人だ。
間だ。
何を惑っているのか。
自分で自分の心が見えぬ事など良くある。
解っているとも。
ただ、人と間。自と他。
関わりというものに、いつも惑う。
人間とは常に未熟なもので、だがそれこそが良さでもある。
ただ、己の領分というもの。領域というもの。
己を知るに、人間は、領域の重なりあうものだ。
どこに己があるか、解りこそすれ…。
解っている。
解っているからこそ、またそうなるのが不安で、誰にも言い出せないのだろう。
だから一人で考えると、そう決まりにした筈だ。
惑うはそれだ。
これはただの悩みだ。
後も先もない、人を悩ませるだけの種だ。
とある他人とそこが重なる。
さて、あの方は冗談と皮肉めいて言を放った気もするが、見たものは見たもの、それはそれだ。
俺自身の悩みは自身の悩みでしかない。
出来る事はある。
しかし、それは、。
そうだとも、己の何かを信じる他はない。
少なくとも、それしか、今見えるものもない。
疑う。疑う。疑う。
何も、意味もなく不信感を持っている訳ではない。
それが無ければ信じられると?
…いや、それだけではない。
…解っているとも。
堂々巡り、それ以上はただ合わせ、引くに引くだけだと。
出来るのは、不安な事も込みで、今立っている足。
今立っている足場、今ある瞬間の力、その己を信じる事だけだと。
己を信じるに足るものがない。
…これもそうか?
本 当 に そ う か ?
…わからない。
信じるに足るものがないのはそうだ。
だが、それが、覚悟なく堂々巡りを起こそうとしているのか、わからない。
だが、もし堂々巡りだとするのなら、逃げのために何を、求めようとしているのだろうな。
新しい、接し方…。
…それは逃げではないな。
繋がるものもあるが、それはこの話の軸とは関係もない。
置いておこう。
解っているのだ。解ってはいるのだ。
…まあ、そうか、頼る己もなければ、信ずるもの、芯もない。
地に着く足がないのと同じ事だ。
もし本当に、それが逃げではないのならな。
だが、そうだ。
それが自身の逃げだ、とすれば。
その、向き合いたいという気持ちの全てを逃げと断ずれば、それは…。
…それとも、本当に逃げたいだけなのか。
逃げたい気持ちが、茶番劇を作り出そうとしているのか。
解り切った事だ。
どちらもある。
人間の心など、そうシンプルには出来ていない。
己が身の一つ故、シンプルな、単純明快な、出来ると思った事をしようとするまで。
だから、便利な脳は区切ろうとするだけさ。
解っているとも。
それには良さもある。
そこに纏わる、俺が感じてきた全ての悪さが、それを肯定できる。
だが、正直、それを捨てたいとは思えない。
捨てられるとも思えない。
逃げ出したくても、手放す事など出来ない事を、身に染みてわかっているつもりだからだ。
良し悪しはわからない。
この感覚になって、年は立つが、時間自体はそう大したものでもない。
あんたか?
あんたがやったのか?
そうだ、例えあんただろうとあんたじゃなかろうと、あるいは、アイツか、それともあいつか…。
過去は見える。
ただ、どれも不確定だ。
それでもだ。
恨みこそすれ、俺は俺だ。
そんなものは関係がない。
まあ、恐らく、こうなったのはまた別なんだろうがな。
あれは避けたい。
あんなもの、たまったものではない。
あれもそうだ、心情はどうあれ、正直な所、クソくらえだろう。
はあ、まあ、ともかく、良し悪しはまだ解らん。
良しも悪しも見えるように、分別がある程度見えるように戻ってきた、日の浅い今のこの目ではな。
死にはしない。
もう少し様子を見させて頂きたい。
未だ良き火を見れぬままではな。
足の着け場もない。
それとなく解ってはいるのだ。
解っているつもりではあるのだ。
そうだとも、逃げだ。
だが、その中でも俺なりに向き合おうとの心はある。
甘んじているのも解っている。
返そうにも返せぬ、だから、こうなっている事もな。
解り切った事なのだろうな。
そう、解っているつもりではある。
人の心か。
良くも悪くも混ざり物だ。
あんたらには解らんよ。
それでも解らない振りを続けるのなら、そうだろう。
それが気遣いというものなら、そうなのだろう。
己が身よ。
人の心、俺の心の解らなさは、どうかね。
本当に、解っているか?
