はじめて小瓶を流します。
私は三十路あたりの年齢の女性です。
小さい頃から、「出来、不出来」の評価しかされてきませんでした。
出来て当然で、不出来であれば怒鳴られ叩かれました。
だから、必死で勉強して、実家から通えない遠方の大学に進学しました。
成人式の日、母は私に「育てたのが失敗だった」と言いました。
私は失敗作でした。
新卒でついた職業は民間の教育業です。
子どもたちは可愛いかったです。
でも成績を上げる仕事です。
私も「出来、不出来」で子どもを評価する大人になってしまいました。
でも成績以外の子どものよいところも、たくさん見ようと努力しました。
上司は私の入社時「不細工がきた」と言いました。
会社に馴染めませんでした。
うつ病になり、自殺未遂をし、休職しました。
少し元気になったので、こんな会社から離れようと思いました。
人を「出来、不出来」で判断しない仕事をしようと思い、心理学を2年独学で勉強し、大学院に入りました。
大学院の2年間、学費のために非常勤で働きながら勉強と研究に明け暮れました。
勉強すればするほど、自分の病的なところばかりが明らかになりました。
修論を提出してすぐに私は倒れました。
死にたくて、死ぬ気力も失って動かなくなり、入院治療を受けました。
今は療養生活です。
目指した仕事は出来ません。
成人式に母が言った「失敗だった」が頭を巡ります。
母はもうそれを忘れているようでした。
主人も友人も優しく理解ある人なのに、私だけが私を許せません。
必死でお金を貯めて勉強して、その結果わかったのは「やはり私は失敗作だ」ということでした。
でも、なんとかしろと世間は言います。
老後の2000万があってもなくても、放火で大勢の方が犠牲になっても、生きている人間はなんとか生きなきゃならないらしいのです。
失敗作でも名作でも関係なく。
難しい。
私は、こんなことになるなら、母のお腹の中にいるときに、へその緒で首でも吊っておけばよかったと思うのです。
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ななしさん
「出来・不出来」で判断する価値観も、許してみませんか。
実際、100%出来・不出来が絡まないことって、あり得ないと思うんです。
屁理屈かもしれませんが、「出来・不出来で人を見ない人」になれるかなれないか、だって、出来・不出来のうちですよね?
重要なのは「出来・不出来」を判断する行為そのものじゃなくて、その後の対処のはずです。
あなたのお母さんがいつも「出来・不出来」でしか判断しなかったからというより、そこで思考を止めてしまうから、出来た理由も出来なかった理由も一緒に考えてくれなかったからこそ、あなたは辛かったのだと思います。
基準のラインを設定して能力を精査し、なぜ出来たか、なぜ出来なかったか、そう考えること自体は、その後の適切な対処を考える為に大切なことだと私は思います。
主さんだって教育の場にいた時は出来たら褒めて、出来なかったら慰めたり叱咤激励したり…だったでしょう?対処が違ったはずです。
何だか自分の現状を見て「失敗作」「出来ない」と思うこと自体に、多大なストレスを抱えているように見えます。なぜならそれは主さんにとって悪だから。出来・不出来で判断するのは悪だから、自分に「不出来」と烙印を押すのだって当然しんどくなる。
でも本来は「不出来」と判断した所から全部始まるんじゃないですか?ひとつひとつの項目について出来る出来ないで分けるからこそ、出来ないことがわかって、それが出来るようになるにはどうしたらいいかもわかるんですから。
「出来・不出来で判断することは、必ず傷つき傷つける」という考え自体をとっぱらってみませんか。
それも必要な思考のひとつだと思えたら、自分自身への対処も変わってくると思うので。
私も、自分のことをみっともないくらいに不出来だと思ってます。
しかし、自分の至らないところにうんざりし、絶望し、
傷ついて、
自分を傷つけて、
どろどろに苦しみぬいてきたからこそ、
人の痛みが少しはわかるようになれたと思っています。
人の痛みのわかる人は、この世の中に必要だと思うのです。
私が苦しんでいるとき、
隣でただ寄り添うように座ってくれていた人、
差し出した手を握り返してくれた人
そういう人たちは、やはり人の傷みを知っていて、
自分自身が血を流して生きてきたと思います。
苦しみの真っ只中にいるときは、
もう無理早く出たいと思いますが、
失敗作などいないし、
人一倍努力されたあなたは、自信もっていいと思います。
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