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烏羽 さんの小瓶箱
烏羽
少し頭のネジが外れていますが、私は元気です。
Vtuberはいいぞ…
名前は、解る人に解ればいいという気持ち等から。
伝える事をはなっから諦めてるという意味ではないのであしからず。
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小瓶(15)
お返事(532)
烏羽さんのお返事(532通)
烏羽
俺は葬式が出来るとするなら、会場には悲しい曲じゃなくてロックとかヘビメタを流したいな。
坊さんにも、ロックに合わせてお経を読んでもらったりしてさ。
不謹慎なのかもしれんが、自分の死だしな、死んだ後どうなるかも解らんが、周りの人間のしょぼくれた顔が見たい訳じゃない。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
人への恋愛感情的な好きとなれば、独占欲と言うのか、そういう事もあるかもしれん。
だが、趣味やゲーム、スポーツや、それらに纏わる話題などへ対する好きとなれば、誰かと競争したくなったり、同じ楽しみを分かち合いたかったり、話合いたくなったりするかもしれん。
何が独占欲のようなものと、分かち合える好みとの違いになっているんだろうな。
単純に疑問を感じた。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
(長くなりますので、もし読まれる際は余裕のある時に)
なんとなく、解るというか、重なる部分のあるような、そんな感じがする。
何といえばいいのか…
俺の場合、小瓶主さんの書いた事も解らんでもないんだが、「頑張れ」と言われると、何か、その思いと言うのか、そういう気持ちは有難いんだが、反面それを裏切ったり、背いてしまえなくなるというか、背中をおされているのだと、深刻に捉えてしまってな。
今はそうでもないが、それを重荷というか、重く捉えてしまって、結果的に自分を追い込んでしまったりした事があったからか、何かしら抵抗感があるんだよな。
俺も、何かものを伝える時に不安で、頭の中で会議的な、「これは本当に大丈夫か」「これはダメなんじゃないか」、「どこがダメだと感じるのだ」「これなら大丈夫そうな表現か?」といったやり取りをしてる。
何だろうな、俺みたいに、言葉の重みやら、人との関わりやらを深刻に、重く深く考え過ぎれば、人と関わる事に疲れたりもするし、かといって浅いというか、軽く考え過ぎれば、軽率な言葉として人を傷付けてしまいかねないし、その傷付けたという認識さえないまま、通り過ぎてしまう事もある。
何が良いのか悪いのか、なんとも言えないが、気になるのなら俺としてはそれについてちゃんと考えて、対処なりその後の対応なり、出来そうな事には目星を付けた上で行動したいと思っている。
(しっかり考えてもはっきりとした対応やらが見えてこなかったり、行動してみて上手くいかない時もあるが)
自分の気持ちの整理というか、ケアも込みでな!(忘れる時もあるが)
そういう人達…、言葉はアレだが、軽率な発言ばかりをしてしまう人達が、世の中を悪くしていく…かどうかは、解らん。
深刻に、深く考えるが故に、ネガティブな捉え方というのか、デメリットを主軸にした考え方をする場合はあるし、その考えからなるものの言い方次第では、自分自身の言葉が他の人に悪い影響を与えてしまう事もあるかもしれない。
他にも、軽い思いや考えでも、深刻な思いや考えでも、捉え方というのは人それぞれだ。
例えば俺が、何気なく、誰を傷付けようという訳でもなく、自分の意見として「しいたけ嫌い」と言ったとして、他にしいたけの好きな人は、それだけでショックを受ける場合もあるだろう。
大きなショックを受けて、深刻に考えればこそ、最悪の場合…、流石に極端すぎる話ではあるが、俺の事を恨んで殺そうとしてくる事さえあるかもしれない。
この場合、軽い気持ちで言葉を発しようと、深く考えて言葉を選ぼうと、ショックを受ける人は、関係なく受ける可能性もある。
ただ、大体こういう場合に付き物なのは、「お互いの事をよく知らず、知らないが故に決め付けで物事が進んでいる」というものだろうか。
例えば、俺が他の周りの人から、「私たちはしいたけが好きだ」と言われれば、自分の居場所がないように感じたりする事もあるかもしれない。
だが、よく考えると、そのしいたけが好きな人達は、俺がしいたけを嫌いな事を知らないかもしれないし、悪意がある訳でもないかもしれない。
「悪いが、俺はしいたけが嫌いだ」と言葉を発しても、「まあそういう事もあるよね」と受け入れてくれる可能性もある。
深刻に考える上での話だが、不安な気持ちや焦りなどから、視野が狭まるとでも言えるような、考えの固定から、ちょっとした前提が抜け落ちる事もない訳ではない。
根本的に良くないとされるものを考える上では…、何を根本として、良くないと考えるかにもよる為に上手くは言えんが、基本的に人間関係上の問題なので…
そこから考えると、片方どちらが全てにおいて全面的に悪いと明確に断ぜられるケースは中々ないし、千差万別様々な価値観を持っている人々の中、何が問題の引き金になるかも解らん。
(その時々によって何が問題となるのかバラバラだと思うし、相手にしろ自分にしろ、複数の要素が組み合わさって問題となる場合もあるので、厳密な問題の特定が難しい場合は多い)
ただ、多くの場合フォローが出来ない場面というのも少ないかと思うし、謝るなり、そこから、理解からなる思いやりなり、周りの人が手を差し伸べるなり、気を付けられるというのか、出来る事も多くあるのではないかと思う。
うーん、まあとにかく…
一緒くたというか、全てそれで解決できるようなゴリ押しの言葉として、根性論を推し進めるように、個人への理解や配慮なしに、決め付けて物事を進め過ぎるのは良くないのかもしれんな。
実際、根性というのかなあ…、気分も、精神と言えど、身体の一部なのだから、消耗もするし、限度のようなものもある訳で、「元気出せよ」と言われて元気が出る場合もあるだろうから、その時は良いのだが…
逆に出ない時もあるので、その時にゴリ押しされると更に辛くなるだけだという理解や、現実に目の前で起きている、現状の正しい把握…、もしくは、解らない部分は解らないと認識し、何かしら理由があると決め付けて、下手に押し進めない事などが必要なのかもしれん。
…精神病にも通ずる問題だが、「精神」という認識から、自立神経系バランスが関わる病気で、身体も関わる問題であるにも関わらず、気分でどうにでもなる問題であると認知されて、割と軽視されがちでもあったし、病気としてもかなり診断の難しい、専門知識や技術をそれなりに求められる部類のものらしいので、それを一般的な人が見分けられるかと問えば難しい。
参考になるか解らんが、躁鬱病や統合失調症、不安障害など、気分だけでどうにかなるというのであればそのような病状的診断はされないし、治療する為の区分として病名など存在しない。
そもそも、その「気分」と呼ぶ部分に関しての病なのだから、あれこれと本人がどうにかする事もまた難しい。
…昔の時代を嘆く訳ではないし、昔の時代の流行や傾向によって、プロレスの猪木だとか、某ウルトラマンのレオだとか、色んなものもあっただろう、それによって勇気、元気付けられ、乗り越えて来た方々もいらっしゃっただろうが、時には、気持ちで何とかならない場合もあるのだという認識も大事なのだと思う。
勿論の事、気持ちは大事なものだと思うが、同時に己に関わる身体の内の、大切な一因でもある。
要は、その大切さが抜けてしまった上で、気の持ちようで全て解決できるというような言葉は、場にそぐわなくなってしまう事もあるし、最悪逆効果にもなりうるかもしれないと思う。
どんな言葉でもそうなのだがな、自分の言葉や、相手の言葉が、どんな思いを持って、どんな立場…、どんな背景から、どこへ向かって言葉を発しているのかを省みて、吟味する必要性があるのかもしれん。
そこが伝わっておらず、困ったすれ違い…、誤解が起こったり、誤解から、諍いが起きるなどすれば、改めて説明して見たり、日を跨いだりした後に落ち着いてからもう一度考えてみるなど、が思い付く。
他には、言葉の書き方、伝え方とかもだな。
俺が「しいたけなど嫌いだ、この世から消えてなくなってしまえばいい」と、思う分には自由だが、それを口に出し、しいたけ好きの人がショックを受ければ、「お前はしいたけが嫌いかもしれんが、私は好きなんだ。お前こそこの世から消えてしまえ」といった発言に繋がる事もあるだろう。
だが、「しいたけ好きの人がいるのは解っているが、どうしても好きになれない。この世からしいたけがなくなれば楽に生きられるのに」なんて書いてみると、先ほどのものより、多少は、なんというか、辛いんだな、深刻なんだな、という理解はしやすいだろうしな。
受け手にもよると言えばそうで、そこは幾ら気を付けても起こる時は起きてしまうものなんだが、「しいたけが嫌いで、辛い」という思いを言葉に込める際、あまりにも過激な言葉で表現すると、他の人に飛び火しやすい事はあると思う。
そういった点から、自分の気持ちを伝えたい時には、暴言になってしまったり、罵倒になってしまったりという部分には気を遣った方がいいのかもしれん。
また、「しいたけが嫌い」という事を示す時、しいたけの「何が嫌いなのか」という部分が省かれていると、どうしても説明したくないなら問題はないが、誤解を招きやすいだろうしな。
受け手側もその点、決め付けて物事、会話などを進めないよう「何が嫌いなのか見えていない」という事を理解しておく必要があると思う。
(因みに俺はしいたけの匂いと食感がダメだ。焼き椎茸などにしたり、鼻をつまんで食べても見たが、申し訳ない事に吐いてしまった。ほんの少量なら食べられるようにはなったが…、吐き気がその都度止まらなくなるので、進んで食べたいとは思えない。食える方々はすげえよ…)
今思い浮かぶのはこんな感じかね。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
救えるか救えないのか、俺にはいまだに解らん。
人間不信だからなのか、誰かに言葉を投げかけた所で、救えている実感はないし、いつ誰がどう傷付いてしまうんじゃないかとビクビクしている。
その人が立って、どこかへ向かう気力のきっかけにはなるかもしれんが、それ以上のものにはなれないと思っているし、返答があろうとなかろうと、自分に気を遣って、無理に体のいい言葉を流してくださっているんじゃないかなどと、気になる事が多く出て、穏やかでもいられない。
宛メに限った事ではなくてな。
人を救おうと、何かの助けになろうとするのは、大変な事だと思う。
俺であれば文字通り、神経をすり減らすような事になってたりとな。
神経をすり減らし切ったような時…、疲れて気分も落ち込んでる時は、大体考えもまとまらないし、集中もできないし、ミスも多くなるし、そういった自分の感覚が解ってイライラしたり、それが積み重なったりで、上手くいかなくなりやすくもなる。
そういう時は…、書いている俺も現時点で疲れているのかもしれんが、ちゃんと休めよ。
誰ぞ何ぞがきっかけになろうとも、自分の体を休められるのは、自分自身しか居らんのだから。
録画見るなり、買ってあるならゲームや読みたい漫画見るなり、コスプレしてみるなりとな。
動物の動画を見るとか、音楽聞くとか、空とかの景色をぼーっと眺めてみるとか、そういうのも割と落ち着くかもしれん。
疲れてる時は、あまり深刻に考えすぎないようにというのか、考える事に関しても緩めてやって、ゆっくり出来る時間を取るのがいいと思う。
人間死ぬ時は、寿命なり事故なり病気なり、何かしらで死ぬだろうがね。
小瓶主さんも解っているだろうなので、あまり言われたくはないかもしれんが、いつ死ぬにしたって、小瓶主さんが救ってきたかもしれない、あるいは何か良いきっかけになれたかもしれない人々は悲しむんじゃないだろうか。
まあ、人を救いたい、助けたいんだろ。
その思いがどこまでのものなのか、死ぬまでの自分自身を試してみるというのも良いかもしれんな。
ただ、何をするにも、生きている上。
生きている内での事、生ある自分あってのものだというのは、忘れないでくれよ。
死後の事など解らんが、死んでから助けたくなっても遅いかもしれんからな。
元気な時、余裕のある時にできりゃあいいんだ。
義務感に駆られても、その行動で救われる人もいるかもしれんが、何より自分自身が苦しくなったりもする。
それが自殺に繋がっては、元も子もないだろう。
無理したとしても、無理しすぎて、それが無茶にならないようにな。
許容量というか、ある程度の、気力的な限界というものはあるだろうなので、その上で、頑張ってください。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
心理検査の紙を見た、小瓶主さんの姉さんが、「だから君、絵下手なのか」といっても、その言葉のみを見た所で、何が「だから」なのかという説明には一切なっていないし、悪意があろうとなかろうと、それを口に出された所で、単なる嫌味にしか聞こえない。
…一応、心理検査の紙を見て、姉さんのよく解らん理解の仕方から、「だから」と勝手に納得された、という推測は立てられるが、「絵に対しての具体的な評価」にはなっていないので、どう考えてもその「だから」という言葉を起点にして、向上点を考える事は難しいように思う。
あと、そういった事と同じく…、どこから「罪の意識」的な、その言葉を聞いたのかは解らんが、言葉というのも、適した状況や、その言葉を発した当人の思う事が見えて来なければ、単なる言葉でしかなく、こちらからその言葉の意味を探る他の事は出来ない。
(格言や座右の銘と呼ばれるものもそうだ)
勝手察するに、その罪の意識などという概念に関する言葉は、自分自身を責めてしまう時、自身に「罪」があるという認識から、存在そのものを否定しないようにしようという認識のあり方を示したもの…
いわばその当人が「こうした方がいいと思う」という言葉を、状況に合わせて発したものではないだろうか。
であれば、適さないと思われる、この状況に対して、その言葉を意識しても仕方がない。
この小瓶に書いた内容の場合、絵を描くなどの行動が悪かったのではなくて、単に姉さんの言い方に、非があったように思えるのだが…
その場合、小瓶主さんには特に非もないので、どこにも出口などなく、最初から入り口などもなく、堂々巡りを起こしているのではないかと邪推するが、如何だろうか。
姉さんが勝手に出来上がった絵を見ようとしてくるのは防ぎようがないというか、隠すしかないだろうし、隠した所で強引に見ようとされれば見つかる事もあるだろうが…
表現した上で誰にも見せようとしないという事は出来る。
自信が出てきて、誰かに見せたい、評価を貰いたいと思うのなら出してみてもいいだろうし、もしもその時があるとすれば、「どこが」上手いとか、下手に感じるとか、そこを聞く事ができれば、更なる向上に繋がるかもしれんな。
ただ、自分の絵を見て、どこをどうしたかったが上手くいかなかったとか、ここは思いの外上手くいったとか、そういった事が解るのであれば、それに基づいて向上点を意識する事も出来る。
自分の絵と向き合う事が出来るのなら、それもまた一つの手だよな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
詳しくは解らんが、愛とは一つの見え方、形のみを持つものではないと思う。
小瓶主さんのそれも愛なのだろうが、それが愛の全てでは無いというかな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
魂とか、霊とか神とかの実在については、考えない訳ではないが、考えた上で未だよく解らん。
個人的に、信じていない訳ではないし、かといって完全に信じているという訳でもないな。
小瓶主さんが信じられないなら別に無理して思いを変える必要性もないと思うが…、興味があるというのなら、一人の、一つの意見として聞いてくれると助かる。
(長くなるので、もし読まれる時は余裕のある時に読んで頂ければ)
そうそう、脳は心臓が止まった後もある程度活動しているそうだよ。
臨死体験をした方が言うには、死んでいる自分の様子が見えたり、周りが泣いていたりする様子が見えていて、生き返った…というのか、意識が戻った後、家族とかに、死んでた時こういうアクセサリー付けてたよねとか話して、それが合っていたなんて事もあるそうな。
で、極端な話、本当かは解らんが、霊安室だったか、霊安室から出されて火葬される前だったか、目覚めた海外の男性なんて話もあったような。
身体にまつわる話だと、臓器だとか、骨だとかにも、記憶している部分があるそうで、脳だけでなくそれらも、思い出せる記憶と関わっているらしい。
(臓器移植で性格が変わったとか、記憶が〜とか、そんなケースもあったような気がする)
また、不思議な話、死んだ人の記憶を持つというか、生まれ変わりなのかよく解らんが、そういった事例も幾つかあるそうな。
あと、マリア様の処女懐妊については、科学的に100%無いとは言えないらしいな。
受精しなくても、細胞分裂というのか、無性生殖というのか、そういう事例は人間においても否定できないらしい。
(キリストのDNAを調べたとかなんかのテレビか記事で見たような)
キリスト復活に関しては、貼り付けにされたキリストは影武者説とか、色々あるね。
勿論作り話の可能性もあるけど、検証も難しいっぽく、説の域を出ないみたいよ。
まあ、高度な技術や文明は魔術と変わらんとも言うし、オカルト的な観点から、それを肯定すれば、高次元の存在がいてもおかしくないと考えられるようだしな。
個人的に霊というか…、意識の塊のようなものも、物質なのかなんなのか、何かしら存在していて、あちらこちらにあるけれど、人間の目、身体の仕組みとして見えなかったり、脳の処理として感じられていない、雑音のようなものとして排除されているだけなんじゃないかって気もする。
(物理的に見れば、多分意識とは電気的な信号や、伝達物質の流れやら、それらを送受信する器官同士の関わりの処理やら、そういう、複合的なものから生まれているんじゃないかと思ったりするので、それらの「流れの余波」などが、物理的な体の外に出たりする可能性はあるような気がする。…かめはめ波とか、そういう事ではないが)
かといって、足がないというか、そのままの人間の形や、声を持っているのか?
