着心を上手く行かせないか」という興味に執着していはする)

まあ、他者から害されるとかではなく、己の内側の事ならば、己が気持ちと向き合って、少しずつでも片を付けていくしかないんかなあ。

ご自身の気持ちを、思い付いた時にでも、少しずつ、(小瓶を書いたようにデジタルでもアナログでも)文字で書き起こして、状況を整理してみるとか。
(言葉にしようとする事で具体的になって、情報が整理される事もある)

そしたら、自分が望む条件が具体的に見えてくるかもしれんし、見えてきたなら見えてきたで「どこを諦めてどこを通せるのか」「ハードルを下げればそれに近い事は出来ないか」「ここで悩んでいるのを何とか出来る方法はないか」などと考える幅も広がるかもしれん。

諦める事に慣れたのであれば、少なくとも、求めているものへのハードルを下げる事ぐらいは、多少なり楽に出来るだろうしな。

そうだな、個人的に言える事として、とにかくは、「諦めきる事はできない」のだと俺は思っているので…

プライドは、自らを尊重するという事ではないので、そこは気を付けて欲しい、という事と。
(自らへの尊重意思が全くないと、極端に言えば命令でしか動かないロボット的な存在になるんじゃないかね)

他者への尊重は、自らの意思を尊重する事から成り立っているだろうなので、少し強引な意見かもしれないが、あなたは沢山の事を諦めてきたが、未だ、あなた自身の事を諦めてはいないのだ。
だから、「あなたが家族(他者)を含めて、辛さやこれからをどうしたいのか」という事だろうか。

それがあなた自身の心を守る事(→自分の行動範囲というのか、身を削り過ぎないよう、一線を手放さない事)に繋がるのではないか、何かしら良いきっかけを掴む下地に繋がるのではないかと思いはする。

最後に、長々と書き綴ったはいいものの、これはあくまでも個人の意見なので、一つの解釈視点からは、こういう考え方もある程度に、鵜呑みにはなされぬよう。

そうそう、余計なお節介かとは思いもするが、たまにはブロッコリースプラウトなど、スプラウト(新芽。もやし的な)食品を食べてみるのも良いかもしれない。
栄養状態は思考や運動能力に直結するので、栄養状態が良好でないと、結果的にネガティブな感情を引き起こしやすい可能性もある。

また、冬場は紫外線が弱く、コロナ禍も相まってビタミンDも不足しがちかと思われるので、干し椎茸などの干物や、鮭などもオススメだ。

辛さが和らぐ瞬間が、これから少しでも多くある事を願うよ。
・・・小瓶を見る
烏羽
俺は誰かから言われた言葉がずっとモヤモヤしてる時は、反抗する言葉を思い浮かべたり、言ってみたりする事もあるかな。
(自分を保つ方法の一つとして)

まあ、言葉なんて「占い」みたいなもので、解釈次第でどんな事でも我が事のように、自分にある要素のように思えてしまう面もある。

そりゃそうなのさ、同じ人間という種で、似たような身体の仕組みからなってんだから、多かれ少なかれ重なって見える要素が至る所にあっておかしくない訳だ。

勝手、俺自身に言われた事と仮定して、小瓶文章内の言葉へ反抗してみるに…
「人間社会ってのは、人との関係、繋がりで出来てるもんだ。
起こる問題ってのは、そこに居る人間達の問題であって、1人に全ての責任を押し付けられる訳ではない。(無論、一人一人が己に対して責任を持とうとする必要はあるし、社会として立場から来る、規則設定的な責任もある)
その上で、(状況にもよるが)カバーしなかった当事者をさておき、人を非難する事がどれ程に要領が悪く、己の責任への自覚もなく、後の職場をどれ程腐らせる事に繋がりかねないのか理解できていないだろう点で、お前には能力がない」

…などという事を、十六夜さんの記憶の中であろう言葉に言い返してやりたい。

そもそも、遅いだとか悪いだとか、何があるとかないとか、そんな相対的で解釈次第、曖昧なもので罵倒するだけの時点で、事実に沿った評価ではない。
(ただの感想というか、感情に任せただけの罵倒に感じる)

タスクがあり、失敗したなら「上手くいかなかった」というだけで、「何が足りなかった」というのは、後付けだからこそ考えられる可能性に過ぎん。
(個人的にはそこら辺があると、挫けたり後悔する事がなくなる訳ではないにしろ、下手かどうか、などというネガティブな解釈に捉われて立ちすくむ意味は薄くなったと思う)

向上や改善に必要なのは、「そこからどうしたいのか」である訳で、然らば「どうすれば上手くいくのかを一緒に考える」「改善点を提案する」などが合理的な方法の一つかと思われる。
(仕事であれば尚の事、その職場内での関係性が、全体の仕事の能率などに関わるので、他者を貶める事が結局己の首を絞める事へ繋がってくる)

十六夜さんにはあなた自身のペースがあるし、他の人にも他の人のペースがある。
それを変えて合わせられる人もいれば、素早くだとかの条件が付くと、上手く合わせられないという枠に入る人もいる。

(逆に言うと、条件が付くから「上手い下手」「出来る出来ない」かが比較出来るというだけで、結果はさておき、評価自体は、解釈や条件などで成否の基準がコロコロ変わってしまう故に大した情報じゃないという要素を持っている。
嘘もつけるし、「感情任せの、それらしく見えるだけの根拠のない暴言」も言えてしまうからこそ)

人間、性格は変わらないものだなどと言われる事もあるが、日々、細胞が生まれては死に、物理的に変化し続けている事によってこの身体、精神が保たれている。
だから、間違いなく、誰でも変化できるし、常にしているとでも言える。

時が進む事が変化だというのなら、1秒たりとも同じ瞬間は存在しないし、同じ失敗もまた存在しない。
(似たような状況はあるから、それを同じように感じる訳だが、明確には違うので、同じ過ちを繰り返している訳ではないし、向上心を手放さなければ意思は積み重なり、それが行動する原動力や、経験を糧にする学びへと繋がる)

なので、物理的な観点からは、栄養バランスのよい食事や健康的な生活をある程度でも心掛けられれば、より良いのかと思う。
(実際に筋トレを続けたりすると、メンタル強くなったりもあるっぽいし)

多少でも、十六夜さんが良い方向へ転がって行ける事を、少しでも心安らげる瞬間が増える事を願いたい。
・・・小瓶を見る
烏羽
綺麗事とは思わない。
見かけや口先だけ整えられた、上っ面だけ立派に見せかけてる事を「綺麗事」と呼ぶ訳だからな。

小瓶主さんのは、ご自身の気持ちの吐露だろう?
なら、それは本心って奴だ。

俺にとっては、もう、人に共感出来ない事が沢山あるが。

俺もあなたのように、誰彼が苦しんでいる事が、そしてそれに共感する事が苦しくなってから、心を守る為に共感できなくなった、あるいは共感性が薄まったのかもしれない。
今となってはよく解らないし、そこまで自分に興味もない。

だけど、共感できないなりに、その思いを、我が事のように受け止める熱意、情熱も薄くなった。
やるせない思いを受け流せるようになったといえばそうだが、そこに対する心の動きが鈍くなった。

だから、あなたもいつか、そうなるかもしれない、なんて事は解らないし、可能性の話なんて幾らでも出来てしまうから、それはいい。

でも、共感できようができまいが、それぞれ良い点も悪い点もある。

だから、今あなたが出来る事をするのが1番いいんだ。
それは今のあなたにしか出来ない事だから。

それぞれ様々な人が、その時にしか解らない苦悩の中で、少しでも似たような所があると感じられる事、少しでも同じ箇所があると思える事が、どれだけ貴重な事なのか…
共感できるという事がどれだけ凄い事なのか、少しは理解出来るつもりだ。

