宛名のないメールにお世話になり始めてから
私は変化しているのだろうか。記録に残せる
おかげでこういう風に振り返りができること
自体がありがたい。人間根は変わらないとも
言うし、ひと時も同じ瞬間はないとも言う。
きっとどちらも正解だろう。最近、変化のない
毎日が苦しくなって転職した時の停滞感と
似たような状況になってきた。
分からないことの慰めに宗教や哲学はあるの
かなと思う。目に見えないものとして。自分
以外のものに頼ったとして現実が勝手に変わる
わけではない。何か同じパターンが潜んでいる
気がしてならない。逃げ道がなくなることへの
恐れ。現実への逃げ腰。だって先人たちの
生きてきた道を見たら、繰り返しているのは
一目瞭然。苦しみ。煩悩から逃れることの
できない生命。泥水から力強く咲く蓮の花に
なる。それしかない。どんな道を進もうと
そうなることが分かりながら、どう一歩を
踏み出せばよいのか。蓮の花になったからと
言って何だと言うのか。気分で物事を理解
しようとしてはいけない。疲れてしまう。
リセットしたい。変わりたいというより何者
でもありたくない。繰り返しというのは結局
上を目指さなければならないということだ。
今より良くならなければ停滞、降下。上を
目指すのは苦しい。だから何のために生きて
いるのだろうとなる。上に進んだところで、
その上は無限に続いていくのだから苦しくて
当たり前だ。ある意味この感情は至極真っ当
である。では、どうするのか。何となくこれは
愛されることを自分に許可することに似ている。
今までそれを拒絶することによって上を目指して
来たのだ。もう愛されてもいい、上を目指さなく
てもいい。自分設定を変えること。それができ
たらどんなに楽だろうか。とても怖い。上を
目指すことを、愛されないようにすることを
手放すのは死ぬほど怖い。それが私にとっての
生きる意味だから。違う言い方をすればそこに
幸せはないんだよというのは私には慰めにしか
聞こえない。病んでいる、心が。可哀想。本当に。
負けたら終わり。人間失格。なぜそんな風に狭い
視野でしか物事を見られないのだろう。不器用。
幸せを求めるなら、幸せの定義を変えないと
いけない。そもそもそんなことができるの
だろうか。どこまでも退廃的。ただ責めても
仕方がない、何も変わらないから。最初から
責めてなどいない。幸せ。。。そもそも何なのか。
教科書的な意味ではなく、例えば比較できる幸せ
は幸せではないとか、そういうことではなく。
美味しいものを食べて出かけて体を動かして、
よく寝てよく笑う。そういうことではないの。
何を持っていないから幸せになれないというのは
幸せじゃない。何を持っているから幸せという
のも。病んでる。。。