意識を持っているのかと思えば、何だか違うような気もする。
それを形作っているのは見る者の脳というか、生物的な、物理的に存在する身体の仕組みとしての、認識、感覚というかね。
(なので、霊感のある人で、実際見えるらしい人でも、それぞれ見えたり、感じる、霊の居る場所や種類が違ったり、同じ霊だとしても、姿形が違うらしい。本当かどうかは知らん)
また別の話、科学現象といえば納得はできるんだが、俺の部屋でたまにラップ音がするんだよな。
どうにも俺自身の声やら思いやらに呼応しているような気もするし(うるさいと思ったり、口に出すと静まったり、逆に余計にうるさくなったりする)、もしかすると俺自身の認識だけが関わっているのかと思えば、音は音として、他の人にもちゃんと聞こえているようだしな。
(人間は脳の発達故か、それとも他の動物もあり得るのか解らんが、見た景色や、音や匂い、触感など、様々な体験した事を擬似的に、いわばバーチャル的に再現出来るので、不意に誰もいないのに視線や声を感じたりという事はあり得る…が、それが己が持つバーチャル的な感覚から来るものなのか、霊的なものなのかの判断は難しい場合も多い)
これが霊なのかどうかと問われるとよく解らんし、家の隙間から屋根裏などに入り込んだネズミなどという可能性や、本当に偶然、気圧や温度変化により、家の木材が軋んでいるという可能性もある。
それに合わせ、俺自身霊など見えるような体質ではないのでなんとも言えんが。
他にも不思議な事と、割かし人生の中で遭遇してきているので、一概に切って捨てられないというか、不思議な事はあるような気がしている。
…というか、不思議な事が存在しなければ、科学なんて、存在も発展もしなかっただろうしな。
ただ、現実的な観点からすると、テレビで取り上げられるようなものは大体バラエティでしかなかったり、単なる、何の事故もない廃屋に尾ひれを付けた、でまかせだったりする事も多い。
バラエティショーという観点、話題性や余興性という点から見れば無粋な話ではあるのだが、鵜呑みにはしない方がいいだろうな。
そもそも、霊があるとすれば、人に直接害をもたらしたり、実体が見える程のような強力な霊なんて、そうそういるようなものでもないらしい。
そういうものがポンポン取り上げられる程あるのかというと、多分そうではないだろうし。
寧ろ、そんな強力な霊をテレビに出すとすれば、被害がどうなるかも解らん。
(どこまでの影響を及ぼし得るものなのかも解らんので、なんとも言えんが)
その辺は、解った上でやってるんじゃないかと思うがね。
まあ、とにかく、人間の目で見たものや感じたもの、そこからなる認識、科学的に立証されたものが、現実の全てではない事は確かだな。
「神」というものだって、今のキリスト感というか、聖書からすれば、全知全能かつ傲慢とも取れるような存在にも思えるが、果たして聖書に書かれる前や、そのもっと前の「神」というものが、どういうものだったのだろうかというのはそれぞれ異なるだろう。
(聖書をよく読めば解るかと思うが、他の文明の神を「悪魔」としているので、キリスト教の元となった宗教及び教義を持つ人々は排斥感が強かったか、何かしらの国や団体と対立関係にあったか、便宜上「悪魔」という概念を利用した可能性もある)
もし神のような存在がいるとしても、あくまで宗教観からなる「神」であり、現実的には、人間に絶対的な都合の良い神ではないのかもしれんというのもある。
(日本では、神やその種類として荒神などもおり、様々な分野を司る、あるいは分野に座す、八百万の神々があるという点で、人に都合の良い神もいるかと思うが、そうでない神…例えば、昔流行った病魔の神とされるものもいる)
「霊」も同じくして、テレビや世間一般、オカルト界隈、色んな方面からの脚色やら、個人的観点やらが合わさったり、伝言ゲームのように本質からズレていったりと、そういう場合もある。
何を「神」や「霊」としてきたのか、という部分もあるし、昔の認識、概念から、良くも悪くも、時を経て、出来た当初のものから、変わってしまったという場合もあるだろう。
日本の時代を遡れば、もしかすると「ありがたさ」や、「畏敬」そのものを表す言葉が「神」という表現だった可能性すらある。
いわば、人のような、生き物のような存在ではなく、単なる言葉の表現だったという可能性だな。
(これも専門知識がある訳でもないので、詳しく解らんが)
「霊」は多分その類で、詳しくは知らないが、元々は「人間の霊」を指すものではなく、「目に見えない力の働きの中で、畏怖される分類」…のようなものを表す表現だったらしい。
(言霊とか、そういった言葉を聞いた事はないだろうか)
なので、そもそも古代的な「神」「霊」とする認識と、現代的なそれらへの認識が違うという場合もあるので、そういった点から現代的な「神」や「霊」とされる認識が作りものである、脚色されたものであるという可能性は高い。
(「言葉の意味」というのは使われる時代の人間にも合わせて変わって行くものでもあるが、それが脚色や、皮肉、言外の意味から転じたものの中、新たな意味として使われて定着したものも多い。「さようなら」とか、「微妙」とか)
海外のキリスト教については、キリストを一人の、現代的な日本感でいう神(…の内の人間の救世主)として、心の支えとしようと言った宗教、教えであろうなので、また日本とは微妙に違った、海外の認識からなる「神」、「救世主」といったものであり、またキリストの聖書となった、元の文章にしても、割と改訂やら改竄やら、歴史の中であって、現在の聖書になってるっぽい。
ただ、聖遺物とされるものやら、鞭打たれた時に着いた血が染み付いたと考えられる、当時キリストの来ていたとされる服などは残っているので、キリストか、キリストとされるような人物はいた可能性が高いとされている。
(何千年ともなると、血であれば尚の事、遺体の痕跡からDNAを正確に読み取る事が劣化というか、損傷により難しい場合が多いため、キリストの血かどうかは断定できないらしいが)
存在の証明なのか、熱心な教徒が、愛を持って何か成そうとしたのか、よくは解らんが、日本のどこかにもキリストとされるものの墓があったりとな。
まあ、今思うのはそんな所かね。
霊に関しては、どうせ死ぬ時になれば、真実など解ってくるだろうさ。
…また別の話、死期になると、何故か身の回りの整理をし始めたり、急に性格からは考えられないような事をしだしたり、実際に影というか、その人の存在感が薄くなって、周りの人からはそこに居るのに認識されずらくなるように感じたりとか、色々あるらしいがねえ。
もし真実を知りたい気持ちがあるのなら、自分の意見も一つの意見として、噂は噂、その当時の個人が思ったまた別の、一つの意見として、話半分に聞いておくのが良いのかもしれんな。
(俺の書いた事の全てもそうだが)
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
どこかと比較して軽かろうが、よくある話だろうが、そんなのは関係ないよ。
小瓶主さんご自身の人生の話なんだから。
文章から察するに、とても苦しい経験をしてきたであろう事が伝わってきた。
甘い人生だとは、微塵も思えない。
小瓶主さんではない、当事者ではない俺が、感じて来られたであろう辛さ、苦しみ、重みを詳しく解る訳でもない。
でも、所詮赤の他人の言葉、気持ちではあるが、大分ましになったと、文面からだけでもそう読めて、本当に良かったと思う。
俺自身の話、もう今は良くなったと思うが、抑うつと診断された事もあり(あまり良くない事だが、通院しなくなってしまったので病状の確定まで行かなかった)、心というか、精神と身体との兼ね合いから来る辛さ、難しさは、自分の経験した程度だけでも解るつもりだし、経験と文面から合わせて、非常に辛かったのではないかとも感じる。
どこから目線なんだとも思うし、文にすれば薄っぺらく感じるかもしれんが、よくここまで来た、よく頑張ってきた、今まで小瓶主さんがやってきた事は、凄い事なんだと思った。
許しなんていらない。
許しなんてあってもなくても、小瓶主さんには、様々に思う事、考える事が出来るし、出来ている。
自分の肯定感と言うのか、不安なのは解るし、主さんの求めている言葉ではないのかもしれんが…
「許す」と伝えるより、「愛してほしい、愛したい、安心したい」という気持ちを持った主さんを、応援したい。
そういう気持ちを、誰に言われるだとか、許されるとかじゃなく、小瓶主さんと、ご自身にとって明るいような、その湧き出た思いを、応援というのか、肯定したい。
上手く言葉にならなくてすまんな。
それと、主さんご自身の人生の振り返りを、ここに出そうとした事、文章から感じる事なのだが、あなたがここまで生きてきた分、自分自身を歩こうとしてきた分の愛は、絶対にある。
もしかすると、ご自身、ここへこの小瓶を出す事に、多少なりとも戸惑いというか、抵抗感はあったかもしれない。
だけど、それによってご自身を責める事があったとしても、ご自身の力で、自分自身を守る力もあったからこそ、今のあなたが在るのではないかと思う。
今までの事から、ご自身を責めてしまうような癖というか…、自分自身を辛い中、それでも背中を押し、引っ張るようにしなければ、耐えきれなかった事が多くあったのかもしれない。
それが今も、多少なりとも残っているというのは仕方がない。
言われるまでもないお節介かもしれないが、自分を責めてしまっても、責めてしまう事も致し方なかったのだと、それだけ大きな事だったのだと、俺は思う。
(主さんより程度は低かったり、そもそも状況が違って比べられないかもしれんが、俺自身も自分を責める事や、それ故に自傷に走る事もよくあったので、自分自身に対してもそういう心持ちでいようと言い聞かせつつ書いている)
安らげる、心穏やかに過ごせる時間が少しでも多くなると良いな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
「生きていかなければ」
お節介かもしれんが、自分自身に対しての、「〜しなければならない」という思いは、義務感を呼ぶ。
義務感に追われるような気持ちになると、辛くもなってくるのでな。
そこは「死にたい」というものと同じで、それが「死ななければならない」という思いに変われば余計に辛くなるかもしれん。
でも、今の小瓶主さんは、死にたい思いがあるとしても、「それでも未練なく、心の底から何かを楽しめる事が出来たら嬉しい」「難しく感じる事はあってもそうでありたい」
そういった感覚があるなら、それを肯定してやってみたらどうだろうか。
自分自身の気持ちというのは、意外とそういった認識も関わってきたりしてる気がする。
なんにせよ、疲れた時は、ゆっくり休んで欲しい。
小瓶主さんご自身の事だ、無理はしてもいいだろうが、無茶にはなさらぬよう。
でも、まあ、未練は、ある程度あった方がいいかもしれんな。
未練とは、諦められない気持ちだ。
時にそれは、物事へ打ち込む熱意にも繋がる。
俺には大した未練もなく、夢もやりたい事も諦め続け、何度か自殺未遂もしたが、寧ろ未練が薄かったからそうなったのかもしれんと、今思ったよ。
未練が薄ければ、恐らく大した執着もなく、あるいは大きな執着を抱こうとも、何事も簡単に諦めがつく。
本当にそれが良い事なのかと問えば、俺には解らない。
良い事もあるかもしれんが、悪い事もあるかもしれん。
長所と短所は紙一重とも言われるが、そのように、人のその時の気持ちからなる、ポジティブだとかネガティブだとかの視点や、何が結果として起こったかという場合にもよるのだろう。
とにかく、心安まる時間が少しでもあるといいな。
好きな音楽聞くとか、漫画なりアニメなり動画なり見るとかもいいと思う。
外の景色とか、アパートとかでなければ家の庭を見てみるとか、時間があれば近所周り散歩してみるとかもいいかもしれん。
あとは個人的に、物事を深刻に悩んだり、嫌な気分になっていたりする時、少し眠るとスッキリする事もあるな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
男性も似たような所があるかもしれん。
男の立場から話すと、化粧とかではないが(俺はしないので)、鼻毛やらヒゲやら髪やら整えないと不潔だとか言われるし、スネ毛やら脇毛やらもある程度処理しておかないと抜け落ちる事もあって、自身でも不快になってしまうしな。
人との付き合いにおいて、そういった清潔感は各々の程度で、気になってしまうものなのかもしれん。
まあ、毛の濃くなる程度などと同じく、体臭の強さやら匂いやらも人による上、ナイーブな話題でもあるのが周知的なので…
人と関わる上では、気にしてる奴は気にしてるし、気にしてない奴は気にしてない、気にしてもしなくても、それを口に出して伝えるかどうかもまた別、と言った感じだろうか。
女性ならどうこうという価値観ではなく、相手の意見なども含めた上で、自分がどうしたいかを優先できれば良いんだがな。
つまるところ、何のために化粧をするのか、どこに各々自身の感じる必要性があるのか、という所だ。
誰かの中で、女性は化粧をするのがマナーだと考えているならそうなのだろうが、礼儀作法において、化粧をする事で回避できる問題が、もしも化粧をしなくとも回避できるというのなら、必要があるのか疑問が湧いても来るだろうし。
また、人との関わりのみならず、化粧にしろファッションにしろ、自分自身が興味や楽しさを持ってやっている、それらを元にやり始めるのであれば、それも必要性を感じての事に含まれるのだろう。
(人に言われたから、とりあえずやるとかのレベルでも同じく)
「〇〇らしさ」、「こうあって然るべき」というのは、「こうするのが理想的」、「こうした方が良い」、といった、とある視点から見た一つの感覚で、本来的には個人から生まれた感覚だと思う。
それが、他の周りにとっても良いものだと、肯定的に理解され、広まれば、女性や男性、人間そのものの規範、ある程度守った方がいいと考えられるルール、マナー、一般的な概念、他には、それぞれ個人においての楽しみ方、興味の持ち方などへ繋がっていく訳だ。
ただ、その個人が当時持った「こうした方がいい」という感覚…
それが抜けた上で、女性らしさや男性らしさ、人としての関係、それに基づくマナーなどは出来ない訳で、その場合は要するに、形だけのものとなってしまう。
逆に考えると、その形だけの、地に足のついた部分、元が抜け落ちた行動から生まれた「性別らしさ」や、そこからなるマナーは、果たして、地に足のついた「性別らしさ」や、その場に適した礼儀作法を為していると言えるのだろうか…?