無理はし過ぎないようにな。
なんにせよ、真心込めて、真摯に向き合おうとすれば、それなりに疲れるもんだ。

言われるまでもないかもしれんが、休める時はちゃんと休めよ。
世界にはあなたも居るんだから。

世界中の全ての人々が心穏やかに、安心するってのは難しいかもしれんが、あなたに少しでも、日常の中で安心感を得られるひと時が、多くある事を願う。
・・・小瓶を見る
烏羽
あ、お返事どうも。
グェッへ(笑い声)、またまた、上手いお世辞を〜。

具体的には褒められポイントがよく解らんのでピンとは来ませんが、素晴らしいと言われれば嬉しくもあるので、そこはあんがとよ。

何となく思いついた事をメモ代わりに小瓶へ詰めて流したものなので、お返事が来るとも思っておらず…、こちらこそ、しょうもない事あれこれ書いたものへ、態々お返事してくださったのがありがたい。
(しょうもなかろうがなんだろうが、そうと思いつつも言葉を送ろうとしてくれた所というのか)

簡単に端折って説明しようとしてみると…
「他との関わりによって大体の人生の中身である、一瞬一瞬の価値や意味が織りなされているのでは」
→「もしかしてその価値や意味が自己形成の元なんじゃね?」
→「感情やら思考やらから出て来る訳だし、意味や価値って自分自身の一部なんじゃね?」
→「己ってなんなんだろう」
→「物理的な化学反応やら細胞や細菌なんかの活動で起きてる一連の流れとかなんじゃね?」

…って感じのが大体です、はい。

まあ、せっかく拾ってもらった事もあるので、もう少し書かせて頂けるのなら。
この小瓶を拾ってもらって、俺がお返事などから意味を感じた事こそが、「意味や価値は人と人との間で産まれやすく思う」的に書いた部分の本質なのよ。
(そんな大した事ではない)

嬉しいとか、お返事を返してみよう、と思ってる事こそが、意味や価値なのだというか。
(一通目さん的には、一通目さんがお返事を送ろうとした事自体が「意味」、「意義」な訳だろうし)

大体の意味や価値って、人間関係(自他の関わりによる出来事)で出てくるしさ。

そんで、自分の思いって、言葉にする事…、誰かに伝えようとする事で少しずつ、はっきりしてこないだろうかね?

思った事が自分自身の一部とすれば、自分自身を知る為には、誰か別の考え方との接触によって、よりはっきりしてくるのではないか、と考えられる。(それに加えて変化もする)

言ってしまえば、この小瓶の文章に良さを感じるのは、あなた自身がそれだけ素敵な感性を持っているという事でもある。
(感性が動いたから、「感性がある」と認識できる。丁度、鏡でも使わなければ、自分の目で、自分の目を見る事が出来ないように、己の感性を己だけで知る事は無理がある)

他に、例えばメモを書いたとして、自分がその時に解っていた事が、後々読み返すと、重要な文脈が抜けていたりで何言ってんのか解らなかったり。

要は、違う視点から文章を見ると、全然意味が伝わらなかったり、肝心な部分(あるいは伝えたい事)が頭の中に置き去りになってしまっていたりする訳よ。

だから、他者に伝えようとするとなれば、それだけの分、己がはっきりしてくるし、自己形成にも繋がる。
(クリエイターの目線に通じるものがあるかもしれん)

言い換えれば、他者の視点を受け入れる事で、別の角度から物事(この場合は己)を見る事が出来るという。

自分自身の一部である思いを、形にして表そうとするのだから、事実はどうだか知らないが、そう考えると自然な事ではある。

ネットリテラシーだとか、色々気を付けたい事もあるけど、要は「日々の行動が自分自身を作っている」訳ですかな。

心から思いやりを持って接しようとする人は、当然そのような一面を持ちますし、心から暴言ばかり吐いているとそのような一面を持つ事になるという。

…まあ、小瓶文中では言葉が抽象的だったり、この返事では多かったり小難しいだけで、当たり前っちゃ当たり前の、普段何気なく行っている事でっせ。

とにかくは、こんな妄想を垂れ流す事で、多少なり誰かの暇つぶしになったのなら幸いですかね。
(↑という意味を付けている、というオチ)
・・・小瓶を見る
烏羽
死後の事は知らんから何も言えんが、死も一つの手ではあるかもな。

だが、経験から思考はなり、思考から認識はなる。
認識とはメガネのようなもので、それは主観とも言い換えられる。

俺も死にたかった人間だからというのもあり、自殺するか否かに関しては何も否定しないが、死にたかったからこそ、辛かったからこそ、そういう時こそ思考や認識は狭まり、選択肢が見えにくくなるものでもあると知っている。

小瓶主さんはもう知ってる筈だ。
見てきた、知った人間の中には酷い奴もいると。

…本当に嫌いなのは、世界なのか?

くどいようだが、別に死ぬなとは言わない。止めもしない。
というか、そもそも言った所で、俺には何の決定権もない。完全な他人事だからな。

だが、言いたい事を言わせて貰えるのならば、人生を無意味かと思うのは、自分で作り上げている思いだ。
自身の経験から、導き出している、一つの価値観、思想だ。
それは変える事が出来るものの一つだよ。

アルベールカミュの言葉を見つけるまで、自分の気持ちや思いが、上手く見えなかったのだろう?
そして、その言葉によって、明確なものへと近付いた。変化できるという事だ。

人間というものは、変わるものだ。
だが、その変化というものは、良くも悪くも、今まであった情報を歪めてしまう、圧縮してしまったりする、そういった側面もある。

だから、一部が嫌いであったはずの事が、いつのまにか全体へと広がり、規模が大きくなる。

俺も人間は嫌いだが、この言葉の表し方をもっと正確にすれば、「人間の中でも倫理観に反する行いをするような、気に食わない奴が嫌いだ」とでも言い表せる。

なのに、いつの間にか、「人間全体が」嫌いになる。
そして、同じ人間である、自分の事も嫌いになる。

我が事の話をすれば、あの時の俺の思考には虚しくなる。
確かに、その時々は、事実として「人間そのものを嫌う」が、元々は「特定の人間」、特定の条件が嫌いだった筈なのに、全体を避けるようになる。
間違いなく、俺の思考はズレていった。
(この過程には人間の防衛本能や、情報処理の仕組みが関係しているらしい)

嫌いな要素を持つ人間がいて、そしてそれに似た、嫌いな要素を持っているように見えた人間の悉くを嫌い始める。
その人の中身なんてよく知りもしないのに、「持っている」という判断を下してしまう。

持っているかどうかを判断するのは俺で、相手じゃない。
だから、その要素を持っていなくとも、「それに近い要素を持っていると思っただけで」、その判断を下してしまう。
(余談だが、その認識を相手側が変えようとしても難しいので、対処として判断の自覚を持っておく必要がある)

人間なんて、同じ種族として、似たような要素ばかりではあるが、全く同じという事はありえないのにも関わらず、「過去に見たものと同じ」だと、俺は思い込んでしまった訳だ。

それは先入観や偏見というメガネ、時に誤った認識として、思考に作用する。
別の表現をすれば、極論だが「人は自分の関心のある事だけを、意識的にでも無意識的にでも選んで、受け取っている」という事になる。
(この〇〇はこうだ、と強く盲信したものには、誰の声も届きにくくなったりする)

