先日、とあるイケメン俳優さんのバースデーイベントに行ってきました。
僕が彼にハマったきっかけは、とある映画を観たこと。もちろん、それ以前から「イケメンだなぁ」と思ってはいたけど、この作品で彼の芝居に触れて、完全に心を掴まれてしまった。
そんな彼に、ついに“会って”きました。席はそんなに前じゃなかったので、ほとんど双眼鏡越しだったけれど、それでも伝わってくる「とんでもないイケメン感」。芸能人だから当然といえば当然なのかもしれないけど、次元が違うというのはこういうことかと圧倒された。眼福というより、もはや“崇拝”に近い気持ち。本当に尊かった。
このバーイベは、僕にとって救いの場でもあった。少し自分の話をさせてほしい。手前味噌風味です、ごめんなさい。
彼と同じ文章に自分のこんな話を書くのは恐れ多いのだけれど、僕は昔から「イケメン」と言われてチヤホヤされてきた。いわゆる“モテるタイプ”だった。学生時代は学校の中で「イケメンキャラ」として扱われ、黄色い声援を浴びることもあった。恥ずかしながら、それが自分のアイデンティティになっていた。
でも、それ以外にこれといって誇れるものがなかった。褒められることで得られる承認、自分の価値、それをずっと「顔」に頼っていた。そして、もしそれがなくなったら——と思うと、アイデンティティが崩れてしまうような不安と恐怖が常にあった。
高校時代、イケメンでいるために食事制限をして、無理なトレーニングをしていた。でもそれが祟って最終的には食中毒で入院したこともあった。ある友人から言われた一言が、今でも頭から離れない。
「お前は顔が良くてよかったよな。じゃなきゃ友達いないだろ。」
冗談だったのかもしれない。でも、それが図星すぎて心の底では笑えなかった。
社会人になってからは、少しずつそういうプレッシャーから距離を置けるようになった。でも完全に消えたわけではない。今はSNSや美容意識の高まりで、街を歩けば美男美女がたくさんいる。そんな中で、ふとこんなことを考えてしまう。
「みんなが美男美女になったら、自分の価値ってどうなるんだろう。」
昔の僕は、“イケメンでいること”にすがるしかなかった。自分の価値はそこにしかないと思っていた。だから他人の美しさを見るたびに、自分の価値が削られていくような気がしていた。
でも、今回のイベントで、その感覚が大きく変わった。
圧倒的な存在を前にすると、人は自分の小ささを思い知る。彼を双眼鏡越しに見ながら、まさにそれを感じた。僕が普段「美男美女」として意識していた人たちと自分なんて、あの俳優の前ではどんぐりの背比べだ。象の前で、蟻とキリギリスが背比べしてるようなもんだ。
僕は蟻で、彼らはキリギリス。もちろん蟻はキリギリスには勝てない。でもどちらも、象には敵わない。象の前では、蟻もキリギリスも同じ小さな昆虫でしかない。
だったらもう、そんなことで悩むのはやめよう。比較して落ち込むのはやめよう。ようやくそう思えた。
たぶん、ずっと僕は「イケメンであり続けなきゃいけない」という呪いから解放されたかったんだと思う。自分で諦めなきゃって思っていたけど、それができなかった。元々持っていたイケメンへの強い憧れが、学生時代に築いたアイデンティティと絡まって解けなくなっていた。でも、彼という圧倒的な存在を前にして、ようやくその呪いから解かれた気がした。10年以上まとわりついていた楔が外れた瞬間だった。
もちろん、イケメンになることを諦めたわけじゃない。僕は“イケメン”という存在が好きだし、自分もできる限り努力していたい。でもそれはもう、昔のような執着ではなく、純粋な憧れから来る気持ちになった。だから、楽しい。
最初は「イケメンを見に行こう」くらいの軽い気持ちだったけど、まさかこんなに自分の内面が変わるとは思っていなかった。本当に行ってよかった。
ありがとう。誕生日おめでとうございます。
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