なんにせよ、何故行うのか、何故必要性を感じるのか、個人的にどこを気にしているのか…
そこら辺が見えてこないと、「こうあるべき」とか、「〇〇を理想とする」的な価値観を、俺は易々と受け入れる気にはなってこれないな。
(何故理想とされているのかが解らない為、自分の気にする事柄へ対処しようとした時、その場に適切な理想なのかも判断できないから。…そこの説明があったとしても、しっかり吟味する必要はあるが)
「〇性ならこうあるべき」と同じく、もしも「一般的」と主張されても、実際「一般的」というのは「大衆的」、「大多数的」という結果を示すだけのものであって、中身の説明や、個人の感じる正しさ、必要性、感覚などの説明にはなっていないし。
その、個人の感覚や意見、思いの見えない会話ってのは、結構不毛な結果に終わる事が多いんじゃないかと経験上思ったりする。
小瓶を読んで感じた所の「面倒くささ」というのは、そういう所から来てるような気がせんでもない。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
内容とは全く関係ない事だが、この小瓶の文字数がお返事で乗らないとするなら、俺は一体どうなっていると言うんだ…
(多分、多い場合この小瓶の三倍以上の文字量を打ち込んでいる気がする)
もしかして、インターネットに接続する端末って、なんかしら文字数に関係ある?
スマホ(iPhone)では確認できないのだけれど。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
くそッッ
カエル好きの俺を騙したなッ!!
カエルくんを返せ!
…ん?カエルくんがかえってくる?
カエルくんがかえる?
カエルくんはかえるの筈だろう?
当たり前じゃないか!
カエルくんなんてどこにもいない!(洗脳済み)
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
解る。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
まあ、なんとも。
横沢さんがやっている事に意味を感じるのであれば、それは意味を感じる事なんじゃない?
「他人を助ける前に」云々を考え始めるとな…
父方の親御さんだって、ネット関係に詳しいのであれば、個人情報の吸い上げには、ある程度の条件やそれに基づく限りがある事、そんな声を大にしなくても、小瓶主さんにも考える頭がある事、それぐらい理解できるだろうさ。
誰だって、向上心やら、不安やら、懸念する所、想像する所があれば、誰にだってダメな所、非は生まれる。
問題なのは、自分自身に余裕がない時、自分自身の事で手一杯な時、そういった時には些細なミスを起こしやすかったり、集中力が途切れがちだったりするので、それらの複合として大きなミスに繋がりやすい事かね。
しっかり休んだり、そう言う事が気になる程ある訳ではないのなら、別に構わないんじゃないかと思う。
まあ、ただ、親御さんの感覚というか、実際にどうかは知らんが、昔あったような「2ちゃんねる」や、悪質な個人経営ブログ、サイトといったものがなかった訳ではないし、今でも、悪質な広告や、スパムメールなどの存在はある。
そういった悪い情報への懸念、危険なものだ、悪いものだ、という思いが先行して、ショックからか、親の立場から守りたい子供に対して、危険がすぐ側にあるのではないか、もう取り返しのつかない事が起こっているんじゃないかという焦りからか、余裕のなさからか、自分の悪いイメージがすぐそこで起こっていると言った前提で話を進めてしまったのかもしれんな。
(また、多かれすくなかれ、そういう親世代もインターネットを利用していた筈なのに、こう言う話になると大体子供を怒鳴りつけるばかりで、本質的な危険についてあまり説明が少ない傾向にあるというのもあるらしい)
親としては守りたい気持ちで一杯なのかもしれないが、実際主さんがこうなっている所を見るに、現状逆効果だろうしなあ。
横沢さんの正直な、素直な気持ち、どうなのかも解らんが、親をちょっとだけ汲んでやって、「心配しているのはわかるし、SNSに対しての認識が軽率なのもわかったが、自分で考える頭もそれなりにある」という事など、ご自身の気持ちやら、思う所を伝えられたら…
どうなるのかも解らんが、現状それぐらいしか思い付かんなあ。
まあ、家庭での人間関係なんて様々よ。
無礼を承知で、親も、単なる人として見たとき、人格や行動は完璧なんかじゃない事はあるだろうし、苦悩する一人の人間なのよ。
で、俺も宛メというか、そういったSNSをやっていた中、話の流れでそれがチラつく事があった。
そこで親からの理解のなさを感じた事はあるが、まあ、ショックだわな。
小瓶を流したかどうか忘れたが、当時それについて悩んでいたような小瓶か、返事の内容を書いていた記憶がある。
人間関係、それも家族間においての問題となると、親と子のどちらにも、その諍いの元になったという視点からの要素というか、原因がある場合も多いので、事細かな事は言えないが…
親と子という社会的な立場以前の、同じ人間としての関わり方の問題かもな。
あまり他所の親御さんの事に口を出すのも、自分でもどうかとは思うが、何か危険がある、それを知らしめる事として、反射的に怒鳴ったりしてしまったのかもしれん。
それでも、流石に齢20の境ともなれば、ある程度物事の判別くらい付くだろうし、高圧的と言うか、圧力的に、もしくは皮肉って、わざわざ貶めるような言い方をしなくても理解できるだろう。
それも大の大人が寄ってたかってだ。
感情的になってしまう、それ程大きな事だったのだろうと酌量はできるが、数時間もすればある程度冷静に、客観的にもなってくるだろうにな。
仕事があれば上司やら部下やら管理職やら、色々な立場から揉め事などをそれなりに経験している筈で、ただ怒鳴り罵る言葉を素直に聞き入れたいと思えるかどうか、子を本当に守りたいと、心底から考えればよく解るだろうに。
(あれこれ言ったが、人間皆学びの途中であるとも思うので、言葉通り以上の情感も湧かない)
ただ、俺にも言えるが、どんなに気を付けていても悪い事と言うのか、人間関係での良くない事が起こる時はある。
本当に些細で、誰に非がなくても、ちょっとした認識のズレなどから起こる事もある。
3歳だろうと19だろうと、25だろうと、30だろうと50だろうと、幾ら隠そうとしてもバレる事もある。
思い通りにいかない事なんて、年に関わらず山のように溢れかえっているだろうさ。
主さんがだらしないとすれば、俺なんてもっとだ。宛メを利用してる事が親どころか兄弟、親族にまでバレてやがる。
この広がり方は誰かが教えたとしか考えられないし、俺も含めて、杜撰でデリカシーのない家族だよ、まったく。
(そういうのやら、あまり口に出したくない事もあったので、絶対に信用しない事にした)
対処する努力などを怠っていいという訳ではないが、場合によっては、誰に非があるとか、そう言った事は明確に知る事が出来ないし、責任を問う事も難しい事がある。
なので、一概に自分が絶対的に悪いものだと、ご自身を責め過ぎるな。
責めて責めて、もし昔の俺のように、何もできないと思い込んで、行動もしない状態になればそれこそ愚か者だと思う。
出来れば、余裕のある、元気な時、気が向いた時にでも、自分を責めるより、思い浮かぶ範囲で何がいけなかったか、どうすれば状況が良くなりそうなのか、という事を考えてくれ。
その時考えても答えが出なかったり、解らなければそれでもいい。また時が経った時に考えればいいからな。
後悔も、責めるのもしょうがない、反省する為には大事な事かもしれんが、ご自身を責める事で、動けなくなってしまっては元も子もない。
自分勝手な、個人的な感情なので、所詮他人事ではあるが、それは昔の自分を見るようで辛くもある。
横沢さんのこの小瓶や返事やらをチラホラみた限りでは、特に気分を害されたと感じるものはなかったので、誤解なきよう。
資格だのなんだのご自身である程度解っておられるかと思うが、そんなもん必要ない。
もしもあるとすれば、人としての節度や思いやりかと思うが、今までからして、横沢さんにもそれなりにあるのだろうと感じるしな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
そうだなあ、確かに人と別れにくくはなったかもしれんが、それでも某LINEなどのSNSで、連絡先を知っていても疎遠な人はいるしな。
疎遠であっても、連絡先が分かっているから、たまに連絡を取り合ったり、そこから遊びに行くなんて事もあるし。
逆にSNSなどの連絡先が特になくても、あいつ今どうしてるかなあと、気になる人は気になる。
まあ、物理的に別れた後も、時が経てば関係性も変わるだろうが、出会った以上人間関係は続いていると考える事も出来るしなあ。
どこで別れとするか、出会ってからどこまでを関わりと捉えるか、そういった認識にもよるんじゃないか。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
知ってもあまり得しないけれど、人間や生き物は、皮膚でも周りの色を認識しているらしい。
また、自分の体験だが、凄く疲れて、今にも眠りそうって時に、目を瞑ってでも起きていると、なぜか部屋の周りの景色…、家具や寝具がどこにあるかと言うのが…、目に入るものより鮮明ではなかったが、とてもぼやけた映像として見えて、どこに何があるか理解できるものだった。
そこから、ベッドへと吸い込まれるように体が動いて、入った事を思い出した頃には寝ていたと言う、説明してみても変な現象があった。
もしやあれか、幽体離脱的な何かだったんだろうか。
記憶が確かなら、確かに目を瞑っていたと思うのだが…。
それにしても裸眼はいいよな。
何より、メガネのフレームやレンズの境界が映り込まない。
コンタクトも、どうも目のゴワつきというのかが拭いきれないので、あまり好きじゃない。
俺も裸眼でいたいので、瞳孔周り?か、水晶体を調節する筋肉がなんとかならないものかと、トレーニングじみた事をやったりするが、効果があるのかもよく解らないな。
あと、筋肉や細胞的、水分的な関係から目は疲れて消耗するので、休ませたり、瞬きによって目が過度に乾かないように、気が向いた時気を付けている。
適度な水分、湿気がある事によって、目の細胞が酸素を吸収できるので、それが視力にも関わっているらしい。
趣味か…。
五感を失ったとしても、ぼーっとする事と考える事が残るな…。
だけど、考えるという事は、感じるものから繋がる事も多いので、五感を失った上での考えると言う事は果たして本当に「考える」という区分なのかどうか…。
また、ぼーっとすると言うことも、ぼーっとしてない、考えている時の状態あって生まれるものなので、どうなのだろうな…。
まあ、五感を失いたくないのは確かだ。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
(もしかすると、意味が伝わるがために、この文章も小瓶主さんの心を抉ってしまうかもしれませんので、もしも読まれる事があるのであれば、ご注意を。あと、とても長くなったので、その点も予めご了承ください)
解る。
なんというか、言っちゃあ悪いがアホくさいんだよな。
満腹な人間は満腹だし、腹の減っている人間は腹が減っている。
食料が大切なものという認識は肝心だが、食料問題のある国や地域の問題を、食料供給の充実した中の人間の内、これ以上食べたら吐きそうって人に推し進めて、無理やり食べさせるが如きアホくささだ。
上も下も、そんなもんは比較的なものであって、どこを上とするか、どこを下とするかによって幾らでも変わりうるのに、勝手に最底辺を決めて、今ある現状を最上とするのもおかしな話。
人間の食料問題がと言うのなら、そこらで餓死する虫や野生の動物たちはどうなるというのか。
また、野生動物たちの中にも、ストレスからものを食べなくなってしまう、つまり食欲がなくなってしまう事さえある。
その他にも、生物としての食べ物の処理限界というか、人間として、アレルギーのある場合もある。
全体的な構図を知るのも確かに大事な事だし、満たされていない場所から見れば、満たされている場所は有難い事だというものから、当たり前だと思う事が実はそうではないと言う認識も大切な事だと思う。
だが、満たされている場所から見た、満たされていない場所という認識も、ほんの少し間違えば傲慢なものの見方になりかねない。
(助けるとか救うとかの言葉にも若干感じる事だが、俺はそういった所から、比べる事への失礼さを感じる)
その上、どのように満たされていようがいまいが、それぞれ抱えているものや、問題とされているものは異なるので、「あっちは貧しいけどこっちは裕福なんだ、食べ物は残しちゃいけない」と一辺倒に言われても、立場も違う、あちらの世界ではなく、いまここにある現状のなんの解決にもならないし、最悪ただただ的外れな言葉になってしまう。
教育として教えなければならないのは、もののあり方ではなく、そういったあり方から見えてくる認識を、どういった良い行動に結び付けるか、という所にあるのではないかと思う。
つまり、その人その人にあった、それぞれの立場から見た、それに沿った形の活かし方というものがある筈で、そこが大事な事ではないかと思う。
世界が〜、などという言葉で、確かに良い方向へ行けるものもいるかもしれんし、救われた人もいるかもしれない。
その言葉を使う場面の全てが適切でないとも思わない、が、そうでないものもいる事は間違いない。
そもそも、大人も結局は人だ。あまり考えていない場合もあるのだろうな。
あるいは横着しているのかもしれん。
創作物でよく、正義の反対は悪ではなく別の正義だとかいった、正しさの反対は、悪ではなく別の正しさだというものがあるが…
そもそもが、人それぞれ持っている、正しい感性や、こうありたいという理想、正常や普通だと思う感覚は、千差万別、バラバラなものの筈なのだ。
小瓶主さんの思う思いも、間違いとか正しいじゃない、小瓶主さんの持っている思いとして「当然」、「個人としてあって当たり前」の、正常な感覚だと思う。
(その個人の内へ感覚や、個対群などの違い周りの事が、教育においておざなり過ぎるように感じる)
小瓶主さんが出来ているような、その場への考慮、配慮もせず、一辺倒に世界がどうだの、便利な言葉として使い、あまつさえ「だから」などと、強制しようというのであれば、それはただ、個人的な正しさを押し売りしているに過ぎんのにな。
なんというか、「世界」という言葉がバックについてるから、偉い事を言ってる気になっているんじゃないか?