そうなると、自分から、事実かどうか関係なく、他人の嫌な事を見つけ出すようになる。自分自身の中にも、それを見出すようになる。
そしたら、当然、嫌な気持ちになるだろ?そして、そんな自分自身にも嫌気がさして…、悪循環って奴さ。

死にたいという思いや、そこに詰まる背景があれば、「人生が無意味」という言葉を絶望的に捉えるかもしれんが、人生が無意味でも今ここに生きてはいるしな。
人生の中身には、俺たち人間がいて、その人間が意味を見出していくのだから、人生が無意味でも何も変わらない。

なくても生きているし、意味が欲しければ探せる。
解釈次第と言えばそうだがな。

ややこしい話が、人生を無意味だと思う事は、『「人生が無意味」という意味を己が持っている状態』なのだ、と言えば良いか。
俺たちが、何かに対して、意味や価値を作ったり、付けているのだ、というか。

まあ、小瓶主さんがどのような過程思考や背景から、この小瓶に書かれた思いになっていったのかは解らんが、問題が「思考」であるならば、思考を変える事で思想から抜け出せる事もあるかもしれんな。

迷路から抜け出すには、死ぬ以外の選択肢もあるのではないかという話だ。
(悪いが、その言葉を出した時点のアルベールカミュさんにとっては、自殺が唯一合理的な行動に見えたのかもしれんが、俺にはそう思えない。…何を「合理的」とするのかが違うからだろうな)

ただ、無理に小瓶主さんを変えたいとは思っていないというかな、先ほど書いた通り、それは他人の意思であって、俺の領分ではない。
変わりたければ、思考や認識を変える方法が、一つとしてあるかもしれない、という事を提示したかっただけだな。

なんにせよ、苦悩があるというのなら、それが和らぐ事を願うよ。
・・・小瓶を見る
烏羽
生まれた意味は解らないが、産まれたからそこにいて、生きているから生きているというのは事実だな。
それは虫や、他の生き物、動くものも同じかと思う。

人間は何事か、色々なものに意味を求めたがるが、それは本当に、真、正しい意味なのか、そもそも意味はあるのか、それは誰にも解らない。

そもそも、意味とはなんだろうな?
産まれ、感情を持ち、思い、考え…、物事を振り返っては意味や価値を、それぞれの視点や、一瞬一瞬変わりゆく角度から探し出す。

ものことに、真に意味があるとしても、人間は勝手に、自分の思った意味や価値を、そこにあるものとして認識する事が出来る。
意味は作り出せるもので、後付けも出来るものだ。

ならば、産まれた意味、もしくは誰かがこの世に産んだ意味はさておき、生きていく意味というものは自分で決める事の出来るものなのだろう。

まあ、殆どは一瞬一瞬の欲、生きている中で、腹が空けば食べたい、寒いから暖まりたい、そういったものから進み、動いているのだろうから、一生涯を通じて一貫した存在の意味を求めるのであれば、なかなか難しいのかもしれんな。

個人的には、愛を育むためというより、愛を育んだりと、生きている中でした事が、生きた意味、即ち「生きた軌跡」として残るのだと考えている。

人類全体が生まれてきた事に、運命やら使命やら、何か重要な事があったのかとは、俺には思えない。
人間だって、虫となんの変わりもない、生命体として見れば、単なる同じ命の一つだ。

種として命が繋がれてきた事実というのは、現在でも様々な種が絶滅に追い込まれている事を見るに、有難い、工夫や努力がなければ存在し難かった事なんだろうと、恐れ入るがね。

誰彼、どの種族、どの個に、特別何かがあるなどとは思えない。
それぞれの違いがあるからこそ、等しく、尊さも醜さも、各々が感じられるものではないか。

意味が作られるとすれば、それはその瞬間の己が、どのような視点から外を認識し、何に対して重要かという価値を持ち、どれだけ重きを置いているか、という事なのだろう。

自分の命の事を詳しく知らない。
他の命ですら、同じ種族の命ですら、考えも感情も明細に解る訳でもなく、知らない事ばかりだ。

そんな訳なので、俺には人類の存在する意味がどうとかは解らん。
少なくとも、それぞれが生きている中で、己の思う存在する意味や存在したい意味を作れる事と、そんな意味がなくても今存在していられる事は確かだがな。

まあ、とにかくは、各々がそれぞれの生の中、その時々の学びから得ていくのが意味なんだろうと思っているよ。

逆説的に、「生きる中で意味を得る事が、存在の意味、目的なのかどうか」と問うと、そのようには感じないな。
人の解釈次第ではあると思うが、俺が現時点で考えているのはそんな所か。
・・・小瓶を見る
烏羽
一解釈からなる、一意見を述べるとすると。

それは生きる事そのものが素晴らしい、素晴らしくないというより、そんな事をする人たちが悪いというだけに思えるのだが、どうだろうか。

そもそも、生きている事の中で、我々が主体として、素晴らしい事や苦痛、虚しさなど、色々なものを感じている。

心ある人間だからこそ価値が生まれる訳で、だからこそ、各々の生があれこれ、素晴らしいか否かなどという価値を作っていくのではないだろうかと思う。

そして、その生の中、素晴らしいと感じる事も、苦痛や問題に思う事も、全ては一瞬の内にある。
生の中、一生涯の一瞬を、断片的に切り取った写真のようなものが、そのような感情や経験の記憶であり、記憶から想起される現在の感情や考えでもある。

生きている以上、ものことには多少なりとも手が出せる訳で、変化し続ける。
苦痛の記憶を歓喜や感動が上回り、歓喜や感動を、苦痛や悩みがまた上回る。
価値を持つ人間の認識が変わり続ける。

そのような、一瞬以上を知る事もなく変わり続ける中で、生の全てを理解出来るとは俺には思えなかった為、今の所、生きている事、存在そのものに、精神的な価値を求めない事にしている。
(生きている中で、あの出来事は素晴らしい、あの出来事は辛かった、というだけ。命の重みやらは別の話)

大事なのは一瞬一瞬の事、生きている中でどんな感情が湧き、それに対してどう思い、考え、そして行動しようとするのか、ではなかろうか。
(今この時を大切にして生きる、などとも言えるかもしれん)

悪逆非道に思う所あれば、その一瞬の中、何が出来るのかを己に問いかけ続ける他ないように思う。
我々が寄せ集まったものを、人間の社会と呼んでいるのだから、一人一人が社会を構成し続けている途中な訳でな。

まあ、お天道様が見ている、神様は常にそばにいる、守護霊様がうんぬんかんぬんと、上手く言ったものだよ。
小難しい考え方がなくても、倫理感に反するような事をしたくなくなる教えが五万とある。(今はどうなのだろうな)

そういう知恵や、真に心ある人間が生まれもするのだから、生きている事の中身には素晴らしいものもあるのだと思っているよ。
無論だが、逆に、悲しい事や苦しい事もあるものなのだとも思っている。

天国も地獄も人間が見出したものなのだから、生きている内に垣間見るものなのだろう。
・・・小瓶を見る
烏羽
小瓶主さんからのお返事どうも。
まあ、お返事が必ず来ると期待している訳じゃないし、だからこそ態々書いてくれて有難くも思う。

拾うも拾われないも、返事を書くも書かないも、それぞれの思いやペース、背景があるのだと思ってるから、気にしてないよ。

ちょっと気になったので、そこに関して返事をさせて頂けるのであれば。

人間、誰しも主観を通してしか、ものを見られないので、自分自身の思っているもの、気になったり、経験したものの中で気に留めていたりする事が、現実その場に在るものの解釈に多少なりとも影響するもんじゃないだろうか。
(心理学的に言うと投影だったか)