幼き心よ、解っているか?
我が身の押し留めたさ、度し難い行動性、それらがどうしてこう現れるのか、俺は解っているつもりではある。
お前にも意思はあろう。
その後どうなるか、俺はある程度解っているつもりではある。
その為、念のため聞いておこう。
お前は、俺であっても、自分ではないな。
どの経由かは解らんが、ある程度は察すれる。
人の心よ、人の心未熟なるものよ。
よくある話だ。
お前にも、どうしたらいいのか解らないのか、それとも…
よっぽど俺を害したいかだろうな。
お前も俺も、おそらく中身は空だ。
ただ、今座す根だけは同じだ。
お前や俺は空でも、解るだろう?
ウンザリするほどにな、お前さんそのものを押し留めようとするものの正体が、お前さん自身にも芽生えている事ぐらい。
まあ、それだけだ。
その後は、身体自身の事もある、出来るやつと相談して決めるんだな。
二つの可能性が見える。
どっちに転ぼうと、行く末はある程度解るし、お前は俺の一面でしかない。
詰まる所、そのものが完全に変わらない以上、繋がりが消える事はないのだろうな。
実質的に多分無理だが。
さて、何を返すかだ。
これに置いては解らんな。
全くではないが、問題の規模が大き過ぎる。
正直、身に余るものだろうな。
とはいえ…いや、難しいな、小規模として出来るものもあるとは言え。
おこがましいか。身の程から、出来るものを考えた方がいいかもしれんな。
…足りんなあ。
そして解ってもいる、これに関してを口に出す程野暮な事はないとな。
解っている、それを聞けるものもおらん。
変じて、聞けるものは居るだろうがな、気も乗らん。
無理に通せば、そりゃそうなるだろうとしか思えん。
解り切った事だ。
解り切った事だよ、自分がどこまで解っているつもりなのか、なんて事は。
だが、忘れる事も多い。変わる事も多い。
解り切った事だとも、どこまでを解ったつもりになろうとしているのかという事も。
だが、解るという事を、解り切っていないのは事実だ。
だから、様々な事を解ろうともする。
…これは…、違うな。
解るという体系を上手く言葉に出来る手段や、説明できる例えが見つからないだけだろう。
人に見られるという事を意識すれば、すぐこうなるのだろうな。
誰かに教えたがる。
その表れが小瓶を出す事にも現れているかと思うと、そうではない。
何かというと、悩みを人に出そうとも特に思えず、かといって別に小瓶を流す話題事も思い付かない、そんな自分を寂しく思った故だろう。
まあ、そう思って書いて来た訳でもなく、動機としては単に何となくだ。
確かに考える事やそれとなく理由を付ける事は出来るが、それは幾らでも出来る事だ。
場合によって、俺のこの場合、本心から大きく逸れて掠りもしなければ只のこじ付けや屁理屈となる訳だな。
わざわざ自己分析をひけらかす意味として、自己満足という部分は大いにあるが、それを作っている、満足に内包されているものは、自分の分析がどの程度、どこまでのもので、どのような過程を持って行われているかを知る事にもある。
まあ、半分くらい途中から適当に考えたものでもあるが、自己分析を知る為というのは本当だ。
いや、何、わざわざ人目に触れる可能性があるのだ、人目に触れるとはどのような事なのか、改めて考えてみても良いのではないかと思ってな。
自身の行動から自己分析というものの良さと悪さをある程度書き出してみようと考えたのだ。
とはいえ、考えるというもの、そのものについて思えば、人それぞれ過程、やり方、段階…というか順序、それぞれ違うだろうから、その点についてはあまり意味はないな。
あるとすれば、考えるというのは、良くも悪くも、柔軟にも、堅くもなる事が出来、それによってさらに価値観、自身の持つ概念を強化、修理出来る。
ただ、終着点や、「どんな意味も作る事ができる」事を忘れれば、ただ惑うばかりや、自身の失敗や成功を作る、若しくは感じる事が難しくもなるだろう。
どんな事においても、基本は大事だ。
基本、基礎、即ちそれは、その物事を立たせているもの、読んで字の如く土台となる。
基本に立ち返ろうとする癖というのは、意外と人間にも備わっている。
まるで帰巣本能のようなものがな。
各々には、各々の行く中で得た所の、考える基本のようなものもあるかと思う。
行先を見失った時は、その物事の基本について、考えてみるのも悪くはないかもな。
帰巣本能のようなものと合わせて、立ち直りも早くなる可能性はある。