誰かが言っていたり、教科書に書いているから、あたかも正しい、それが全てにおいて当然な感覚だと疑いもせず鵜呑みにして、意味もよく解らずに使っているんじゃないか?
そういった、馬鹿らしい邪推さえ思い浮かんでしまう。
そんなもの、別の視点から見て、人への尊重も、個人への理解も何もなく、押しのけるだけのものであれば、押しのけられる当事者にとって「悪」でしかないものを。
まあそんな下らん話は置いといて、小瓶主さんが人を救いたいと思うのなら出来るだろうさ。
現に今、俺は、なんともモヤモヤした胸糞悪い、抱えていた思いがスカッとした。
自分と似たように感じる方がいて助かった。
それに、昔の俺は、別に生きていたくなくても、死にたくても、生きてはいたし、生きて来れたんだ。
どこに生きたい人がいようと、生きられない人がいようと、自分自身がそこにある事には変わりない。
いろんな世界があると知って、そこからどうありたい、どうしたいという事に関係はしても、今何が出来るか、出来ないかという事には関係ない。
小瓶主さんだって、そうだろう。
何が人じゃないのかはよく解らんが、小瓶主さんだって、生きる事や死ぬ事、人の事や自分の人生、いろいろな事を考えて、悩んでいるじゃないか。
十分過ぎるくらい「人らしい」と思う。
…ただ、相手への影響を慮れないような、そういった教師側の人間もいるし、大人といっても結局同じ人間なので、教師側も同様に道徳というか…
相手への思いやりを学ぶ事は、人間関係において大事かもしれんな。
文中からではあるが、小瓶主さんには人間関係における思いやりや節度もあるように感じるので、現状問題なさそうだとも思うがね。
小瓶主さんは、自分の持つ優しさなどから、自分ができる事の少なさに耐えかねたのかもしれない。
だけど、他の世界、他の場所の、それぞれの人がそうであるように、小瓶主さん自身にも、人生があって、何の価値もないと仰られているかもしれないが、その中で悩んできた時間もある。
それはある種辛くもあるかもしれないが、良くも悪くも、誰かが、取って代わる事は出来ない。
認識が変わる事はあっても、比較する事で、どちらがなくなるというものでもない。
それを偏っていると言うのなら、個人の感覚をないものとして扱う事、無視する事と同じだろうしな。
そもそも、小瓶主さんとして、世界の様々な人たちの事を考えると、そこから自分の事を悪いんじゃないかと考えてしまって、悩み、苦しくなってしまったのだろう?
なら、幾ら紛争地帯の人々から比較して見て「平和」であろうが、小瓶主さん自身の心の内は「平和」ではなく、穏やかではなかったのだろう。それもあって、人を助ける程の余裕がなかったとも考えられる。
そんな余裕もない状態、自分の悩みで手一杯な状態で、人の事を助けようとするのもかなり骨が折れる。
とても大変な事だと思う。
元気があって、余裕もあって、気が向いている時に出来れば良いよ。
疲れていると集中力も落ちるし、そのために失敗も多くなりがちになる。
募金する事だってそうさ。
…実のところ、募金する事にもいくつか問題があって、募金の集金されたお金が、不正に横領、支援したい国や場所へ届かず、集めた人達が勝手に使うなんて、馬鹿げた、悲しい事件もあった。
また、募金などによる食料供給の充実から、人口が増加して、さらに食料や、支援金、人手や医療、その他の教育機関が不足したりという事もある。
現状どうなっているか解らないが、その周りがおざなりだった事もあるしな。
支援するのはいい事なのかもしれないが、安易に支援しても、次の問題や、今まで積み重なっていた問題を大きくしかねない、表面化させかねない、というリスクもある。
先進国という、発展の段階にある国から比較して、産業などが発展、開発の途上とされる発展途上国への援助にもそういった問題がある。
(化石燃料やら、フロンガス、鉱物採掘および金属加工などによる大気汚染や、温暖化、住む場所や火種を求めた伐採からなる、森林減少、飲料水の確保の為の、地下水の急激な汲み上げによる地盤沈下など)
多分、そういった現地的な問題を知っている人も、教育陣の中では少ないか、なかなか複雑な事もあって、説明も難しいだろう、知っていて教えていないのかもしれんな。
(よく考えた方がいいと思うのだが)
まあ、金銭的に余裕がある時に、したい気持ちがあれば、募金すりゃいいよ。
余裕ない時に無理して金出しても、生活費が関わってくるとなれば、実生活的に困る事もあるだろうしな。
(逆に言えば、1円でもいいし、それが一人一人、積もり積もれば大きな支援金になる可能性もある)
遠いどっかの国やら、地方だけに留まらず、どんな人でも、支援したい、助けたいと思うのであれば、自分自身が元気であるかどうかも大事だと思う。
例えばお金も食べるものも全部分け与えて、その人自身がボロボロになってまで、倒れてまで、そんな必死な姿で助けられたら、どう思う?
感謝されこそ、多少なりともその人の事が心配にならないだろうか。
なので、自分自身の抱える深刻な問題というか、立っていられないような悩みがあるなら、それをなんとかするか、余裕があって元気な時、手を伸ばせそうな時に、助けになれる事はないか動ければいいんじゃないかと思う。
自分自身の体調管理や、元気や余裕。
助けようとする地盤として考えれば、そこを整えようとするのも立派な一つの出来る事だと思う。
まあ、動かなくていいための、見せかけのていのいい、そんな言い訳にはしない事も大事だがね。
道徳、思いやりをなす為には、地盤としてまず個人が存在する事が前提になる。
つまり、相手の意思の尊重のみならず、個人を成り立たせている、自分の意思の尊重も大事なんじゃないかね。
どちらも同じ人としての意思なのだし、社会的な立場は関係がないと言うか、そもそも社会を成り立たせているのは一人一人の異なる個人だからな。
教師と生徒や、上司と部下、親と子など、社会的立場を重視するのであればこそ、それを成り立たせる為にこそ、人間関係の基礎、道徳、互いの思いやりが大切になってくると思う。
とにかく、悩んだ事におこがましいなんて事はない。
小瓶主さんご自身の人生に関わる悩みだろう。
罰なんてこない。
それを言ったら、他の生き物たちはどうなる。
彼らは他の生き物を生きたまま食い殺すこともあるし、餌の横取りなどザラにある。
他の生命体への関わりを考える事もあるだろうが、あろうとなかろうと生きて死ぬ。
何も変わらんよ。いくら人間が、他の生き物より脳が大きかろうと、命は命だ。
生あるものは平等に土へと帰る。
まあ、解釈次第では、その「死」への理由付けとして、キリスト教でいう原罪といったような考え方もあるが、宗教は宗教だしな。
人間の認識が、本当に真実に近い所にあるかどうかは解らない。
俺自身、自分の事がおかしいかどうか、認識が狂っているかどうかは解らんが、少なくとも俺の持つ感覚からすれば、親御さんが放った「おかしい」という言葉はおかしく感じる。
例えば、獲物を殺した肉食獣がいるとして、それは殺された側や、殺された生き物の家族から見れば悪になるが…
殺した獲物を細かくちぎって、肉食獣の産んだ子供の為に分け与えるとなれば、その子供達にとっては善となるだろう?