要は、自分の経験から学んだ事、思った事。そして今もなお、過去を通して学んでいる事。
自身に纏わる出来事から、多く、色んなものことを当てはめて見て、解釈、判断し、認識しているのだと思う。

個人的に口出しすれば、「普通」というような曖昧な言葉には、その経験や学びからくる、各々の解釈や認識が大きく乗りやすいのだろう。
もとより、言葉の意味を調べると、普く通る、と書いて普通。

…つまりは、「どこにでもある」という、ありふれている様を指す訳だが、これは「一般」だとか、「常識」だとか…、もっと言えば「正しさ」だとかという言葉と同じように、その主軸、「何が」という、基礎となる部分の解釈がその言葉を使う人の中身に委ねられる。

だから、言ってしまえば、誰かが「あなたって普通じゃないよね」なんて感じに使う「普通の中身」は、「あなたって私からするとよく解らないわ」的な意味合いでしかない場合もある。
(また、人間、それぞれの価値観が似通う事もあれば、違う事も当然あるので、あって当たり前。それが、その場に居合わせた人間のグループ…、いわゆる社会という群れの中で、少人数であるというだけ)

それぞれ、その人が経験してきたり、学んだりしてきた社会などから、普通という感覚などが出来ているのだろうというか。
だから、自分にとっての当たり前が、当人にとっての普通という事にもなる。

そのため、「〇〇は普通だよね」と言う場合、「〇〇の"どんな事が"普通なのか」が隠れてしまう事も多いのだろう。
(これを察しろという人もいるが、言葉にしない限り個人の感覚を他人が理解しようとするのは不可能である。なのに「普通」という言葉の意味から来るのであろう「他の人にとっても当たり前の事である」という誤解によって、当人への説明の困難を極める)

「普通」なんて、結局そのグループ内で、とある要素を多いと思うか少ないと思うかの結果的なものでしかないのだから、自分自身が普通かどうかを考えた所で、周りから見て普通じゃない所は誰にだってあるし、普通な所もある。

おまけに、長所と短所は紙一重と言われるように、一つの事柄を様々な経験…、失敗や成功となどから来る学びによって、色々な視点から解釈出来てしまう事もあり、それぞれの個人の感覚というものが、どれだけ「普通ではない」事なのか…、少なくとも、俺としては、大した意味を感じない言葉だな。

昔は俺も、自分の事を普通ではないなどと悩んだ事はあるが、よくよく考えてみれば、誰だってイレギュラーというか、人と違う点はあり、違う点があるからこそ少人数になり得る要素は持っているもので、そこまで大した事でもないと思えた。

事実を照らして事細かに考えていくと、自分自身を普通であると思う事がまず、本当に普通の事なのか?と疑問に思った訳だ。
人の心が完璧に解る超能力者でもない、普通の意味を完全に理解している訳でもないのだから、誰が、何が普通などと、俺には到底判断できなかったんでね。

その上、日本中にしてもそうだし、世界中という規模の人類の中で見比べれば、人と違う、変わっているなんて、どれだけでも誰にでもありそうな気もする。(似ている要素というものも同じくだが)

個人的には、普通かどうかなんて朧げにしか解らないものかと思うので、「普通は〇〇だ」なんて断定に使うと途端に言葉が怪しくなるんだけども、普通という意味が解っていないとそういう風に使っちゃったりする事もあるんだろう。
(俺も人の事は言えないが)

断定する者の万人がそういった意味で使うのだと考えたくはないが、少なくとも「普通は〇〇だ」という断定によって、「お前は正しい側の人間でない」といった幼稚な主張を押し付けるのは、まともではないと感じる。
(今はなりを潜めているので解らんが、俺の親はそうだった)

どんな思いから、返事の文中、小瓶主さんが「イレギュラー」なのだと仰られたかは解らないが、別に誰に悪さをするでもない己の内の事なのだし、倫理感に外れている訳でもないなら、イレギュラーと言っても、単に「異なった意見や考え方、別の視点からの解釈」でしかないんじゃないかと思う。
(そもそも、宛メの中で、俺含め、別の小瓶の他の方の中にも、変わっている、などと言われた事はあるようだし、「そういう人が多くいる」という時点で普通の仲間入りになる)

まあ、他人にとって普通かどうかというかね、変わっているように思われるかどうかは…
他人がどうかというのも、自分の内では動きの原動力となり得る訳だし、必ずしも悪い事ではないと言っておこうかな。
(思いやりからなる倫理観や、社会のルール。社会グループ内の人との関係性の中、マナーやモラルといった、身に付けておいた方が良いものもあるしな)

そういった事を含めて、それぞれ一人一人にとって、経験からだったり、学びからだったりで、今まで行ってきた当たり前がある訳で。

培ってきたそれが各々にとっての普通の感覚なのだろうから、その、己の普通とどう向き合うか。
変化を求めるのなら、どのように変えていきたいのか。そこが肝心な事じゃないだろうかと思ったりする。

まあ、所詮は個人の一つの考えに過ぎんので、ここに書いた事が、小瓶主さんの芯を作る糧になろうともならなくとも、何でもいい。
ご自身の内面が良い方向に形成されたり、例え上手く行かない事があったとしても、柳の枝葉のような柔軟性を培い、立ち上がれる事を願うよ。
・・・小瓶を見る
烏羽
再三のお返事、どうも。
(今まで以上、殊更に長くなりましたので、お時間とご気力のある際に読んで頂ければ。今更感はありますが、一気に読まなくても勿論構いませんので)

俺は人の都合も知らず、余計なお節介でうだうだと抜かしているだけだから、こちらこそ感謝の言葉を言って頂けて心助かるよ。
(言われるまでもないかもしれんが、俺が勘違いしている事や、小瓶主さんの背景を知らないが故に不適切な事を言い、すれ違っている事もあるかと思うので、その時は違うなら違うで良いんよ)

小瓶主さんが、先の事を不安な出来事で埋め尽くしている、という状態にあるんじゃないかという事は理解して頂けたかと思う。

先に何があるかなんて事は誰にも解らない。
自分が思っている不安もあるし、それが現実に起こる可能性もあるが、可能性は可能性なので、本当に起こるかはそもそも解らない。

今まで出来なかったから、この先もずっと出来ないというのであれば、「成長」などといった良い変化は存在していない。
全てが思うように上手く出来るとは言えないが、今出来ないから、先も出来ないという因果関係はないよ。

自分で思いつくだけやった、とあるのは、良く頑張ったんだなあとは思う。…が、それも過去のご自身の話。(ドライかもしれんな。すまん)

「過去の自分が思い付くだけ」という点では、過去の自分を振り返られるだけでも、現時点の方が判断する情報量は多くなっているので、また変わった視点からものを見られるという事でもある。
(職場の人や、店頭やら、色んな人に聞くという手段もあるし)

厳しい事を言うようだが…、やめたいと思っていても「やめられない」と、そう決めて、見ているのはあなただ。
自己否定をしたくないというなら、そこでやめられなくても、少しずつ減らしていける事などを確認したりしながら、やめようと行動し続ける他にはないと思う。
やめたいなら、やめる事を決めるというか、ある程度、腹を据えるというかね。

