ボクは自分を無にすることにした。
理由はその方が自分を攻めなくていいと思ったからだ。
もうどうでもいい。自分を労ることも、他人とぶつかることで自分を傷付けることも、もうどうでもいい。
心が壊れようと、身体に悪影響が増えようとも、自分と言う人間を無にして動いて行くことに決めた。
この考えは間違いだろうか?
それとも諦めの境地なのかは分からない。
でも、前よりは少しだけ気分がいい気がする。
でもこれでさえも気のせいのような気がする。
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Orange7
自分を無にしていれば何も怖いものはない・・・
だけどそれは「逃げてる」ってことになると思います。
もちろん貴方の判断が間違ってるわけではありません。
生き方も色々ありますし。
正しい生き方なんてありませんよ。
自分が生きたいがままに。
ななしさん
ボクさんへ。
よく頑張ってきたと思います。ボクさんは。
だけどもね、ボクさんの知らないところで、悩んでいたりもするものです。
だけど悩んでいる事すら見せないような人いるでしょう?それはボクさん自身もそちら側の人かもしれない。そしてボクさんを悩ませている人も、そちら側の人なのかもしれません。
人はお互いを理解し合うことを美徳として捉えようとするけども完全に分かち合うことって出来るのでしょうか?
自分はそれは理想であるが現実は理想とのギャップが開けば開くだけ辛くはなるし、期待していたものと違うなと感じるとやはり自分の心が拒否してしまったほうが解決に至るし自分は傷付かずにいられるし嫌な面は見ないでいいし…と、逃げ腰になりがちです。
浅く付き合えば、そこまで気にいらなくはならなかったことも、深い付き合いをすると気になって気になってどうしようもいられなくなるのに、人はなぜ深い付き合いをしたがるのでしょう?
自分を労わるということは、100人いたら100人全員が簡単に出来ることでもありません。自分もですねー…自分を労わるにはどうしたらいいのかを考えたりもしましたが、結論を自分なりに解釈してみたら、「労わる」という意識を持つから労われないのかなと感じました。
労わるより、どうしたら自分が疲れない人付き合いを出来るのかを考えてみたら、ボクさんが言っていた「無」に辿り着きました。しばらく無を経験しましたが、なんともつまらない日々でした。感動もしなくなり笑う回数も減り人と関わりを持つのも躊躇い、ただ人と関わりを遮断してみることで慣れが来ます。そうです。誰も自分の周りに人がいないことに慣れてしまいます。すると、人を必要としなくなり一人の自由さや気楽さを求めるようになります。
人と関わりを持つというのは、ぶつかり合いもありますよね。
その度に傷付いてでも向き合おうと出来る人を凄いと思うし、人と関わりを持つというのは、楽しくってハッピーなことばかりじゃないってこともわかりました。
そういったものを、面倒くさいで終わらせるのは勿体無いな。
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