正義や正しさの反対は、悪ではなく、別の正義や正しさだと書いた所と同じだ。
程度の違いこそあれ、俺が今自分の考えを説明しているように、親御さんからは、その時感じた親御さんが持つ基準や、当たり前だという感覚から来る「違和感」を「おかしい」という言葉として押し付けられたと言う訳だ。
つまり解るのは、親御さんが「おかしい」と思っているという事だけで、本当に小瓶主さんが「おかしい」かどうかも何も解らん。
また、親御さんが、小瓶主さんへ持つ、「何に対して、どうおかしいと思うのか」という事もよく解らん。
ただ、そう言う事を含めた上で、親御さんも同じく、人として、命として垣根のない人間だ。
経験数の違いや大きさの違いがあると言っても、小瓶主さんのように、誰かに泣きつきたくなる事や、ショックを受けた時、気が動転するような事もある。
自分の子供がこんなに苦しんでいると知った時、真っ当な親であれば少なからずショックを受けて、自分に非が、悪い部分があったのではないかだとか、色々と考える事もあるだろう。
そのショックを受けて、余裕のない時に、上手く頭が回らず、感情的に、思ってもいない事や、思考としてまとまっていない言葉を怒鳴ってしまう場合もある。
(そもそも、自分の感情を言葉で表現する事に慣れていない場合もある。年齢は関係がない)
俺も実際、死にたいだのなんだの言った時は、いきなりビンタされて、「なんでそんな事言うの!?」なんて怒鳴られた事もあるしな(苦笑)
(何故死にたいなんて言うのかって、口に出した俺こそ知りたかったわ笑)
そんなもんなのかもしれんな、深く考えて来なかったり、今までに思いもよらなかったであろう衝撃的な出来事にあった時の親の反応なんて。
まあ、なんだ、何が間違っている、何が正しいなんてものは、一人一人の感覚であって、人間関係の上で、正しさと正しさがぶつかり合っても、嫌な思いを感じる事や、最悪争いになってしまうので、その一人一人がお互い過ごしやすいようにするためのルール、基本的な事として考えられたものが道徳や、思いやり、マナーや礼儀とされるものだと思う。
人間関係から成り立っている、社会というものにおいて、そこが重視される訳だ。
その教育が間違っているかどうかと言うのも、正しいかと言うのも解らんが、少なくともある一つの人間関係の中では、小瓶主さんのように感じて生きてきた人もいるという訳だな。
正しいか間違っているかも解らないが、現実の一つとして存在している出来事だ。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
本当にそうならいいな。
俺が切ったり、体を焼いたり、殴ったり、髪の毛を引き抜いたり、色々自傷した時は、痛みも気持ち良さも何も感じなかったよ。
ただのどうしようもない、衝動だった。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
俺が感じるところの、有り難さの解らない奴というのは、何もかもを使い捨てにする奴だと思う。
そう言う観点から見ると、奴らは恵まれていない。
使い捨ての未来などないからな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
死んでいい理由は特になくても、死にたい理由はある。そして生ある身、いつかは死ぬ。
それと逆に、生きていていい理由がなくても、今こうして生きているんだから、理由なく生きていたって何の問題もないさ。
もしかすると、家族は、自身の感じた嫌な事、ショックな事を、小瓶主さんに、ある種の甘えとして、押し付けてしまったのかもしれないと思った。
それに対して、別に家族の肩を持つとか、特に事情が解る訳でもない他人として、何を確かに考えられる訳でもないがね。
まあ、でも、多分、小瓶主さんが居なくなっても、そういう行動を繰り返してきた人というのは、また対象を変えて、別の何かや、ものにあたるだけかもしれない。
自分で勝手に不幸になるというかね。
殆ど憶測ではあるが、そういう人たちから受けた嫌な事は、その人達のせいなのだから、あまり思い悩まないでほしい。
特に、迷惑だとかいった弱みのような言葉に付け込んで、言葉にしろ物理的にしろ、暴力の免罪符にするような奴もいるからな。
生きる事に迷惑もクソもあるものか。
そもそもが、どんな人間、生き物も、何かに頼らなければ生きてはいない。
その関わりを迷惑とするなら、人を故意に傷つけている分、そいつらの方が大迷惑だろう。
あんまりにも離れたくて仕方がないとかだったら、親の親、爺ちゃん婆ちゃんとか、学生さんであればスクールカウンセラーとか、自治体の無料電話相談とか、信頼できそうな人に頼ってみるのもありよ。(宛メでも良いだろうし)
それに、そういった行動を取れたりするのも、小瓶主さんの命あっての物種だからな。
一瞬一瞬の中、小瓶主さんがこうして、死にたいと思いながらも手探りでここに辿り着き、思いを書こうとした事のように、死や生への方向性もあるが、生きている中で進む意思はあるだろう。
死にたくても死ねなくて、だけど生きていたくて、生きていていい理由が欲しくて。
その為に、生きてていいんだと思う。
もしも迷惑だと思う事を気に病んで、それを払拭できないでいるのなら、嫌な事された奴に対してするかは別として、生きている中、何かしらの形で返す事も出来るだろうしさ。
(恩を感じるのであればね)
苦手じゃなければ、また辛くなった時、誰かとでも一人ででも、カラオケに行くのも一つとしていいかと思う。
カラオケじゃなくても、家に人がいない時(バレるとなんかめんどくさい)とかでもいいと思うが、思いっきり歌うとスッキリするぞ。
また宛メに来てもいいと思うし、気が向いたらその時々に、自分の気持ちをノートに書き殴ってみても、多少なりスッキリするかもしれない。
生きていたい気持ちを優先したいのであれば、ストレス発散や、気持ちを落ち着ける方法、安らげる方法などを検索してみてもいいかもしれんな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
…いい人か。
それは、「周りにとって都合のいい人」なのか?
それとも、「自分にとって都合のいい人」なのだろうか?
解決する方法かどうかとか、そういった事はよく解らんが、周りにとって都合のいいだけの人なら、それは自分自身と言う立場から見てして、本音やら素直な感性を曲げたり、押しとどめる事になる。
それは、なんというか…、今小瓶主さんが感じているように、苦しい事柄なのではないだろうか。
たしかに、周りの人に対して、都合の良いだろうと思える振る舞いをすれば、「いい人」と思われる可能性はあるだろう。
だが、あくまでそれは一つの「いい人」像であって、全てにおいて「いい人」と言えるのかどうかと問えば疑問だ。
俺のように、自分の意思を殺してまで、こちらを優先してくれるような姿を感じれば、心配になる事もある。
他の人を信用できるか、頼れるか、と言った事に関して…
少なくとも、他の人も、「こいつは人に合わせようとしている」という事に気付けない程バカではないと思う。
俺も人に迎合というか、合わせていた事もあってか、また合わせられていたであろう事もあったので…
小瓶主さんが悪いだとか、責めるつもりは一切ないが、一つ一つの問題点、要素はなんとなく解る。
気付いた人から見れば、自分自身の意見を言っている訳ではないという事が解るので、その人に対してなかなか信用はできない。
また、恐らく、自分に合わせてくれるという事から、厄介事や汚れ事、自身のやりたくない事を押し付けて、最悪自分の手柄にしてしまおうと思う奴もいるかもしれない。
都合よく利用する、といった形だ。
運が良ければ、身の上の経験から、「この人はこの人なりに頑張っているけど、人に合わせすぎているんだな」という事が感じ取れる人もいるかもしれないが…
多くの場合は、あまりよくない人間関係が構築される可能性が高いかと思う。
また…、俺自身の人間関係としてあった、失敗した話なのだが、小瓶主さん自身に、人として興味を持った時、または関わる時、人に合わせるばかりだと、どういう人間なのかという本質が見えて来づらい。
なので、どこからどこまでが踏み入っていいラインなのか、悪いラインなのか…
要は、何が好きで、何が嫌いなのかという事が見えてこないので、その人を怒らせたりするかもしれないと不安に思う場合、すごく関わりづらくなってしまう。
実際、天気の話だとか、とりとめもない事は話せても、深い話がしづらくなる事が多くあったし、実際にしづらい、解らないと言われた事もある。
また、それが解らない上で、そのライン、人としての線引きを無視して関わるとなると、小瓶主さんの嫌な事や怒る事も、平気でやってくるだろう。
小瓶主さんの事を何も知らないし、嫌な事や怒る事も我慢してしまう事で、相手には小瓶主さんにとって、それら小瓶主さんにとって困る行動が、平気な事なのだと思う可能性すらあるのだから。
時と場合により、周りにとって都合のいい人というのも悪いものではないが、それ以前に自分自身と言うものがある。
引き受けたくない嫌な事や、無理をしないと受けられないような事は断る選択をした方がいいかもしれないな。
俺のように無理をして、我慢の限界が来て、引き受けた事もまともにこなせなくなって…、色々な方面に迷惑が掛かるよりは、難しかったり出来そうにない事を断れる方が断然いいだろう。
断る事で、頼ってきた当事者も、また別の人へ頼る事が出来るだろうし、仕事など、期限のある事であれば尚更だしな。
また、個人の能力を問われる、学校の宿題だとかなんだとかになると、それを頼まれる事は不正に当たる。
それはいい事なのだろうか。
そう言う観点から見ると、どうだ?
俺は、いい人ではありたいと思うが、周りに都合がいいだけの人、都合よく利用されるだけの人にはなりたくない。
おそらく小瓶主さんが抱える苦しさの通り、これは健全とは言い難い生き方だ。
ただ辛くなっていく、更に辛くなりやすくなる生き方だと思う。
何故って、それは自分が生きるための、自分が自分のまま存在して良い場所、自分がありのままやりたい事を出来る空間を、人との関わりの中から、どんどん減らしていくような生き方だとは思えないか?
狭いし、窮屈だろう。
我慢といえば、多少のものは人間関係を円滑にする事において、必要な時もあるだろう。
だが、我慢というのは基本的に、自分の行動を押し留める事だ。
塞き止めるダムに水が溜まるが如く、どこかで吐き出したりしなければ、結局限界は来る。
なんといっても、抱えきれなくなったから、塞き止めきれなくなったから、こうして小瓶に溢れてきたんだと思う。
小瓶主さんの理想の「いい人」はあると思うが、もう一度それが、本当に、理想の、「いい人」なのかどうか、よく考えて頂きたい。
つまりは、小瓶主さんが、「周りの人からいい人だと思われたい」のか、それとも「いい人になりたいと思っている」のか、という所だ。
俺にとって、小瓶主さんのように、頼み事を断らなかったり、苛立つ事を言われても我慢する人は、いい人と思える。
それと同じように、人を信用したり、本音を打ち明けたり、そういった関係を築ける人も、いい人に思える。
過去、なりたかった「いい人」というのはあると思うが、それは置いといて。
今、小瓶主さんがなりたいと思える「いい人」とはなんだ?
どんな人になりたいと思えるだろうか。
厳しい事を言ってしまうのかもしれんが、苦しさを抱えたままというのは、解決になっているとは言い難いように感じる。
解決法を求めないと言うなら構わないし、その人の意思だろう、何も口出しはできないが…
俺の中は、本当にそれでいいのかと言う気持ちで一杯だ。
小瓶主さんの現状が辛そうにしか感じられない。
少しでも良くなって欲しいと思わざるを得ない。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
詳しい事情はよく解らんが、自分自身が感じる幸せは、ほかの人の中には存在しないよ。
奪おうとしても、奪ったつもりになるだけになってしまう。
奪ったつもりになって、幸せになったつもりになって、あたかも幸せであるように感じる事も出来てしまう。
それでいいのか?
いくらつもりになれた所で、奪おうとする事に纏わる弊害もある。
そもそもとして、ものではないのでな。相手の嫌がる事をしたりとなれば、幸せを遠ざける事はできても、それによって自分自身の幸せも遠ざかり、余計に疲れるだけだと思うのだが。
ただ、まあ、周りに合わせて、ほかの人にとって都合のいいだけの人は、疲れるかもしれんな。
それはいい人であっても、良い人とは言い難い。
ほかの人の顔を伺い、意見を流し合わせるという事は、必ずや人を思いやるという事ではないだろうしな。
ほかの人の意見を尊重できるという事は、そもそもとしてこちら側、自分自身も存在して、そこに立っているからこそ成り立つ行動だと思う。
少なくとも、そうでなければ対話とは言えんだろう。
何はともあれ、疲れた時はしっかりと休める、ぐっすり眠れる時間を取ってくれ。
個人的に、幸せというのは、必ずしも人と人の間、関わりのみにおいて存在するものではなく、己が内から感じることの出来るものなのだと思う。
そういった視点から考えると、香りを楽しめる紅茶などが、気持ちの安らぎ、休む事に良いんじゃないかな。
例えば好きな動物の写真やら動画やら、景色などを見たり、音楽を聞いたりするのも悪くないと思う。
道端に咲く花や、雨の降る前の空気の湿り気、降った後の土の匂い、寒さを感じた時に、厚着や暖房、飲み物などで温まる感覚。
水のせせらぎや日の差し込み、草木の色、空模様。様々なものから、幸せを感じる事は出来ると思うのだ。
嫌いでなければ、歌を歌ったり、体を動かすのもストレスの発散に繋がるかと思うし、それ故にぐっすり眠れる事へも繋がるかもしれない。
気分が落ち込んでいたり、疲れていたりすると、考え事にも集中しづらくなるし、それ故に良い考えも浮かびにくくなる傾向を感じる。