(だからこそ、やめられないと思ってしまうかどうかとは別に、「変化できる、変化したい、変化する」などといったご自身の思いのほうを大事にして頂きたい。因みに、精神は身体の一部なので、ラジオ体操やら、ストレッチ、柔軟、ヨガなど、軽めの運動をある程度だけでも継続すれば、多少なりメンタル的な改善が見られる場合もあるようだ)

自分で思いつく限り頑張って、それでも成功しなかったというのは、当事者でなくとも心にくるものがあるが、そもそも、動かなければ変わらない。
失意に飲まれてしまうのも仕方がないとはいえ、厳しいようだが、打ちひしがれ続けていれば、変えられるものも変えられなくなってしまうのではないか。
(とはいえ、本人にその気がないのに、無理に立ち上がって欲しいという思いはないので、気持ちの折り合いを付けたり、多少なりとも元気が出、動きたいと思った時に動いて欲しい。そこは他人がどうこう出来るもんでもないしな)

悪いがその点は、個人の内の事なので、あなたが決断しなければ、どこの誰にも、どんな立場の人にも変える事などできないよ。

…話は変わって、釣りをする事に関し、借りるという手段が嫌い、とあるが、壊してしまったりした後、どれぐらいの費用がかかる可能性があるのか、その後の対応はどうすれば良いのか、などの事は調べただろうか?
嫌いであるとしても、今どうしてもやりたいのであれば、現状見つかっている方法に頼るしかない訳でな。

他に行動の択があるとすれば、ご自身に少しでも合うような情報を探し求めるか、諦める事になるか、そんな所か。
(細かな詳しい事は解らんが、遊漁船というものもあるらしいな。それなりに値は張るようだが。あとはコロナで各地どうなっているか解らんが、釣りイベントとかだろうか)

諦めきれないのなら少しでも出来る範囲の中、手を伸ばしてみる他もないし…、諦めきれないからこそ、燻り続けているのではないのか?

気持ちの折り合いも付かず、モヤモヤしているとなれば、当然苦しくなりもするのだから、良くないのではないかと思った次第だ。
(その点、揺さぶっているようで申し訳ない)

また、移動手段についても、既に調べた上で利用できないのかもしれんが、バスやタクシーなどの公共機関を頼るのもあるし、海に拘らなければ釣り堀を探す事も出来る。

2000万円問題に関しては、実際に生活費が足りず、高齢者がバイトやパートなどで働かざるを得ない状況はある。
当事者ではないから無責任に言ってしまえるので、ご自身でよく考えて欲しい事ではあるが、現状満足できる趣味などがないなら、一度、お金が掛かっても、貯金を崩してやりたい事をやってみて良いのでは、と思ったりもする。

いつ死ぬか解らない。体調も悪くなっていく。見通しも判らない。とあらば、出来る内にしておく、というのも考えの一つに入ってくるかと思ってな。

まあ、叶うとは思えなくとも、生きている限り人生は続く。「不可能だと思い続けて過ごす日常」と「まだ何かできる事はあるんじゃないかと思って過ごす日常」は心の持ちようが異なる訳だ。
そういう気持ちというか、考え方の積み重ねが思考回路を、価値観を形成していく事に繋がる訳だろうから…、要はモチベーションに関わる訳だ。
強いて言えば、それが僅かでも心の余裕につながる事もあるやもしれない。

(大事な事なので何度でも書くが、思考回路は物理的に頭やら、神経系として存在してるので、変わるのに時間が掛かる。
そのため、変えたいと思ってすぐに変わる訳ではないので、何度も、その都度、どうなりたいのか考え、行動し続ける必要がある。もっと簡単に書けば、変えたいのなら、「別の思考をその都度、使おうとする必要がある」。

例えばだが、「できない」と思ったとしても、その上で、「叶うとは思えない。"けれど"、やれる事はまだあるかもしれない」と、ほんの少しでも考えてみる事だろうか。
思考は身体の筋肉と同じように、使えば使う程最適化され、使わないものは薄まっていく傾向にあるらしい。なので、変えたいのであれば、少しでも望みに近い思考を行い続け、それを当然の状態に近付ける必要がある。

続けるためには、ご自身の求める信念や志(目印や目的)を少しでも定めておくのも良いかもしれない。
途中経過だとしても、紙やスマホのメモに書いておくなどすれば、迷った時の支えになる可能性があるし、自分の考えを見直すきっかけにもなる。
内容が上手く纏まるか、解りやすく出来るかは不明だが、後から纏めようとする事も可能ではある)

相談相手というか、人恋しさがあるというのなら、身近にいる人間と関係性を深めていったり、趣味ができればそこから繋がっていったり、好きな事などの話からお互いの事を知って行ったりなどという、基本的には知る事から関係性が出来ていくものかと思う。
(実際俺も小瓶主さんとちょっとした知人程度にはなっているかと思うし)

あるいは、少し話は逸れるが、今の時代なら、心理カウンセラーがブログで色々やってたり、Twitterなどでお題箱(という名前だったか?)などのサービスを利用して答えられる相談に返答してたりもするだろうし。
専門家に対処を聞いたり、その知識を参考にするのも手ではある。(俺があれこれと書くよりも解りやすいとも思う)

個人のうちで低価格にできる趣味の話で言えば、動画(動物系など)とか音楽、ネットでの小説やら画像やら、瞑想やら、どんな事でも楽しみやら興味やら、自分の少しでもの感動に繋がれば趣味の範疇として数えられるようになる。
趣味というか、何かしようと思うものがあれば、多少なりとも孤独感は紛れるかもしれん。

(読める話数に日時的な限りのあるものも多いが、集英社とか、色々無料で読める漫画サイトもあるし。もし気が向けば、余った紙や百均などで買える折り紙で、紙飛行機を作って飛ばすしたりするのも面白いかもしれない。軽い運動にもなるし、色んな折り方を自分で考えて試してみる事も、調べる事も出来るだろう。
勝手に報告すると、出来に満足はしていないが、多少は紙飛行機の自作の型を持ってるぞ。

個人的な話かもしれんが、少し頭のネジを緩めてバカになれば、楽しめる事は石ころのように転がっているというか、なんなら道端の石ころを観察する事からでも俺は楽しめる)

なんにせよ、趣味だろうとなんだろうと、楽しくない時は楽しくないし、面白い時は面白い。
そこに興味やら、もっとしてみたいという気持ちがあるなり…、とにかくは、手を伸ばせる範囲内の事を行い、それがたまたまか、意識的にかは知らんが、継続する事により趣味と呼ぶものになっていくのかと思う。

他人として、小瓶主さんの苦しみを真に解る事は出来ないが、孤独や不安、ストレスを抱える状況だからこそ、そういう慢性的な気力の落ち込みもあるのかもしれない。
(人間の防衛本能の一つとして、ストレス過多の状態になると、全ての行動を一旦停止して、ストレスの原因を止めたり、原因から離れようとするらしく、その為に気力が湧きにくくなる事もある)

だから、あなたの行動の全てを、あなたが負える訳ではないというか、仕方のない部分もある。
そこは、天候というか、雨が降った、雪が降ったなどと、諦めるしかない部分もあるのだろう。

大事なのは、今生きている以上、その上でどうするか。…だというのは、言われるまでもないのかもしれんがね。

どうすればいいのか解らなければ、少しずつでも考えていければそれで良いのではないか。
少しばかりかもしれないが、それでも見えて来ているものはあるのだろうから。

孤独から離れたいというものが見えて来たのであれば、宛メの中ででも(必ず返事が返ってくるかは解らんが、そこは現実とも本質の変わらない所)、どこででも、誰かと交流しようとするのも良いし、一つの情報に限らず、方法を調べてみてもいい。誰かに聞いてもいい。
趣味や、趣味を探そうとする事を考えれば、それだけでも、孤独を考える時間も少なくなるだろうしな。

