自分のことばかり考えている。というか、自分のことは考えるべきではない、他人を優先するべきなどと考えているからそうなってしまう。べきという思いは、しつこく、ねっとり、べっとりしている。しかも、その反対が本心だったりするので、感性と理性がバラバラのまま。子供が、駄目だと言われると余計に駄々をこねるように。だから、こういう場合自分のことを考えることをすんなり受け容れてしまった方がよい。元々自意識が過剰でなければこんな面倒なことをする必要がないのだけれど、一旦そうなってしまうと元に戻ることはできない。なので、多少迷惑をかけてでも、変人扱いされても、これでもかというくらい考えきってみる。それしか道がない。よく悩んでいる暇があったら行動というけれど、悩みきってないだけだと思う。私は、愛を与えるということを学習するために生まれてきたことが、やっと分かってきた。だとすれば、何かを手に入れる必要があるのかどうか。今まで、足りないものが多いから幸せになれないんだと本気で思っていた。そうじゃない。与えるものが少ないから。目に見えないもの。与えられることを待っていたら、幸せになれない。確かなこと。与えてくれる人を探すのではなく、ただ与える。目に見えるものではないから準備は何も要らない。
私は誰かに何かを与えている意識は無い。
ただ、これからも付き合っていきたいと思った人には悲しんで生きてほしくはないし出来るなら私が好きになった人達には幸せになってほしい。ただそんな思いで、その人達と出掛けたり食べに行ったり、話したりしているだけ。その結果にこだわっているわけでもない。それでも上手くいかなかったのなら、合わなかっただけなんだなと見切りをつけ、追わない。というよりか人と関わるとどうしても何かしら人間関係に悩まされやすい。それが分かるからこそ距離感を取っていたいのだが・・・。
誰かに何かをしたから、必ず好意が返ってくるとも限らない。
あまり考えないで自然に接していければ、それが一番いいのだろうけど、なかなか上手くいかない。上手くいった矢先には何かしら問題が巻き起こる。相変わらず辛い。ただ親友がいればもういいのかもしれない。私は結局のところ卑屈でねじ曲がった感情の持ち主であったことを再認識させられただけであった。人の好意を毎回受け止める事が出来ないのは自分の内に問題があるという事も、かなりの確率であったりするのかもしれない。
私は目に見えるものでしか他人を推し量れない人間である。目に見えない愛だとか好意だとか、裏切ようと思えばいつだって手の平を翻せる。そんなやわな脆く壊れやすいものじゃなくて、もっと目に見える形のものしか信じられない。自分の事も信じられない。自分の心も毎回移りゆき揺らぐぐらいなのに、他人の事なんか信じられるはずもない。もう疲れた。無でありたい。何もしたくない。何も本当はいらないのかもしれない。長すぎた。変に成熟しきりすぎた。つまらない。人生がつまらない。楽しい事をしても虚しさに襲われる。安定しない。悩みなんか誰かに言ったとこで何も変わらない。ネタにされるだけ。