とにかく、疲れた時には休める時間、安らげる時間を過ごして欲しい。
多少なりとも、小瓶主さんの気持ちが和らぐといいな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
(長くなったので、もし読まれた時、疲れた場合には、休み休み読んでください。)
あー、うん、多分人目を気にしないのは無理。
人目というか、俺も人との関わりが気になって引きこもりになったんで。
だからむしろ気にした方がいいよ。
俺の場合はヒゲ剃るとか、顔洗う、体洗うとか、歯を磨くとか、服を着替えるとかなんだけど。
そういうのを、気にできる人って、割と思いやる事が上手い傾向にあるような気がする。
(何が悪いという話ではなく、結果的な構造として、そういった気遣いや共感性の欠如、他人なんてどうでもいいといった行動から問題が起きて、そういった対応をされた人、巻き込まれた人が引きこもるケースが多いような気もする)
まあ、小瓶主さんの場合そこら辺はどうか解らんけど、働いてるだとかなんだとか気になって聞いてくるのは、人から来る小瓶主さんへの興味、言い換えれば小瓶主さんを知らないからの問い、もしくは何とは無しに会話しようとした結果だろう。
(逆に考えれば、人目が気になるというのは、小瓶主さんからの人への興味)
だから、聞かれる事が気になるなら、あえて「働いているように見えます?」とか、質問で返してみたり、いいえのみで会話を打ち切るとか、それでいいんじゃないかな。
聞かれる事の内に、嫌だと感じる事があるなら、聞かないでほしいと打ち切るっていう。
…体裁のいいというか、関わりを気にするのであればそれなりの断り方、あるいはぼやかし方を考えておくとか。
考えた所で、出来るかどうかというのと、出来ても会話が終わるかどうかは別だが、「忙しい」「やりたい事があるので」とかの言葉もある。
(そこら辺は小瓶主さんの思い付いた言葉で)
他に、人目が少ないであろう早朝(春だと5時付近からか?)にやるとか。
まあ、なんにせよ、関わりたくないなと思うような要因に対して、何かしらの対策がない訳でもないと思う。
とにかくは、小瓶主さんの気になる事に関して、気が向けば対策を練ってみるのも悪くはないかと。
俺は一時期、人と関わるのも嫌だった事があったけれど、そんなんでも、今宛メを利用させて貰って人と関わってる訳だし、変わる時は変わるだろうしな。
実際、程度は違うだろうが、俺も人目が気になって外へ出たくない事もあったし、気にするだけ気にしたり、その周りについて対策やらなんやら考えたりで、現状気にするだけ無駄な事もあると理解したというのか、若干諦めて投げやりになってる所もある。
(そういった経緯から、外見周りに関して、逆に「気にしなくなってきてしまった事」を気にし始めている)
因みに引きこもり期間が長くなると、いつ寝るのかもバラバラになる事があるので、そういった立場からすると、午前中という概念が通用しない…。
暇な時は絵を描いたり、その描いた絵やら、なんかしら創作物の設定を考えたり、動画見たり音楽聞いたり、ゲームしたり、人がいなければ歌ったり、たまに運動したり、そんな所だろうか。
あとは考え事も好きだな。(そういや、全部人と関わらずとも出来る事でもあるな)
…趣味といえば趣味かもしれないが…、何かしら向上の余地があるような事に対して、何度も感じてきた事ではあるけれど、満足というものも易々と出来るものではないしな。
結局理想を描いた所で、理想に辿り着いた時には、その理想は過去に描いたものであって、今この時から出たものではない事もある。
だから、また別の問題点やら改善点が出てきたり。
なので、むしろ満足しきれていないから、続けるものなのかもしれない。
満足してしまえば、興味を失うというかね。好意的な諦めに近い感じ、と言えばいいか。
少なくとも興味がある内、満足できる事はないんだろうと思って趣味を続けている。
また、それが現実逃避と結びついていたりする事もあるし、抱えきれないものから目を逸らして、多少なりとも精神の安定、支えになっているのかもしれない。
ただ、結局の所それで充実感を得られたとして、社会的立場からの目から見れば苦言を呈される事もあるだろうし、それ以前に人としての礼節というか、関わりにおいての部分としてみれば、社会的立場から言われた事への物の言い方から見て、その意見を受け入れたくなくなる事もよくある。
趣味を持っても、そういった問題そのものが変わる事はないので…
場合によってはあまり聞きたくない話かもしれないが、心の安定はあっても状況の改善にはならないし、必ずストレスが発散されるかというとそうでもない。
問題から受けるストレスが変わらないので、問題そのものが変わる、あるいはその為に努めるか、問題に向き合っている自分の認識などを変えるか、他には何かしら抱えたストレスを発散したり、ある程度でも落ち着ける事が必要になるかと思う。
(関わり関係と、事後フォロー周り)
…あー、でも、個人的には、歌ったり、体を動かすと、多少なりともストレスの発散にはなった気もする。
人によって引きこもった理由も様々で、時には人間関係の問題が主軸ではなく、金銭的に余裕もあり、なりたかったからなったというようなケースもあるだろうが、それは除外するとして。
例えば人間関係の中で、引きこもる要因があったとして、ある程度気持ちに余裕のある内、気が向いている時に、対策やら、ストレスの発散方法やらを見つけようとするのが大事かもしれない。
で、余裕や落ち着きがあれば、何かしら、抱えた感情の整理なり、問題へも対処しやすくなる、そういった時間を持ちやすくなるかと思うので、そう言った点から趣味を持つのもいいかもしれんな。
そういった理由を考えないにせよ、精神的に苦しいのも困りものだろう。
…まあ、別にこれといった形のある趣味でなくとも、小瓶主さん的にいえば、多肉植物との関わりの中で、なんかしら落ち着ける気持ちになれるならそれでいいんじゃないかと思う。
また、例えば俺の場合、何かゲームなどで上手くいかなかったり、絵や設定を描くのに詰まった時は、音楽を聞いたり動画を見たり、その他の事をしたり、逆にぼーっとしたり、寝たりする。
一つに頼り切ると、その一つの事が辛くなった時に苦しさを抱え切れなくなる事もあるので、結果的に他のものへ頼る事を続けていると、趣味のようなもの…、続けてきたものの中で、楽しかったものなどが出てきた。
…また、別の話ではあるが、続けるかどうかに自信が関わっているというより、自信がない事が楽しくなさに関わると思うので。
自信というか、上手くできるかできないかだけに留まらない上で、楽しみを見つけられるか、興味のある事を感じられるかが、続くかどうかに関係してくるのではないかと思う。
(楽しさや、何かしらの好意感、肯定感が続ける事に大きく関わっているのではないかと思う)
で、続いていく中で、上手くできた事…、ゲームで言えば、自分の思うように操作して、求めた結果、理想と同じような状態に出来る事、出来てきた事の積み重ねなどが、その分野での自信に繋がったり。
上手くいかなかった上で、何がいけなかったのか、どこを注意したり、変化させればいいか、そういった事へ目を向けてみると、それも一つの興味へと繋がるかもしれん。
また、上手くいかなくても、悔しさから続けたり、もっと出来る筈だと続ける、それらある種の執着心、あるいは惰性、他に義務感なども、原動力になる事があるだろう。
これらも自信のなさと同じく、楽しくなさに繋がる可能性はあるが、一応は続けるための力となる事もある。
まあ、何か初めてやってみる事だとか、大きな失敗が頭をよぎって不安だとかなら、そりゃあ当然自信はないだろうなので、そこから自信がつくとすれば、何かしら上手く出来るようコツを掴もうとするとか、続ける他もないと思う。
そもそもが、自信のなさというのも…
自身というのは、自身の行動からなる成功体験や、そこから繋がる次への期待、普通や当たり前だと思う感覚から生まれて。
そして自信のなさは、失敗、上手くいかなさ、否定、当たり前ではないという感覚、自信というものがなければ生まれなかった感覚だろうし、そうであるならそれを何とか出来るのも行動の中にしかないと思うんよ。
それに、なんというかね。
こうして要素的に見ると、どうにも「自信がなくなった」というより、当たり前だと思っていた事、能力が、そうではなかった事に気付き、「自信」という概念が変化した、とも考えられる。
自信がなくなったのではなく、上手くいくという事が普通の、当たり前ではない事だと解って、「自信」という概念、認識の枠組みが変化、広がったのではないかと。
なので、そう考えた俺からすると、自信がない事に対して、何一つ恥じる事もないんじゃないかと思う。
(自信を付けたいというなら付けようとすればいいだろうなので、書いた事が少しばかりでも参考になれば幸いだが、無理につけようとする必要性も感じない)
…とっ散らかったので、話を戻すと、一つのものへ頼り切りというのは、あまりよろしくないかもしらんので、最低でも三つくらい、個人の範囲で、習慣的かつ肯定的に、やりたい、してみたい、興味があると思えるようなものがあると、ある程度は余裕を持ちやすい状況を作れるかもしれない。
(やりたければの話だが)
それにしても多肉植物か。
なんというか、あまり人がどう思っているか、多肉植物の事が好きなんじゃないかという事を考えると言い出しにくいんだが、多肉植物のプニプニしてるような奴って、個人的に美味しそうに見えてしまうんだよな。(見えるだけ)
あと、すごく触りたくなってしまうけど、触りすぎると弱る、繊細な植物らしいじゃないか…。
種類による所、元々住んでいた気候から、好きな温度が違ったり、大体乾いていた所へ適応しているので、水周りの関係が肝心だとか。
うちにも長い間小さいサボテンがいるんだが、そういう所がなんと言うか、勝手な共感を持って見てしまうな…。
まあ、長所と短所は紙一重というか、適材適所というのか、人間が感じた良さや悪さを元に感じているに過ぎんだろうさ。
自信のなさや人目への気がかりな事、懸念があるという事は、ある種の予測能力の高さ、頭の良さとも言えるだろう。
それをどう受け止めるか、どう感じるのかと言うのが、認識、詰まる所、人の判断や感覚という所だろうな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
再度、小瓶主さんからのお返事を確認しました。
まあ、詳しい、事細かな事も解りませんし、彼氏さんを忘れようとする意思決定に異論はありません。
ただ、返信後も関係は続くので、彼氏さんの体調や身の上というのを聞いたのだとは思いますし、返信する際での質問の仕方も関わる事はあるかと思います。
その上で、また彼氏さん自身にも思う所があったから、答えづらい為か、答えたくないかはさておき、それ故に返信をしていないのではとも考えます。
八つ当たりされたという事なら、彼自身、未だ心の整理がついていないせいか、小瓶主さんとどう関わっていいかも解らないのかもしれません。
だから、距離を開けようとしたり、その逆にお二方、彼氏さんと小瓶主さんの共通項、共通の話題として、携帯ゲームの話をしたという事も考えられます。
あと、俺が言いたいのは、付き合った当初と同様に、この先の事はまだ解らないのに、叶わないと決めてしまうのはどうなのでしょうか、という事です。
厳しい言い方になってしまいますが、命ある限り、行動するのはあなたの事でしょう。
自分の願いを叶える為に動く事が出来るのは、まず小瓶主さん自身であって、小瓶主さんを動かすのは神様ではありません。
(神社に参拝した分、見守ってくださる事はあるかもしれませんが)
決まりきった運命のようなものなんて、そうそう滅多にあるものではないらしいですし。
まだ先の事、これからまた関係性を改めるなど、お互い何が原因で別れたのかを話し合い、改善したい、どうにかしたいという気持ちが小瓶主さんにあるのなら、それをメールなど、できるコミュニケーション上でのやり取りから、話し合う事をしましたか?
何が嫌だったとか、もしくは自身への反省点以外にも、遠距離恋愛で感じている事や、困難さから来るものが要因にあったかどうか、それらは対処できるか、などもあるかと思います。
未だ、やり直したいという思いがあるのなら、それが相手にもあるのかどうかを確認する必要があるのではないでしょうか。
もしくは、やり直したいという思いをメールにて伝えましたか?
(宛メも、文字上のやりとりとして、文字として語られなければ明細としてこないので、一応の確認ではありますが、伝えたならいいです)
また、そういった内容を伝えたとしても、別れてからのストレス、心労もあるかと思いますので、彼氏さんも小瓶主さんも、すぐに気持ちを切り替えられるかどうかと問えば、なかなか難しい事かとも感じます。
(そういう事への注意点に関しても、多分調べたら出てくる)
内容を無視された事に関して思う所があり、もしその内容が、今後の関係を見直す為に必要だと思う事柄なのであれば、大事な事なので答えてほしい、話し合いたいという旨を伝えた上で返答を待つとか、そういった事も思い浮かびます。
その上で、小瓶主さんがもう恋愛関係を続けたくないと思い、諦めた、やり直したくないというのなら何も言いません。
新しいご縁があるといいですね。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
何はともあれ、えがったのう。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
(あまりこういう、人の背を押そうとするように感じる小瓶へ、口を出すのもどうかと思ったので、極力注意してみたものの、不快に思われるかもしれない懸念はありますので、もし読まれる際はご注意を)
善悪、良し悪し、それは確かに人それぞれが生み出した、各々の持つ夢幻のようなものだ。
だけど、己が自意識、エゴ、その一部でもある。