強いていうのであれば、その「孤独」とは、人恋しさという寂しさなのか…、将来に対する、他人への頼りがない事の不安なのか、そういった細かい部分の、ご自身の気持ちが見えてくる事によって広がる視野もあるかもしれん。
(細かい部分が見えてくると、明確になるが故に、一つ一つの事に対して対処しやすくなる場合もある)

何度もくどいようだが、今まで失敗したからと言って、これから上手く行く事が何一つない、なんて事はないからな。
その上、今の自分に思い付かなくても、いつかの自分は思い付く事がある…、かもしれない。(そんな事を言ったらキリないが、たらればの仮定話であれば、不可能だと思う事も根本が同じなので)

心を強く持てとは言わないが、そこを事実として認識しておけば、ご自身が立ち上がれる為の支えの一つになるかもしれず、受け止めておいて頂きたく思う。

また、金銭や生活的な面での余裕を求めるため、改善策を探すための相談については個人情報の問題もあるし、「国民生活センター」や「社会福祉協議会」または、「消費生活問題についての窓口」(こっちの方が早いかも)と調べれば、県や市のサイトが出るのではないかと思う。
(ちょっと俺には概要がよく解らなかったので、必要ならご自身で調べたり、実際に聞いてみて欲しいが「生活困窮者自立支援制度」というものもあるそうだ)

もし相談したい事があれば、それらの機関を調べた上、相談内容の要点を紙に書くなどしておき(しなくても良いとは思うが、しておいた方が話は進みやすい筈)、それらに相談する事で、現実的な解決策の一助となるのかもしれない。

…ただ、相談員も人間として、小瓶主さんと合う合わないはある。(過去の結婚相談所のカウンセラーなどのように、「悪い言い方」をする事もある。心理カウンセラーとかにも同じくある)
その為、あまりにも合わなければ、人や相談する機関を変える、という事も手ではあるので、幾つかの相談窓口を探しておくのをオススメしておく。

あとは、そうだな。
自己否定について、他人と比べてしまう事をやってはいけないと仰られているが、俺は比較自体をダメな事だとは思えないな。

他人と自分を比べる事で、自分が今求めようとしているものや、現状に対する不満や、相手の良い点に気付ける事もあるのだから、比較自体に良いも悪いもないと、個人的には思っている。

比較する事で起こる問題…、困ってしまうのは、比較する事そのものではなく、比較した後、「何を考え、どう解釈していて、これから先をどうしたいのか」という部分だろうか。

俺の話になるが、比較「してしまった」と、幾ら自分を責めても、何も変わらない所か、どんどん気落ちしていくばかりだったしな。
そして、行動に移そうという気力も薄まり、どんどん動き辛くなる。更に、動けない自分すら責め続けるような、悪循環を起こしてしまう。

だから、小瓶主さんと俺が同じような事になったかどうかは解らないが、その悪循環が困ると、そう思った訳だ。
反省するのは良いが、後悔の念などから、自分を責め過ぎるのは良くないというか。

何故、自己否定するのかというと、自分自身が嫌いだというものも俺にはあったが、「もっと上手くできるんじゃないか」という悔しさや、「うまく出来ていたならこんな事にはならなかった」という悲しみや虚しさ、そういった気持ちの裏返しだったのではないかと思ったのだよ。

ならば、「自分が悪い」と思うだけでは何も変えられないという事もあり、その方向性をどこへ向けるのか、という話であって、自己否定"してしまう"事が悪いのだとは思えなくなった。
(…ややこしいかもしれんが、「自己否定する事をやめよう→自己否定する自分を否定し、責め立ててしまう→自己否定は悪い事ではないと思う事で、自己否定する自分を責めなくなった」と言った具合かね。個人差はあると思うが、そこまで数年は掛かった)

やめたいと思ってやめられないのなら、やめる必要はないという解釈もある。それも一つかもしれない。

趣味…というか、孤独感を紛らわすような話と被るが、まだ手元にあり、かつ興味があるのであれば、自己肯定関連の本を読み返してみるのも良いかもしれんし、「自己肯定」とはなんなのか、という事をネットで調べたり、そこから考えたりしてみるのも良いかもしれないな。

自己肯定というものが、一体どういうものだと考えられるのか。何を目指したいのか。
自己肯定以外の事にも言えるが、基本的に、そこら辺が多少なりとも明らかになれば、それは求めるものが具体的になるという事に繋がる訳だから。
・・・小瓶を見る
烏羽
その気持ちに向き合い、受け入れるのは苦しかっただろうなと、勝手ながら思ったりする。

親と子、家族の血の繋がりは、切っても切り離せないぐらいに強いものかと思う。
re:iさんは、ご自身の事を優しくないと、そう言うのかもしれないが、受けた苦しみがあり、縁を切ろうとしてもなお、滲み出るその情は、真に愛(思いやりの類)を持っている人間からしか湧き出て来ない優しさだと思うよ。

だから…、それだけ大きな事だという事もあるので、はっきり言ってしまうと、並大抵の覚悟では、腹は括れないかもしれない。
決心しても、気持ちは揺らいでしまうものなのかもしれない。

ご自身の気持ちの整理は、中々に付きにくいものかもしれん。
殺しにかかってくる覚悟も、それに抗おうとする意思や準備も、場合によっては必要かもしれん。

受験を控え、そういった不安と板挟みな状況もあるだろう。
他人事ながら、こちらも身を切られるような思いに駆られるよ。

脅威からは解放される可能性。
そして、今までの事に対しての区切りを付けられる可能性。

だが、苦しみや許せない事も確かにあった事に違いはないが、家族との良かった事もあるし、断罪した後の事を考えもする。

…あまり言いたくはないが、現実的に、人間関係が疎遠になるにしろ、続いては行く。
もし、このまま、なあなあに済ますも、計画を実行に移すも、元々の原因が原因だ、どの道、折り合いをつけていく事になる気持ちも、困難にまみえる可能性もある。

色々な恐れはあるだろう事から、俺としてもこう言ってしまうのは胃が痛いが、その恐れるイメージがある中でも、対処しようとする以外に、言葉は思い浮かばない。
(強いていうなら、刃物を持った相手に対峙する時は、相手との間に必ず盾になるようなものを持つとか、少しでも傷を負いにくくなるように、身体の真正面で向き合わず、半身に構えるというか。そういうのもあるかと思う。実際どうなるのかは解らんが、もし刃物が盾に突き刺されば、そのまま刃物を奪うなり、盾ごと投げ捨てるなり、刃物による攻撃を無力化させる事に繋げられるかとも思うし)

どう対処できるか考えたり、事後でも取れる対応を考えたり、不安を少しでも減らせるなら、減らせるに越した事はない。

…詳しく調べてみたり、聞いてみないと解らないので、迂闊に勧めることは出来ないが、「家事調停」というのもあるらしいぞ。
今更と思うかもしれないが、どうしたいのか、目的が定まってきたからこそ、「女性相談室」などの機関を頼ってみるというのもある。(情報の守秘に関して思う所もあるかもしれんが)

どのような断罪を計画しているのかは具体的には解らんが、何かしら参考にできる制度や機関はあるかもしれん。
ご自身が納得できる方法を探して、実行するなら、そうできるといいな。

どうするにせよ、俺は応援したい。
こう思うのも勝手な話だと解ってはいるが、re:iさんの人生が、少しでも報われて欲しいし、明るくあってほしい。
・・・小瓶を見る
烏羽
(これも長く、上手く書けず乱文につき、読み難いかとも思うんで、お時間と気力のある際に読んで頂ければ)

再度のお返事どうも。

少しでも元気のあると思える時にで良いので、考えたければ考えて頂きたいのだが、小瓶主さんは、失意の中、死んでいきたいのだろうか?
気持ちはどうあれ、それを持ちたいという意思はあなたのものだよ。

お返事に書かれていた事をそのまま聞き返すが、例えば、成功だと思える体験は欲しいのか?
今もまだ、ほんの少しでも自己否定をどうにかしたいのか?

