全てはニュートラル。善も悪も、過去も
未来も今感じているだけで実在しない。
今でさえ、脳が見せている夢、と言える。
逆に言えば、感じるから実在し、それが
真実となる。使命。それが知りたくて
喉から手が出るほど欲してきた。本当の
自分が何なのかを発狂しながら、絶望
しながら、横道に逸れながら、探る日々。
ニュートラルとは色即是空。頭では分かっ
ていたつもりだったが虚無感に襲われて
しまった。エゴが残っていると、空のまま
止まってしまう。空即是色。意識できる
自分が実在しているという錯覚、執着。
最近浮かんだビジョンは、自分の顔に
触れた瞬間、土のようにボロッと簡単に
崩れ落ちる。信じていたものは幻だったと。
顕在意識のレベルが下がる時。眠りに落ちる
瞬間あるいは目覚めた直後の状態。お腹の
辺りから発せられているメッセージ。これが
使命であり、本当の自分である。
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ななしさん
本当の自分
とは、自分がそう思っていたいからという感情もやや入っている。
性格だって一貫していないだろう。
みんな見せる顔なんて人によって変わるものだろう。
自分はこういう人間だ
と断言してしまえば楽に生きれるからだよ。
それ以上に無理しなくていいし、それ以上を期待されずに済む。
自分は人があまり好きではない。
話に多少は合わせなければ共感性の低い奴認定はされるし、自分の思っていたことをツラツラ言えば裏ではなにを言われているかわかったもんじゃない。
普段穏やかに過ごすのは疲れる。
というよりか人と過ごしていくのも疲れる。
他人と一緒にいるために割くコミュニケーションやら、他人の話を聞くこと、自分を見せること、全て疲れる。
どれかが欠けると他人はすぐに不満を言う。
他人と一緒にいるのはたまにでいい。
一緒にいて幸せ なんて嘘である。
そう思っていたいから意識的にそう思い込んでいるだけだ。
一緒にいて幸せ になるために使ってきた労力は無駄に近い。
幸せなんかちょっとしたことで影を帯びるからだ。
幸せ は、お金で買える。
(あまりこういう、人の背を押そうとするように感じる小瓶へ、口を出すのもどうかと思ったので、極力注意してみたものの、不快に思われるかもしれない懸念はありますので、もし読まれる際はご注意を)
善悪、良し悪し、それは確かに人それぞれが生み出した、各々の持つ夢幻のようなものだ。
だけど、己が自意識、エゴ、その一部でもある。
認識とは己が分け身、己が経験、己が感覚と結び付く。
確かに物質としては、概念というものは存在しないが、各々のうちには存在するものだし、それに則って行動を起こすものだ。
小瓶主さんが根とする、支えとする宗教、あるいは考え、人生理念に対して、良し悪し、是非は言わん。
(そんなものは当人次第なので、俺には解らんから、口出しする事はない)
だが、空とは虚ろなものを指すだけで、完全なる無ではないと思う。
言わば、空とは、表すものを含んだ「言葉」だ。
(バーチャルリアリティ的な感じとも)
改めて言われるまでもないかもしれないが、感じる事が実在しているのであって、感じる事で実在となる訳ではない。
簡単に言えば、言葉は言葉でしかなく、それにどのような思いを込めて使っても、端から見れば、端から見た人の感じる思い、意味を持って理解される。
認識は認識でしかなく、それは人の目を通してみた景色と同じで、鳥や虫、他の命、それぞれから見た景色とは異なる。
あるいは、こう書けば伝わりやすいか。
己が認識は己が認識で、実際のものと擦り合わせ、正しいか間違っているかは別、と。
それが「空」。
そして、その空は、仮の姿を示す「言葉」(言葉もまた空の内)であって、現象として実在のものだ。
仮の姿、夢や幻、感じられるものとしてそこにある。
仮の姿というのは、永久不変の実体や、永久不変の自我などないという事だ。
詳しくは解らんが、俺なりに解釈する所、「色即是空」とは実体や自我の否定ではなく、実態や自我があるという上で、それらが形を変え行くものだ、という事を示しているのではなかろうかと思う。
要は、「体は老けるし、絵の具を塗っても時が経てば色褪せるし、岩も風化していく。心は悲しんだり喜んだりする」という事だ。
で、「空即是色」とは、全ての存在は移ろい行くその現象で、目に見えるものは仮の姿であり、その「空」という意味が心底から理解できてくると、仮の姿を現し移ろうその現象が、そのまま実在の存在であるという事が納得できる、という事かと。
己が思い、意識は錯覚などではないよ。
それも己が身、体が物質としてある為の、表されている一つの形、現象よ。
だから実在する。
だが、自分の意識を錯覚とすれば、錯覚として、己が認識となる。
ニュートラル…、自分にとって何が自然体なのかの意識を変化させる事ができるように、自分にとって何が錯覚なのかという事も変化させる事ができる。
認識があるという事。そしてそれを頭の中に作り出せるという事。それを元に行動する事。
全て実在だ。
自分というものを「空」とするのなら、そうなる。
それが解ったという事も含めて、「空即是色」かと思う。
もし、己が身、エゴ(自分という意識)を消すとなれば、全てはなくなる。
それは、「空」ではない。
何もない、というだけになる。
以上が俺の考えで、それを元に考えた本当の自分とは、「善し悪しの付かぬ自ら」と、「善し悪しを思う自ら」、見えて触れられる実在と、見えぬが気としてある実在、その二つを合わせたものよな。
勝手推測するに、小瓶主さんが…執着というよりか、その念頭から離れぬのは、己とはなんなのかという事からくる不安かもしれないと思う。
仏教感からすると、体と、そこからなる状態や動き、物質は空だ。