認識とは己が分け身、己が経験、己が感覚と結び付く。
確かに物質としては、概念というものは存在しないが、各々のうちには存在するものだし、それに則って行動を起こすものだ。
小瓶主さんが根とする、支えとする宗教、あるいは考え、人生理念に対して、良し悪し、是非は言わん。
(そんなものは当人次第なので、俺には解らんから、口出しする事はない)
だが、空とは虚ろなものを指すだけで、完全なる無ではないと思う。
言わば、空とは、表すものを含んだ「言葉」だ。
(バーチャルリアリティ的な感じとも)
改めて言われるまでもないかもしれないが、感じる事が実在しているのであって、感じる事で実在となる訳ではない。
簡単に言えば、言葉は言葉でしかなく、それにどのような思いを込めて使っても、端から見れば、端から見た人の感じる思い、意味を持って理解される。
認識は認識でしかなく、それは人の目を通してみた景色と同じで、鳥や虫、他の命、それぞれから見た景色とは異なる。
あるいは、こう書けば伝わりやすいか。
己が認識は己が認識で、実際のものと擦り合わせ、正しいか間違っているかは別、と。
それが「空」。
そして、その空は、仮の姿を示す「言葉」(言葉もまた空の内)であって、現象として実在のものだ。
仮の姿、夢や幻、感じられるものとしてそこにある。
仮の姿というのは、永久不変の実体や、永久不変の自我などないという事だ。
詳しくは解らんが、俺なりに解釈する所、「色即是空」とは実体や自我の否定ではなく、実態や自我があるという上で、それらが形を変え行くものだ、という事を示しているのではなかろうかと思う。
要は、「体は老けるし、絵の具を塗っても時が経てば色褪せるし、岩も風化していく。心は悲しんだり喜んだりする」という事だ。
で、「空即是色」とは、全ての存在は移ろい行くその現象で、目に見えるものは仮の姿であり、その「空」という意味が心底から理解できてくると、仮の姿を現し移ろうその現象が、そのまま実在の存在であるという事が納得できる、という事かと。
己が思い、意識は錯覚などではないよ。
それも己が身、体が物質としてある為の、表されている一つの形、現象よ。
だから実在する。
だが、自分の意識を錯覚とすれば、錯覚として、己が認識となる。
ニュートラル…、自分にとって何が自然体なのかの意識を変化させる事ができるように、自分にとって何が錯覚なのかという事も変化させる事ができる。
認識があるという事。そしてそれを頭の中に作り出せるという事。それを元に行動する事。
全て実在だ。
自分というものを「空」とするのなら、そうなる。
それが解ったという事も含めて、「空即是色」かと思う。
もし、己が身、エゴ(自分という意識)を消すとなれば、全てはなくなる。
それは、「空」ではない。
何もない、というだけになる。
以上が俺の考えで、それを元に考えた本当の自分とは、「善し悪しの付かぬ自ら」と、「善し悪しを思う自ら」、見えて触れられる実在と、見えぬが気としてある実在、その二つを合わせたものよな。
勝手推測するに、小瓶主さんが…執着というよりか、その念頭から離れぬのは、己とはなんなのかという事からくる不安かもしれないと思う。
仏教感からすると、体と、そこからなる状態や動き、物質は空だ。
(ややこしい話、小瓶主さんは、「物質」を実在としておられるようだが、昔の仏教感から見ると、その当時の背景からなのか、「意識」的なものが主体として、実在として物事が語られる事が多いかも。今はインターネットなどで、マインドだのなんだの言われているのかと思うが…、あれは多分、今の時代背景に合わせて、解りやすくする為に言葉を並び替えたり、変化させているのではないかと思う)
また「空即是色」という考えから見ると、「本当の自分がなんなのかと探す」それは、エゴ、己、つまり自意識、自分の一部を表すものであり、実在のものとされる。
だがそれは、己が身、体もあってこそ生ずるものでもある。(言葉だけだとあまりピンとこないかもしれないが、多分これを体験などから、各々の解釈や言葉、意味で理解した事が空即是色だと思う)
即ち、ここ最近の実在は、「本当の自分を探してきた小瓶主さん」という現象ではないかと考える。
エゴを悪と捉えるも、「空」の内よな。
善と捉えるも「空」の内。
真実は一つなどではないよ。
一つと決める事も、「空」という現象の内なのだから。
まあ、一つではないと決める事も「空」なのだがね。
悟りだとかなんだとか言われ始めて、なんだか高尚なものに、特別な、妙に神聖な壁のあるものになったんじゃないかという気もするが、そんな大それたものではないんじゃないかね。
一瞬一瞬を生きているという事への自覚だよ。
その心からの自覚が、仏教で言うニュートラルなのではないかと思う。
(言葉はあくまでも「空」なので、自覚の体験が、どういったものなのかは自分で考えろ的な部分も多分あるんじゃないかと思うが、現代はそこら辺が優しくなってる気がする)
なにより、宗教とは人の心の支えだ。
俺の思う所の宗教、その内の仏教とは、本来的に人の心を惑わすものではないし、理解しがたいように出来ている訳でもない。
非常に理解しがたいなら、こんなにありがたがられ、ここまで広まったものか疑問だ。
外国…それも昔の話で、昔の言葉が使われているからな、当時に誤って翻訳されていてもおかしくはないし、翻訳される事による、言語の違いなどから、言葉のニュアンスが変わって、置き換えられた時に意味として狂ってしまう事もある。
他の要素としても、時が経てば尚更の事、言葉への意味は、増えたり変化したりもするだろうしな。
また、医学や化学などのように、俗世と専門的な場では違う意味として使われる言葉も多い。
色即是空と言われても、俺にも大した事は解らんが、「大乗」という言葉もあるのでな。
その大乗という言葉が、仏教で守られてきたというのであれば、人の心を惑わすものではないと考え、そこから解釈する事は出来る。
然るに、とても苦しい思いをしてまで得ようとせずとも、得られる所にあるのでは、と思ったのだ。
まあ、長ったらしく書いたが、これもただの俗世から出た、世迷い言の類だ。
熱に浮かされて書いたようなものなので、的外れだったり、意味が解らなかったらそれでもいい。
小瓶主さんが感じた、その腹減りかなにかも実在に違いないが、特に、度が過ぎて自己中心的で、人の言う事をまるで聞かないとか、人に対して察しろと言わんばかりな感じではないものにとって、エゴを減らそうとするのは自殺行為に近しく思える。
いわば、「エゴ」とは腹が減ったと感じた、その「腹減りの感じを認識した」という部分も含まれる。
極端に例えれば、それが消えるか、完全に押し留める事が出来れば餓死する。
まあ、押しとどめるものもまた、「理性」
という奴で、エゴの一部なのだがな。
ご自身がそれを存じた上で、敢えてやろうとしている事なら、単なるお節介として読み流してくれれば幸いだ。
(俗にエゴと言われる場合、「自己中心的、利己的主義」といった意味を表す、エゴイズムという英語を略して表している事も多いが…、本来エゴという言葉が表すのは「自我。自分自身」といった意味でしかない。俺が使った意味は「自我。自分自身」の方)
そもそも、仏教的に精神と身体を分けて考えたからこその「色即是空」なのかもしれんが、精神と身体が地続き的な繋がりを持っている事に気付かなければ、真に「空即是色」一瞬一瞬が現実だ、なんて感覚は生まれんのではないだろうか。
(よくは知らんが、遠い昔は、宗教的に精神と身体の事を分けて見ていたんじゃないかという時代背景を感じるので、もしするとその2つの和合を考えた、当時として革新的な宗教だったんじゃないかと思ったりもする)
精神と身体、どちらも己であり、身体であり、己が身に含まれるものなのだ。
人間の認識で、分けて見ているに過ぎんのかもしれんな。
どちらを善し悪しとするか、またはどちらの中に悪しきとするものがあるか、善しとするものがあるかなど、それも空の一つよな。
(空や色という字に、善し悪しの意味は含まれないという意味でも)
まあ、インターネット上のブログなどの言葉からなる情報といっても、その実態は、目で見る事の出来る「噂話」や「個人の認識」だ。
要は、一人一人の認識からものを書いて、それを表してるだけさ。
合っている可能性もあるが、間違っている可能性もある。
俺自身の書いている内容に関してもそうだ。
一つの話題にしても、人から人へ伝わっていくに連れ、何かしらの言葉が抜けたり、個人の解釈が加わったり、ちょっとした表現のミスから誤解されたり、都合よく変更されたり、尾ひれが付いたりもする。
自分の認識や相手の認識が間違う場合もあるのでな、そこを判断できる可能性のある、ご自身の感覚も忘れぬよう。
自分と向き合ったり、考え事というのも、真剣にやれば、なかなかに疲れるものだと思う。
その分ご自愛というか、ゆっくり休める時間を取って下さいな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
(また長くなりますのでご留意下さい)
描く顔の向きが偏るとかあるあるだなあ。
俺も左に偏ってたわ。
んまあ、右向きの顔が描きたいなら、一度描いてみて、それを見た時、自分の思う違和感というか、違和感から来る修正点を探していけばいいんじゃないかな。
俺も今現在、左向きの顔に対して右向きの顔が安定しないんだけど、寧ろその安定しない描き方、定まってない描き方から、自分の他の絵柄を模索してみたりしてるから、意外と自分で下手だと思うような絵でも、輪郭の取り方とかを改めて見直したり、考えてみたりするいい機会になる事はある。
あー、そうそう、右向きの顔を描き起こす時にイメージしづらい場合、自分の描いた左顔を反転してみたり…
紙媒体に描いた場合、描いたページをちょっと摘んで、開いた本と垂直になるよう立ててみたりすると解るかと思うが、描いた面の裏側から透かして見ると、反転したものになる。
なので、左顔を描いた後、輪郭を濃くする為になぞってみたり。
正確に反転する為には、丁寧に、慎重にやる必要はあるが、まあそこは切り詰めなくても良しとして、ボールペンとかマジックでなぞるという手もある。
そうすれば、あまり透かそうとしなくても、裏面を見て反転した左顔、つまり右顔を見る事が出来るかと思うので、それをなぞって練習してみるのもアリかと思う。
また、透かす方法にしても、描く為の紙の種類として、コピー用紙…、電話で、ファックスとかに使う、ファックス用の紙とか、薄く、透けやすい紙があるので、それを活かしたり。
裏面からの反転した線を見えやすくする為、表面(既に左顔が描かれた面)に向けて光を当てるという方法もある。
これは…どう説明したものか。
まあ、描いた絵の面(表面)を、太陽の光が差し込む窓ガラスに貼り付けてみれば、よく解るかと思う。
(↑線が裏面から透けて見やすいので、それを利用して、なぞる)
あと、描き方自体のコツというか、俺自身が気にして描いている右向き顔のポイントとして、まず顔の輪郭線の顎。
描き方や、それによる全体的なバランスにもよるんだが…、これが、左寄りにあれば左向きの顔になりがちで、これが右寄りにあれば右向きの顔になりがちかと思う。
また、顔のパーツ…
目や鼻、口など、それらの位置関係が、どちらを向いているかという、人間が絵を見た時の、顔の認識に大きく関わるんじゃないかね。
その点、描いていて気付いたかもしれないが、他に髪の毛の向き、流れや、斉木の特徴的なアクセサリー…、頭のアレや、サイバーチックなメガネ(サングラス?)の向きなども、顔がどこを向いているかという指標になる。
(引き伸ばして言うと、首や身体の向きなどもある程度、向いている向きの認識として関わる)
…で、これは、描き方、表現がいい悪い、上手い下手の話ではなく、要素の話として聞いて欲しいんだが。
何となく、今まで見てきた分、小瓶主さんの描く癖として、今まで左顔に偏ってきたからか、そういった左顔を表すパーツの位置どり、バランス感を元にして描いている事が多いように見える。
具体的には、輪郭として顎が左寄りで、顎の位置が左側にある事によって…
顎を中心とした時
「左側の顎から頬までのラインが短く、コンパクトな中で膨らんでいる事」、「それによって左頬から頭へのラインがシュッとしている事」に対し
「右側の顎から頬までのラインが長く、左よりも大きくなだらかに膨らんでいる」、「それによって右頬から頭にかけてのラインもゆったりと膨らみ、顎を中心とした輪郭の距離感が、左よりも広くなっている事」
…などから、まず輪郭としてどちらを向いているように見えるか、大まかなバランスが決まるのではないかと思う。
輪郭に関して右を向かせたいのであれば、それと逆の事をすればいいという訳だな。
(なので、描く手でその感覚を掴む、理解するためには、透かして反転したものをなぞるのが手っ取り早いんじゃなかろうか)
また、少し斜めを向いた自分の顔を、鏡で見て頂けると、向いている方向の耳…
斉木でいえば、絵を見て左側の耳(斉木にとっての右耳)が、顔や頬の立体感によってあまり見えず、逆に右側の耳(斉木の左耳)はよく見える。
このような現実における違いを、それなりに表すのも、向いている方向を示すポイント、要素になるぞ。
で、頭の形が気になる旨を抱えてらっしゃるというのは…
頭部の輪郭への認識、という事なら理解できるので、その点に関して書くと。
絵を見た時の右側の目(斉木の左目)が、鼻を顔の中心とした時、左側の目(斉木の右目)より、距離が離れて感じる所から来るものだろうか。
左側の目が、メガネに収まっているのに対し、右側の目は収まっていない。
メガネを抜いて見た時(俺がそうイメージした時)は、目のバランスに対して何も思う事がない。
ただ、メガネから見て、鼻を中心とした時、目の位置と合わせてみると、何か違和感、目が離れているのではないかと感じてしまう。
…恐らく、メガネを描く前、顔全体の輪郭を元に目の位置を描いたか、目を描いてから、それを軸として顔の輪郭を描いたのではござらんか?