全て失敗したり、途中で投げ出してきたとあるが、そこにご自身で思う所があるならば、少なくとも己が内で済む事ならば、失敗したとしても、間が空いたとしても、誰に迷惑がかかる訳でもない。
少しずつ続けられる範囲で続けてみれば良いのではと感じるが、どうなのだろうか。

(また、ここまで生きてきて、大きな失敗や、ご自身の求める基準からは霞んでしまうのかもしれないが、「全く」成功体験がないという訳ではないと思う。仕事だって就職できてはいるし、道中辛い気持ちのままだったのかもしれんが、人生の苦難を乗り越えて、生きてきてもいる訳だから。

成功とは己が内の概念なので、何を成功と捉えるのか、何を基準として解釈しているのか、という事でもある。
気持ちが落ち込めば、思考に影響するので、その基準や解釈の仕方が変わってしまうという事もある。
大きな失敗に落ち込んで、考える事がその失敗ばかりになれば、当然、その失敗の事に焦点が当たっているので…、行動しているかどうかは別にして、今何が出来ているか、その中で何が成功しているかなど、考え難くなる訳だ。
なので、もし成功体験が欲しければ、まずご自身が、成功したいという意思を持ち、その意思を自覚する事で、認識の受け幅や、考える焦点が変化する事もある。失敗は成功の母なんて言葉もあるが、要は受け止め方次第で気持ちが変化する事もあるのだ)

本来的に、何故己にダメ出ししてしまうのかと考えれば、仕事のミスやらに悔しさや、もっとあれが上手くこなせれば、もっと向上したい…、そういった思いがあるからこそ、その裏返しとして「これではいけない」と、ご自身を否定しているのではないか、と思ったりする。
(もし仕事でのミスをなんとかしたいなら、後悔するよりも、どこを改善した方がいいのか、何に気をつけた方がいいのか考える事で、反省して試していくしかないよな。あとは確認作業とか、答えてくれるかは解らんが、人に聞いてみるとか)

何度でも書くが、無理やり前向きになる必要はない…、というか、別に俺は、前向きになって欲しいと言いたいのではないんよ。

もしご自身で、なりたい気持ちがあれば、そうでありたければそうすればいいと思う。が、あくまでも伝えたいのは、「良い可能性を捨てると、視野が狭まって、行動の選択も狭まりがちだから、状況が悪くなりやすいぞ。だから希望(良い可能性)を捨てんなよ」という事までよ。

また、後ろ向きというのか、悲観的だという事そのものは別に良いもんでも悪いもんでもないと思う。不安があるからこそ危機や悪くなる可能性が予測できる訳だし、不安そのものが悪い訳でもない。
…ただし、そこで良い可能性という考えを捨て、「この先は希望もなく、悪くなるしかない」と思えば、「この先どうしたいのかという意思」そのものが削がれ、出て来難くなるであろう事などを、勝手ながら知って欲しかった。
認識がきっかけで変わる事、変えられる事もあるかもしれないし。

個人的に、ここは自己否定にも関連しているように思える。
自己否定も同じく、それ自体は良いものでも悪いものでもないと思うが、「何も変わらない、良くならない」と思ってしまうと、状況は何も変わらないのに、自分を責める事で、更に自分を苦しくしてしまう、そんなきっかけになってしまう。
(辛くなった時はちゃんと休むなり、自己否定を何とかしようと真剣に向き合うその思考を緩めればいい。物理的に、思考の癖が変わるまで何ヶ月かはかかるし、思い詰めても焦っても仕方がない。変えたければ長い目で見ると良いかもしれない)

もっと言えば、自己否定する事をやめたり、すぐ思うように上手く変える事が出来なくとも、自己否定した後の、自分の思考や行動を変える事は出来る、というか。
だからこその、「やめたい」という気持ちなのだろうしな。

希望が、裏返しの自己否定として現れているのやもしれなかったり、例え小さく感じるものだとしても、それなりに持っていたからこそ、心理系なのか、別枠のカウンセラーさんに電話しようとした訳だろうし、糖尿病に対して内臓脂肪を減らそうとしたのか、運動をしようともしたんだろう。
(多分されたのではと思うが、糖尿病に関し、食事の内容とかリズムとかの話は医師と相談しただろうか?それも大事だったかと思うので)

更には自己否定をなんとかしたかったから、自己啓発本を読んだりで、色々試した訳ではなかろうか。
動機が違ったんなら申し訳ないが、貯金をするのも、なんらかの希望を持っているが故のものだったのかと俺は思う。

別件だが、結婚相談所のカウンセラーさんが「容姿が悪い」と言ったのなら、それはそのカウンセラーさんの言い方が悪かったんだろうと俺は判断するよ。
だって、「悪い」という言葉を使わなくても「そこにいる女性の希望要件に合わなかった」と言うだけで、事実は伝わるからな。
(どこの何のカウンセラーだろうと、人は人なので、人間関係として、心配りの合う合わないはある。少なくとも、俺はその人にあまりいい印象を受けないな)

俺も夢を諦め、人生を諦めたつもりになって、中途半端に生き続けてきたから、人の事はあんまり言えないけれども。
「バイクに乗るだけ」なら試乗できる店を探せば何とかなると思うし、「釣りをするだけ」なら自分の釣竿を買ったりしなくても出来るだろうし。

最悪、今の仕事を解雇されたならされたで、バイク関係はどうか解らんが(思い浮かぶのは郵便配達のスクーターとか?)、釣りならそういった仕事を探せば出来る可能性はあるだろうからな。
もちろん、調べたり、そこまでの生活なり就職なり、仕事それぞれの苦労だったりと、それなりに大変ではあると思うが。

(逆に、どうしても、ご自身の希望に沿った基準で叶えたくてしょうがないなら仕方ないけど、出来そうにないと判断したなら、今現在、他に出来そうなやりたい事をしようとしたり…、別のものや、近いものを探した方がモチベーションにもなると思う。「今諦める」というのは、「一生見向きもしない」という事ではないしな)

とにかくは、生きている中で、あなた自身がどうしたいのか。
ご自身の現状や、それに対する気持ちを自覚した上で、何をしたいのか。
あなたの人生なのだから、そこが1番肝心じゃないかね。(人に委ねる事は出来ない)

忘れたくても忘れられない程、強い思いを抱えたままの記憶はあると思うし、それはどうしようもなくぶり返してくるが、変えられない過去よりも、解らない未来よりも、それらを引っくるめた、変えられる可能性のある今、どう動くのか、という事でね。

そもそも、昔の事だ。
あなたは変化したし、乗り越えてきた状況もあった。
親御さんにクズだと言われようが、それは親の考え、価値観を押し付けられたに過ぎん。結局、親御さんが思った事、感想にしか過ぎんのよ。

色々なショックはあったと思うし、それがご自身の人生にも影響したのだろうから、意識してしまうのも仕方がないと思う。
だが、小瓶主さんがクズなのかどうかというより、親御さんが激情に飲まれて、冷静ではなくなり、衝動的に発したのがその言葉や悪手な勘当、対応だったのだろうというかね。
(親子であろうとも、そもそも別の人間なのだから、思い通りな筈がないのに、理想を押し付けられたからこそ、「恥ずかしい」なんて言葉が出てきたのだろうとも考えられる)

言われるまでもないかもしれんが、本当に苦しくてヤバいなと思ったら、風邪なり身内が死んだなり嘘ついて、仕事をズル休みするのも手ではあるからな。
休まなきゃと思った時にはちゃんと休めよ。
・・・小瓶を見る
烏羽
じゃあ、「愚痴に付き合ってくれよー」的に言ってみるのがいいのでは?