まあ、もちろんその場合、それによって出た答え、基本という概念が、本当に真に迫ったものなのか、正しいのか、悪いのか、それともどちらとも言えないものなのか、自分で思い込まないのが大事かもしれない。
自分で考えた事は自分で考えた事だ、事実かどうかなんて解らん。
強いて言うなら、解らないものは解らない、自分の基本はそこら辺だろうかね。
それでも、某漫画のように、石になるくらいでなければ、考える事をやめようとは思わないが。
例え間違っていても、行動と共にあれば、直ぐにでも解る事。
ましてや、考える事など最もたる身近なものだろう。
さて、特に思い起こるものも、そろそろ無くなってきたな。
考える事に疲れてきたかもしれん。
自分への信、内に信ずる事の出来るものとは何か、また考えてみようか。
…疲れてきたとは思ったが、自分への信か…。
辞書を引けば、「その事を本当だと思う、疑わずにそうだと思い込む。」
「信用する、信頼する。」
「信仰する。」
…などの意味がある。
ではまず、本当とは?
「偽りや見せ掛けだけでなく、実際にそうである事。そのさま。」
「本物である事、正しい姿である事。」
「本来の筋道である事。元々の状態である事。」
「甚だしい事。心からそう思ったり、感じたりしている気持ちを表す。」
概ね、真、という意味に近い所だろうか。
次に、信用、信頼。
「信用とは、確かなものと信じて受け入れる事。」
「それまでの行為、業績などから、信頼できると判断する事。」
信頼とは、「信じて頼りにする事、頼りに出来ると信じる事。また、その気持ち。」
では、頼るとは?
「頼みとする、つてを求めて近づく。」
「助けとして用いる、依存する。」
では、頼むとは?
「相手にこちらが希望するようにしてくれる事を伝えて願う、依頼する。」
「頼りになるものとしてあてにするり力として頼る。」
「用事や処置を他に委ねる。任せる。」
「何かをして貰うために呼ぶ、注文する。」
「信用する、信頼する。」
…まあ、よくある話だが、辞書を引いても堂々巡りな事は多い。
大体こういう時は、「頼る」であれば、類語の「請う、求める、願う、依頼、委ねる、任せる」等々から意味を探していく。
思う所、それらの複合か、複合に近い意味合いだろう。
最後に、信仰。
「神仏などを信じて崇める事。また、宗教を信じてその教えを自分の拠り所とする事。」
「特定の対象を絶対のものと信じて疑わない事。」
…他の項にもあったような、盲信と被る点の意味は、今持つ信への理解から遠いので置いておくとして。
概ね、事実と違わぬ本当のものだと思う、真実だと思うと言った所か。
要は、表現として、自分自身がそう思っているという事も含めてを、表しているのだろうな。
つまり、それは、自分自身の事を当てはめて考えれば、手放しに自分の思う所の全て、自分の動きの信ずるという体系そのものを、正しいとは思えていないが故、「信ずる事が出来ていない」という状態を信じている事になる。
まあ、そもそもが疑う事に頼っている故、疑う事を信じる…というか、疑う事を一つの支えとして縋っているというのが事実に近いものではなかろうか。
それも信じている事、として認識する事は出来るが、しっくりは来ないな。
某哲学者だったか、かのように、多少疑う事も疑ったものだが、「本当に疑ったか」と言う事を疑う事になって、新たに疑っている事になるだけだ。
正直、疑う事そのものの概念も、はっきりと自分の中で定められていないので、疑っている事の証明にはならなかったが、言葉の体系としては疑う事は疑っても残り続ける。
疑うという言葉には、自身を分解する機能は入っていないようだ。
疑うという事を定義している時点で、疑う事を信じているとでも言い換えられそうではある。
そうして考えていると、自分の今している解釈の信ずるという事は、やはり事実を見て、それを目や思考、解釈を通して事実だと認識しているのだろう事は解る。
自分の能力を信ずるか信じないか、宛にするもしないも、機能しているものは事実として機能しているのだと言う事が解る。
ふむ、それに気付くかどうか、なのだろうか。
あるいは、信ずるという事の意味に、疑わないという事も範囲として含まれる為、除外されてしまっている可能性も思い浮かぶな。
まあ、強いていうなら疑う事も含めて信ずる事の一過程だと思っているので、大して思い悩んでもいない訳だが。
なので、疑ってもいるが、自己分析などをした通り、それなりに解らない事、判然とせず不安な部分もあるが、今あるだけ、機能しているだけは信じている、という事になるか?