まあ、そうでなくとも、例えばの話として。
顔にパーツを描き込んだ後、鼻の場所を軸にしてメガネを描くと…
先ほどの例の、メガネと目、など、別々の軸を基にして描いたパーツは、その軸からなる向きを元に存在する。
なので、別の軸からなるそれぞれの向きが異なり、浮いて見えやすくなる事、違和感として感じる事はある。
この場合…、目の位置が鼻を中心とした時にズレている感じを直す為には、目の位置を直すか、鼻の位置とメガネを直すか、をする事になるかな。
要は、違和感を直したいのであれば、どこに軸を合わせて修正するのかという事になる。
(どれを直せばいいのか、という事に、明確な正解はなく、また軸自体の違いをどう直すか、あるいはどのような表現で纏めるか、全体として合っているように見せる、表現して描くかというのは、それぞれ個人の絵柄、描き味に関わってくるので、申し訳ないが、自分としてこう思うという事しか言えない)
あと、耳の大きさ。
さっき書いたように、この場合だと、現実的な感覚で言えば、右側の耳の方が大きく見える…というか、見える面積が大きいと思う。
(2つの耳を合わせてみた時の、対称性というのか、付いている場所の高さの違いも少し気になる)
なので色々書いたそれらによって、立体感というか、現実感から総合的に顔の向きを意識した時、認識の歪みというか、違和感が出ているのかもしれないな。
細かい部分は抜いてまとめると、大まかにいえば、輪郭による顎と、鼻の位置が、顔の中心を作るというか、絵を見て顔を認識した時の、中心への感覚に繋がるのだと思う。
なので、逆に言うと、バランス感を気にする為には、そこら辺を中心として、顔のパーツを描き込む意識が大事かもしれない。
頭(おでこから上の形)という点では、個人的に気にならなかったかな。
ただ、もし小瓶主さん自身が、頭(おでこから上)の形を気にしているのであれば…
描いた軸の違いから来るパーツそれぞれの、向いている顔の向きの表れによる違和感に加えて、髪の毛を含めてみた時の、頭のバランスに対しても何か気になる点があるのかもしれないと思う。
そういう場合はまず髪の毛を除いた、頭も含めた顔の輪郭、いわば頭部の輪郭(卵をひっくり返したような形)をまず描いて、目などのパーツを描き込んだ後…
つまり、スキンヘッド状態の人に、髪を付けていくと、髪と頭とのバランスが測りやすい、バランス感が取りやすいかもしれない。
あと、輪郭を描いた後、目や鼻の位置を決める為、下書きとして、顔の輪郭の中に収まるような「T」を描くのもありかな。
Tの字の、縦線の下先が、丁度顎に来るような…、要は顔の中心に来るように描いて、それを基に鼻の位置と、目のバランス、位置取りをするというかね。
Tの字の横線は、目の位置の高さの目安に使えるぞ。
(慣れてきたら、下書きしなくても、ある程度感覚で描けるようになるかもしれんが、慣れてきてもバランスの気になる時は使える)
ご自身で上手く行かないと思う箇所があれば、正直今の時代、目や顔バランス、髪の描き方、身体の諸々のパーツ、男女の体を表す違いなど、イラストを描く為のコツがネットにゴロゴロ転がってるだろうなので、検索してみるというのも手だ。
俺よりも上手く説明されている方や、サイトも多いし、実際俺もお世話になった。
いやー、しかし、服のシワ、シャツのえりの向きなどから、服に動きが付いて、また一段上手くなったように見える。
袖端の膨らみもしっかりと表されている。
服や肌の影の輪郭というか、境界がある事で、影がどこに付いているのかもパッと見解りやすい。
この、全体的な顔バランスだからこそのそう見えるという所もあるかもしれんが、鼻の表現もなかなか好みだな。
よく漫画だと、鼻の穴を描かれていないというような、簡略化された鼻の表現も多いかと思うが、あれは鼻の穴を描くと、絵柄のバランスとしてリアル感が高まる為、そのバランスを取る事が難しい、というのもある気がする。
その点、上手く鼻の穴があっても違和感のない表現…、影の付け方や鼻の線の取り方、鼻の穴の場所だと思うのだ。
あと、何かステップアップというか、付け足せるかもしれない、良くなるかもしれない事を思うとすれば…
服を纏っていない…、もし来ているものが長袖であれば、腕まくりしたご自身の腕の、肘周りを、伸ばしたり、曲げたり、ちょっと角度を付けたり、変えたりしながら、色々見てほしい。
肘を外側とした時、内側の折りたたまれるというか、内側に曲がる部分に窪みがあるのが解るだろうか。
(足で言えば、膝裏というか、骨の出っ張ってない側の方)
慣れないうちは立体感をイメージするのも精一杯というか、腕がどこを向いているのかという事をなかなか意識して描きづらいかもしれないが、あの窪みを描き込めると、メリハリがついて、腕が何処を向いているのかという事が伝わりやすくなるかと思う。
(よりリアルさを意識した場合、光の当たり方にもよるが)線で表現するとか、影として表現するとか。
また、腕自体にも、少し筋肉の付き方の特徴がある。
(現実的に考えると、個人差によって結構差はあるが、人間全体としての、大多数というか、一般に広く認知されているだろう特徴)
手のひらを上に向けて、目の前に真っ直ぐ腕を突き出すと、シルエットとして、肩は少し膨らんでいて、そこから肘にかけて細くなり、肘で膨らむ。
膨らんだ肘から、なだらかに、手首にかけて細くなって、手首に近付くにつれ細まる度合いが低くなっていく。
極端な話、長めのワインボトルというのか、お酒や茶色い醤油瓶などの、あの底が膨らんで、飲み口に掛けて細くなっていくというような形だ。
より近いもので言えば、使用していない、某キューピーマヨネーズやケチャップなどの容器が妥当か。
厳密に腕は、あの瓶のように、完全な丸という形や、マヨネーズ容器などのように左右対称で均一な形をしていないので、よく見ると…
手のひらを上に向けて、腕を正面に伸ばした時、小指側の肘付近の膨らみが、親指側の肘付近の膨らみと比べて小さく、膨らみ方もなだらかだとか。(個人差あり)
他にも手首の向きや曲げ方を変えたり、見える角度が変われば、また別の形になるのだが…
まあ、手のひらを上に向けて、まっすぐ伸ばした時のシルエットを、輪郭として表せば、だいたい肘を含んだ手首までの形、シルエットは、マヨネーズ容器のようになるので。
手のひらと肘裏が絵の正面を向いている場合に、そのように意識して描けば、より、リアル感や立体感が増して見えるかもしれんな。
あと、シャツという点で言えば…
これは…、漫画媒体としての表現を詳しく見た事はないので、ちょっと口出しにくいんだが、原作絵の表現として、服のボタン周りを省いて描かれている事が多いように感じる。
(そういう服として描かれている)
この、服のボタンというのは、服の正面、今回の絵で言えば、シャツの真ん中の線、開いた服を止めている場所のシワに直結するので。
原作にそういった表現がない訳ではないのだろうが、服という点から見ると、斉木の原作絵、もしくは公式アニメでの絵以外…
この方の絵や、絵としてのシワの表現も上手いのだけれど、表現の出てない所はあるように見えるのでね。
要は別作品や、別の方のシワ表現も参考にすると、シワのバリエーション、描き方として学べるものは多くなるかもしれんよ。
まあ、正直言って、原作絵通りに描こうとせんでも問題はないしな。
気が乗るようであれば、また、まだまだ斉木を描きたいのであれば、自分の思う服を着せた姿を描いてみてもいいかもしれん訳だ。
最後になるが…
手を隠したな、キサマーッ!!
…いや、別に難癖つけたい訳じゃないし、描いていて全体像が大きくなると、画像として上げれば粗くなるだろうしな。
細部が見えづらい場合もあるし、見せたいものを見せるのも、隠したいものを隠すのも表現の一つだろうから、気にはならん。
ただ、解っておられるだろうと思うが、上手くなりたいのであれば、見せようと見せまいと、それはそれとして、ご自身の納得いくというか、違和感を薄めていく為、描きたくなった時、練習はしてくれな。
…俺みたいに、顔ばかりを描いてたり、モンスター的なのを描いているばかりだと、人間の全体的な身体やら服やらが疎かになるからな。
その全体的な、総合的表現のうまさというか、習熟のバランスというのかも大事だぞ。
好きなキャラを描いて、ポーズを取らせたいとなってくると、割と苦戦したりする。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
ちょっと笑った。
ゲジゲジか、アシダカグモか、最悪ムカデか…
虫には虫をという手もあるぞ。
…まあ、ゴキブリが多すぎる場合、捕食対象というか、食料が豊富にあるという事で、そいつらが逆に増える場合もあるんですがねー。
(番いがいたり、出来たり、腹に卵抱えてる場合であれば)
ただ、ゴキブリを食べる事から、ゴキブリの生息圏に近い所に出やすいというか、出る時は出るが、あんまり人の目に付く所には出ない事の方が多い気がする。
ムカデは危ないので除外するとしても、ゲジゲジやアシダカグモは、いざ見た時ギョッとするかもしれんが、もし家にいたら叩き潰さんといてな。
あいつら、ゴキブリのハンターだから。
しかも、大体ゴキブリいなくなったら勝手に去ってくから。
ゲジゲジとアシダカグモは、人の感性にもよるが、見た目以外に大した害がないどころか、ゴキブリの実害(食中毒など)と差し引いて、マジで益虫だからな。
また、ゲジゲジはシロアリなども食べてくれるそうだ。
最近、ゴキブリの中に、毒物への耐性を付けて来た奴とかもいるらしいからな…。
殺虫剤などが効かない、効きにくい場合もあるそうだ。
とにかく、このゲジゲジとアシダカグモ、二つの虫は、殺そうとしてやるなよー。
殺してしまうと、ゴキブリが繁殖しやすい環境を整える事になりかねんからな。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
そうか、相談はしたんだな。
では、復縁したい相手さんに対して、何かしら接触しようとはしただろうか。
あるいは、相談する事、また、ご自身で調べたりされて、どのようにか、復縁したい方へ思いを伝える方法なり、復縁に至る可能性がある行動なりを、神社へ願う事の他に、思いつく事は出来ただろうか。
(もし復縁のために、復縁されたい相手さんへ思いを伝えるなりの行動を思い付き、もう既に接触をしたというのなら、ここから先は要らぬお節介なので、読まなくて構いません。また、以前のお返事は的外れであっただろうなので、申し訳ありませんでした)
思いを伝えよう、その為に接触しようとされる事で、懸念はあるだろうし、相手さんから突っぱねられる事もあるかもしれない。
不安もあるかとは思うが、どう悩んだとして、やってみないと解らないというのもご存知の通りだろう。
ただ、例え相手と復縁できるかどうかというのを抜きにして…、言い換えるなら、諦められないかどうかを抜きに考えて。
お相手の事を、幸せであってほしいと、そういう思いは、小瓶主さんの中にあるだろうか?
相手さんが良い人だ、尊敬できたり好きな面がある人だと思うのであれば、それなりの関係として、知り合いか、少し距離感の遠い友人関係か、それぐらいとして付き合い始める事は出来るんじゃないかと思う。
もし拒否されたら行動としては諦めるとか、相手側に、接触するのも辛いという気持ちがあるのなら、それを尊重してあげた方がいいかと思うので…
(復縁というのも、相手あってのもの、意思を無視できるものではないだろうなので)
よりを戻したいにしても、浅い関係からやり直そうとするにしても、まず相手の意思、意見、気持ちを聞いてから判断した方がいいかと。
小瓶主さんご自身のみに、よりを戻したいという気持ちがあって、それを別れた相手の立場としてぶつけられても、一度別れた思い、それなりの理由や葛藤から受け入れ難い可能性もあるかと思うのでね。
本当に、相手さん自身の幸せを考えられるのであれば、相手の意見、拒否をも受け入れてあげられる為、それなりの覚悟は必要かもしれない。
再度書くが、やってみなければどうなるかは解らないし、一度ダメだったとしても、その後の、人としての付き合い如何では、復縁まで行かないにしても、多少なりともマシな関係性になる事はある、かもしれないと思う。
まあ、もし本当に神様がいるとすれば、事あるごとに様々な、多くの人から願掛けばかりされても…、例えその神さんに願いを叶える力があったとして、手など足りるかも解らん。
願いをどうこう以前に、そもそもが忙しいかもしれない。
俺も勘違いしていた事はあったが、願いが聞き届いたとしても、神様というのは願いを叶える為の機械や道具ではないだろうし。
また、聞いた話では、願いばかり投げ掛けられる故にか、大きな神社であっても、そこに崇め奉ろうとするご本神の存在を感じられない場所もあるという。
ただ、神さんがいると仮定して、分けられた御霊というのかね。
どんな人に対してでも、ずっと見守ってはいてくれているんじゃないかと、個人的には感じている。
頑張って…というのは少し変か。
好転があるよう、祈ってみるよ。
・・・
小瓶の中の手紙を読む
烏羽
再々、お返事どうも。
はは、いや、名前に関して、そんな大した事でもないので、あまり気に病まぬよう。
…俺自身も、なみだうさぎさんなのか、なみだいぬさんなのか、お返事欄を見ている途中、お二方がごっちゃになって混乱してたので(苦笑)
納得ではなく理解だったか。
そうだな、自分を愛そうとしなくても良いというか…、愛そうとする事は出来るのだが、それを抜きにしても愛はあるというか。
愛そうという意識や、行動がなくとも、生きている以上、それなりの愛は持っているもの、と言えば、多少解りやすいだろうか?
そう解釈している、という事を伝えようとしていた。
その愛が、自分へ向かった形…、もしくは、自分への愛が滲み出てきたものの形が、自立心、自律心(あの時は言葉が出てこなかったのでそう表現したが、自身への否定なども含む、理性のようなもの)や、肯定、思いを守ろうとする事などに繋がっているのではないかと思う。
自己中心的というのは、悪い意味でのものではないよ。
自分を中心としてしか、人は相手の気持ちを考える事が出来ない、と個人的な経験として思っている。
なので、それを自己中心的、あるいは自己主体的な思いと表した。
「自分の認識から人の思いを推測している」という説明になるかと思ってね。(誤解を生んでしまったが)
自己中心的な事が悪いという事でなく…、それが人間における、一つの認識の仕方で、どこまで客観的になれたとしても、自分を中心とした認識でしかない、という感じかな。
それを踏まえた上で、推測というこの認識の仕方が、要因はさて置き、結果として、都合の悪いものと繋がる可能性はあるよ、というか。
「自己中心的」というものに対して、そういった繋がり、結果から、良し悪しを付けている、都合が良いか悪いかを認識しているのは、個人個人だと思う、と。
(だから、俺の場合は「かもしれない」という、自分の推測、認識である事を気に留めておきたいと思っている)
なので、自己陶酔や、自己愛(←自分への愛という事ではなく、ナルシシズムの事。要は、自分自身を性的に見る事を含めた自己陶酔、という認識で俺は使った)
などと同じく、「自己中心的」という事そのものには、良いものも悪いものも何もない、というか。
…自己愛というと、「自分自身への愛」という認識をしてしまうかもしれんし、俺もごっちゃになる事があるが、前の返事で書いた自己愛は、「ナルシシズムを漢字で表した、略しただけのもの」という事と、「自身へ向ける性的な愛を含めた自己陶酔」として、使ったので…
多分、そこが説明されてなかった為に、より解りにくくなったかと思うので、少し書くと。
自分へ向かう愛、というカテゴリーの中に、自己への肯定、自分を守る事、自分を律する理性、と言ったものなどがある。
また、それらの合わさった、細かい形として、自己陶酔や、自分への性的な愛、他には自尊心、受け入れる心や受け入れたくない心などと言ったものがある。
…と、俺は認識してして書いた、という事だな。
なので、「自分へ向かう愛」というのは、自己陶酔や自己愛ではなく、それらも含めた「細かく分かれていない中で、結果的に自分へ向いている愛」だと思って読んで欲しい。
(そのつもりで書いた)
俺自身、あまり説明が上手いとは言えん事と、感覚的なものを言葉にしようとするとどうにも纏まらなくてな、読みづらかったと思うので申し訳ない。
長ったらしい文に付き合ってくれてありがとう。
…あと、そうだ。
自分自身というのは、様々な人との関わりで出来ていくものだと思う。
であれば、それは、他の人の経験などと共にあるという事かもしれない。
…なんか、アニメの主人公が、ラスボスなどのデカイ敵を倒す時、みんなの思いが詰まったパンチを繰り出すとかあるじゃん。
アンパンマンとか。
ああいう感じで、人から貰ったような要素が自分の中に活きている事もあり、そういった視点から、例え、一人であっても孤独ではないと思う。
そういったように、それで、湧き上がる不安な気持ちが落ち着くかは解らんが…、孤独ではないと考える事は出来るんじゃないだろうか。
ではな。
デュワッ!(ウルトラマンの別の声)
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