(ややこしい話、小瓶主さんは、「物質」を実在としておられるようだが、昔の仏教感から見ると、その当時の背景からなのか、「意識」的なものが主体として、実在として物事が語られる事が多いかも。今はインターネットなどで、マインドだのなんだの言われているのかと思うが…、あれは多分、今の時代背景に合わせて、解りやすくする為に言葉を並び替えたり、変化させているのではないかと思う)
また「空即是色」という考えから見ると、「本当の自分がなんなのかと探す」それは、エゴ、己、つまり自意識、自分の一部を表すものであり、実在のものとされる。
だがそれは、己が身、体もあってこそ生ずるものでもある。(言葉だけだとあまりピンとこないかもしれないが、多分これを体験などから、各々の解釈や言葉、意味で理解した事が空即是色だと思う)
即ち、ここ最近の実在は、「本当の自分を探してきた小瓶主さん」という現象ではないかと考える。
エゴを悪と捉えるも、「空」の内よな。
善と捉えるも「空」の内。
真実は一つなどではないよ。
一つと決める事も、「空」という現象の内なのだから。
まあ、一つではないと決める事も「空」なのだがね。
悟りだとかなんだとか言われ始めて、なんだか高尚なものに、特別な、妙に神聖な壁のあるものになったんじゃないかという気もするが、そんな大それたものではないんじゃないかね。
一瞬一瞬を生きているという事への自覚だよ。
その心からの自覚が、仏教で言うニュートラルなのではないかと思う。
(言葉はあくまでも「空」なので、自覚の体験が、どういったものなのかは自分で考えろ的な部分も多分あるんじゃないかと思うが、現代はそこら辺が優しくなってる気がする)
なにより、宗教とは人の心の支えだ。
俺の思う所の宗教、その内の仏教とは、本来的に人の心を惑わすものではないし、理解しがたいように出来ている訳でもない。
非常に理解しがたいなら、こんなにありがたがられ、ここまで広まったものか疑問だ。
外国…それも昔の話で、昔の言葉が使われているからな、当時に誤って翻訳されていてもおかしくはないし、翻訳される事による、言語の違いなどから、言葉のニュアンスが変わって、置き換えられた時に意味として狂ってしまう事もある。
他の要素としても、時が経てば尚更の事、言葉への意味は、増えたり変化したりもするだろうしな。
また、医学や化学などのように、俗世と専門的な場では違う意味として使われる言葉も多い。
色即是空と言われても、俺にも大した事は解らんが、「大乗」という言葉もあるのでな。
その大乗という言葉が、仏教で守られてきたというのであれば、人の心を惑わすものではないと考え、そこから解釈する事は出来る。
然るに、とても苦しい思いをしてまで得ようとせずとも、得られる所にあるのでは、と思ったのだ。
まあ、長ったらしく書いたが、これもただの俗世から出た、世迷い言の類だ。
熱に浮かされて書いたようなものなので、的外れだったり、意味が解らなかったらそれでもいい。
小瓶主さんが感じた、その腹減りかなにかも実在に違いないが、特に、度が過ぎて自己中心的で、人の言う事をまるで聞かないとか、人に対して察しろと言わんばかりな感じではないものにとって、エゴを減らそうとするのは自殺行為に近しく思える。
いわば、「エゴ」とは腹が減ったと感じた、その「腹減りの感じを認識した」という部分も含まれる。
極端に例えれば、それが消えるか、完全に押し留める事が出来れば餓死する。
まあ、押しとどめるものもまた、「理性」
という奴で、エゴの一部なのだがな。
ご自身がそれを存じた上で、敢えてやろうとしている事なら、単なるお節介として読み流してくれれば幸いだ。
(俗にエゴと言われる場合、「自己中心的、利己的主義」といった意味を表す、エゴイズムという英語を略して表している事も多いが…、本来エゴという言葉が表すのは「自我。自分自身」といった意味でしかない。俺が使った意味は「自我。自分自身」の方)
そもそも、仏教的に精神と身体を分けて考えたからこその「色即是空」なのかもしれんが、精神と身体が地続き的な繋がりを持っている事に気付かなければ、真に「空即是色」一瞬一瞬が現実だ、なんて感覚は生まれんのではないだろうか。
(よくは知らんが、遠い昔は、宗教的に精神と身体の事を分けて見ていたんじゃないかという時代背景を感じるので、もしするとその2つの和合を考えた、当時として革新的な宗教だったんじゃないかと思ったりもする)
精神と身体、どちらも己であり、身体であり、己が身に含まれるものなのだ。
人間の認識で、分けて見ているに過ぎんのかもしれんな。
どちらを善し悪しとするか、またはどちらの中に悪しきとするものがあるか、善しとするものがあるかなど、それも空の一つよな。
(空や色という字に、善し悪しの意味は含まれないという意味でも)
まあ、インターネット上のブログなどの言葉からなる情報といっても、その実態は、目で見る事の出来る「噂話」や「個人の認識」だ。
要は、一人一人の認識からものを書いて、それを表してるだけさ。
合っている可能性もあるが、間違っている可能性もある。
俺自身の書いている内容に関してもそうだ。
一つの話題にしても、人から人へ伝わっていくに連れ、何かしらの言葉が抜けたり、個人の解釈が加わったり、ちょっとした表現のミスから誤解されたり、都合よく変更されたり、尾ひれが付いたりもする。
自分の認識や相手の認識が間違う場合もあるのでな、そこを判断できる可能性のある、ご自身の感覚も忘れぬよう。
自分と向き合ったり、考え事というのも、真剣にやれば、なかなかに疲れるものだと思う。
その分ご自愛というか、ゆっくり休める時間を取って下さいな。
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