させて頂くとか、立場で生まれる上下みたいなのって関係なくて、こっちが甘えたい感情と、相手側がそれを受け取めようとするかどうかって、個人の意思だろうからね。

「別に原因の解決策は求めてないんだけど、今ある、モヤモヤする気持ちはどうにかしたい」、「わかってんだけど、辛えわ」って事(を小瓶主さんが求めるなら)が相手にも解るというか、伝われば、そういう視点での会話になるんじゃないかと思う。
(単純に、相手はこっちの事情なんて何も解らない訳だし)

我慢というか、何だろな。
厳しく感じるかもしれないし、小瓶主さんも解ってるかもしれない事を書くとすると。
関係性次第でもあるけど、相手はこっちの気持ちや事情を大体知らないのだから、自分が求めているものを与えてくれる、察してくれる的に思ってしまうと、すれ違ってしまうんよね。
(これは甘えたり、頼ったりする事とは別の事だと思う)

辛い中で、本当に助けが欲しいという思いがあるなら、それが相手に伝わって…、相手も心配するから、状況を改善できないかと思う訳じゃない?
「わざわざ辛い中で、少ない気力を使ってる」訳だから、相手がそれだけ真面目に、真摯に受け止めようとするのも仕方ないように思えるというか。

まあ、俺が今やってるのも共感的な事ではなく、小瓶主さんが求めてないであろう改善案的な意見なんだろうけども。
正直、自分が思っている事以上のものは意見というか、感想として出てこない訳でもある。(不快に思われたらすまない)

俺も「相談してくれれば」ってのはあんまり好きじゃないな。
出来なかったからここにいる訳で、過ぎた過去の仮定の話をしてもどうしようもない。虚しくなるだけだ。

とはいえ、身近な人間が知らず知らずのうちに苦しんでいた事にショックを感じ、多少なりとも冷静でなくなっているから、出てくる言葉ではあるのかもしれんがね。

人間ってのは、大体勝手なもんだよ。
でも、だからこそ、人の勝手な気持ちが解る事もあるのかもな。
・・・小瓶を見る
烏羽
俺は相手の本当の気持ちが、自分の主観で100%解る訳がないと諦めてるから、結局「相手が本当に必要としている事がある、と思っている自分がいる」って事だと思う。
(不快に思われたらすまないが、誤解を承知で書くと、感じ取る感性があると思ってないというか)

俺には大した洞察力も観察力も理解力も共感できる感受性も知恵も、伝える力も運もない。
だから、相手の気持ちなんてそう易々とは解らん。(小瓶主さんの言いたい事を勘違いして、このお返事を書いているのかもしれんし、言いたい事の芯は同じかもしれんし)

なので、こういう書き方で、小瓶主さんやら読む人を傷付ける事はあるかもしれんが、自己犠牲が過ぎれば自分が苦しくなる事もあるとは言っておこう。

自身で自己犠牲をしようという気概があり、余裕や覚悟があるならそれでも構わないが、それがないなら真面目にやめておけ。
相手が本当に求めているものをあげられる、なんて思えば、冗談でも何でもなく地獄を見るぞ。

不安を煽るような表現で悪いが、自分の人生も、相手の人生も、メチャクチャになる可能性があるからな。

相手も自分も単なる人間だ。
自分も、相手も、どちらが正しいとは言えないし、間違っているとも言えない。
何が良いとも悪いとも、人それぞれで変わってしまう。

あの時止めていれば、あの時ああしなければ。
あの時自分はこうだった、あいつはああだった。
そう思う事もあり、その思いから他の人に影響しようとする事もある。その思いから人を見ている事もある。
その心、認識、考え方、思い、その全てが、少なからず行動に反映される。

それらが適す事も、適さない事も、往々にある。
そして、何をもって、自分の中で適すのか、相手の中で適すのか、その価値観の違いもある。
(結果や事実は、良いか悪いかを持たず、良し悪しの基準は己の内にこそある。だからこそ惑いやすくもあるし、惑い、悩むのも当然。思いやりに努めるためには、その源たる心を置いてはいけないのだから)

だから、自分が相手の事を真心から思っているとしても、それはどこまで行こうと自分の中の判断基準である事を忘れないようにしたいと思っている。
(自分の判断の枠組みを出ないからこそ、真心から何かするにせよ、解釈次第ではあるが、俺は自分の事を「何をするのも身勝手でしかない」と考えている。身勝手でしかないからこそ、人として倫理観というか、最低限の礼儀というか、踏み越えたくない一線を守るために、意識する事があるつもりだ。俺の書いている事は、全て俺の思っている事であって、正しいかどうかは解らない、とでも言い換えられるか)

真の愛や思いやりとは、相互いの気持ちが通じ合ってはじめて成り立つもの、そこに生まれるものだとも思っているよ。

なんにせよ、本当に必要なら、心がそっぽ向いちゃくれない。向き合い続けるしかないんだと思う。
真に相手の事を思おうとするのであればね。

自分の内にある、期待や理想といった認識と、外にある他の現実。
ここに違いがあるという事が解ってこそ、そして真心から思いやろうとすればこそ、他者への尊重が成り立ってくるのかもしれない。

自分を否定する事が相手への尊重に繋がるのか、自分を肯定する事が相手への尊重に繋がるのか、人それぞれ思いはあるのだろうけれど。
人それぞれ思いがあるからこそ、どこにも同じ形の思いやりなんて存在してない訳でな。

少なくとも、親子の関係から鑑みるに、人をコントロールしようとする事と、人が育つ事を見守ろうとする事は、全く異なるという事か。
人は生きてから死ぬまで、いつもその間にある。

だから、俺は自分の確認を出来るだけ怠りたくない。
・・・小瓶を見る
次の20件を見る
2 3 4 5 6 7 28

広告

お知らせ
過去のお知らせ
宛メサポーター募集 宛メで音楽 宛メコラム 宛メのアドバイザー石渡ゆきこ弁護士 宛メのアドバイザーいのうえちかこ(心理士・カウンセラー) 悩み相談ができる相談所を集めたサイト 宛メ本 小瓶に手紙を入れて流す
宛メについて
宛メのこころえ(利用者さんの言葉) お返事のこころえ(利用者さんの言葉) 宛メに参加している人たち(利用者さんの言葉) 宛メとの出会い(利用者さんの言葉) 初めての方 Q&Aヘルプ 宛メ、サポーター募集! 運営委員のご紹介 運営委員ブログ 特定商取引法に基づく表示 お問い合わせ 運営会社
twitter & facebook & instagram
フォローやいいね!すると宛メの情報が届きます。
緊急のお知らせなどもこちらから配信しますので、ぜひ登録をお願いします。
Follow Me