そうだとするなら、足の着け所はないが、足の着いている部分はある、という事になるな。
解釈次第と言われれば考え事などそれまでではあるが。
ただ、この状態はそうだ、言ってしまえば不安定なものだ。
あまりに近いものに対しては、よく蔑ろになりがちなものだ。
それと同じかは解らないが、そのように、自然な形で、自分の意識しなくても良い形で、身体に概念を落とし込めば、どういうものだったか意識せずとも良くなるからか、全体像を忘れやすい。
…まあ、その方が楽だろうと思ったからとは言え、こういう基本の見落としもあるものだな。
甘さが気になってきた時は、再び、常日頃から意識してみるのもアリか。
ふむ、新しき。新しきか。
最近は妙に目に付きやすい言葉だ。
マンネリと言えばそうかもしれん。
新しい体系なり、思い浮かぶものは多少あるとは言えど、それはそれ、少し意識する事から始めてみるか。
足元を確認しつつ、何がどうなっているのか、どれが良いと認識できるのか、考え続ける他ない。
今はそれだ。余裕があるとはいえ、切羽詰まってはいるのでね、大きく動く気も乗らん。
その気の概要も詳しく解らん故、下手には動こうとも思えん。
その他の懸念もある。
今は己が身を見る。
それしかしようと、信じようと思えるものも大してない。
見る過程を通して、固まるものもあるかもしれんが、今は様子見だ。
怠惰もある事は承知の上だが、下手に動きたくない。
はは、まあ、自分の勘のようなものを信じられる訳でもないが、完全に宛にしていない、無視できる訳でもない。
繰り返し思い馳せるが、己の内の固まらぬ故なのかもなあ。
だが、せめて自分で選ぶとは思ったものだ、文句ばかりを垂れる時間にしたくはない。
そうだな、せめて、やり過ごせる程にはなってからじゃないと、心許ないだろうな。
立っているかどうか、立ち続けられるかどうか、あるいは、固まり続けられるかどうかというのがまだ怪しく見える以上、最低でもそこを目指すのは大事だろう。
気力がある内はやるさ。
あんたらからすれば、生温い事など解っている。
だが今はこれしかないんだ。
生暖かく見守ってくれ。
…ああ、悪いが別に、宛メの方だとか、隣人だとかに言ってる訳じゃない。
自分の心と、頼れるかもしれない何かへ、だ。
神か仏か?
そうかもしれん、そうであって欲しいとも思うが、俺には解らん。
69736通目の宛名のないメール
小瓶主の返事あり
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お返事が届いています
今更お返事するのもなんですが、読んで、寄り添いのあるお返事をくださって、ありがとう。
考える意味は、俺にはありますよ。
生きるか死ぬかだけの、何の意味もなく過ぎる人生なんてつまらないですから。
(もちろん、意味が溢れて疲れる事もありますが)
全てに意味がないと思う時も良し悪し、全てに意味があると思う時も良し悪し、それぞれそう思う事でメリットとデメリットがありますでしょう。
(そしてその中で揺れ動き、バランスを取る事もある)
お返事を下さったあなたなら解るかと思いますが、あれこれと考えて、意味を付けているのはあくまで主観を持った人間側ですよね。
(だからそういったお返事を書かれたのかと思いまして)
言葉遊びのようになりますが、「意味がある」と思うも、「意味がない」と思うも、結局は同じくして「意味」を付けている、と俺は考えています。
極端な例として言えば、意味がないのなら、考えすらしない、思い浮かびさえしない、みたいな。
(はっきり言って良いくらいに、そんな訳はまずないのですが)
実の所、この小瓶に書いた文章、こればかりは我が事として見逃せない為、真剣に考えた訳でもあります。
それに、寧ろ俺の場合、自己嫌悪どころか考える事が楽しかったりする面もあるので、一種のストレス発散になっているのかもしれんです。
はは、まあ、この件はガクンと気落ちする程のものではなかったので、確か、並みに元気でした。
文章を書いている時の気持ちとしては、普通を少し下回ったり、上がったりを繰り返してた感じでしたかね。
あまり気になさらんで下さい。
難しく考えてしまうのはわかります。
私もよくそれで自己嫌悪になります。
でも、考える意味なんてないんですよ。
結局は生きるか死ぬかなんですから。
全てに意味なんてないんです。
烏羽さんの他の小瓶
価値…、価値か。意味や価値は人の中で産まれる。とりわけ人と人との間で産まれやすく思う。まるで淡水と海水が混じる、汽水域のように、人と人との間には意味が湧き起こる
やっと解った。俺自身が生きている意味も、生きる為の意味も。真剣に考えてから、何年経ったかは解らんし、そこまで興味もない。自分を守るために…その方法を、探していた
これは毒だ。この小瓶に詰めるのは、人によってはかなり辛い毒だ。俺が言えた事じゃないが、自他の区切りが付けられる人以外には、あまり読んで欲しくない
以下はまだお返事がない小瓶です。お返事をしてあげると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。
精神科で処方してもらっている薬を飲み続けて、そのお影で安定していられる。
これって、苦しい時に憧れていた状態だ。不可能だと思われた事が、目の前に広がっている
心穏やかに生きていたい
もう頑張れない
私はどうしたら良い?心臓神経症が再発した。前は勉強する時だけ動悸、過呼吸が止まらなくなって授業を抜けるだけだったけど、今は学校、家のことを考えるだけで発作が起こる
高校生活が辛い。今年から高校生になりました。小学校5年から中学校3年まで毎日一緒にいた子と違う学校になり、友達がいない状態からのスタートになりました。
失恋すらできない。あの子のことが好きだった。でも相手は自分と同じ女の子
【前に、こことは違うところで『死にたいと思わない人は日々どんな風に過ごしているのか?』みたいな質問をしたことがあって……】という小瓶を流したことがあるのですが
自分に素直になることを知らずに育ってきた。いつでも自分の心と向き合うことが出来ず、否定して。いままで会ってきた男性は、私に気づくことなく、そのまま去っていった。
余命後、死の不安やら恐怖やらくるしみやらすこしずつわかつてきた
ごめんなさい。途中からお返事丸ごと止めてました。実は気付くコツみたいなの全然身につかなくて気付けてないないです
愛が痛くて罰が無痛。自分と同じように過ちを犯した人が何年振りかにメディアに取り上げられて「戻ってきてよ」「大好き」ってコメントが寄せられているのを見て心が痛くなってしまう
こころの辛さ。誰からも必要とされない人生に疲れてしまいました。これまで彼氏はできたことありません。友達はいるけど、みんな結婚して子供ができて人生を楽しんでいるように見えます
同性への片思い
今回も恋愛話聴いてください!前の小瓶から登場してる私の好きな人(1つ上の先輩)の話です
18歳の誕生日。誕生日ケーキやプレゼントって、ただ無意味に歳だけを重ねることに対する、ぼんやりとした恐怖や無常感を誤魔化すためのものだったんじゃないかって思う今日この頃