彼女はがたんと音を立て丸い大きな皿とマグカップを机の上に置く。
「もう、待ちくたびれてお茶が冷めちゃいそうだったわ。今日は私たちが付き合って1年なのに」
「ごめんなさい、どうしてもこの日だけは外せなかったんだ。それに、あなただって分かってくれたじゃないか」
「そうだけど……でも、やっぱり私にとっては特別なの。記念日なんだもの」
そう言いながらも、彼女は特に怒っている様子もなく、むしろ機嫌が良いように見えた。
「じゃあ、許してあげる」
「それは良かった」
「冷めたお茶は元には戻らないけれど」
彼女はいたずらっぽく笑いながら、マグカップのふちに指先を這わせる。
「私からもプレゼントがあるの、こちらのバームクーヘンよ」
「お店の?」
「まさか、手作りよ。丹精込めたんだから」
「いいのかい?とても楽しみだ」
「ええ、もちろん」
彼はそう言ってバームクーヘンを切り分け、小さめのフォークを添え次々と口に運ぶ。
「うん、美味しいよ。愛情が詰まっている」
「あら、嬉しい。こんな時間がずっと続けばいいのにね」
「そうだね、本当に」
彼が食べ進めるごとに、切り分けられたバームクーヘンが小さくなっていく。
彼の手が止まり、ついに最後の一切れになった。
「……どうかした?」
「……ささやかだけど、僕も君に 贈り物をしようと思って」
そう言った彼の手には丁寧に飾られた薔薇の花束があった。
「これは……21本ね、高かったでしょう?ありがとう」
「そんなことないよ。でも……本数には意味があることを君は知っているかな」
「そうなの?知らないわ」
彼女は首を傾けて、不思議そうに首を傾げる。
「そのうち分かるさ、僕からのささやかなサプライズだよ」
「どういう意味なのかしら……まあいいわ。それより……」
彼女はそっと彼に近づき、耳打ちをする。
「もうそろそろ効いてきたんじゃないかしら?あなたの大好きな私の"愛"は」
「……なんのこと?」
「とぼけないで、体がそのうち動かなくなるわ」
彼女の瞳は妖しく光る。彼はそれを見た瞬間、膝から崩れ落ちた。椅子から転げ落ち、床に倒れ込む。
「ほら、やっぱり」
彼女は倒れた彼を見下ろしながら微笑む。
「……あ、!?どうして、え、…?」
「私、ある人に聞いちゃったのよ。あなたが浮気をしているかもしれないって」
彼女は倒れる彼を抱き上げ、優しく語りかける。
「私の勝手だけれど、あなたが許せなくなってしまったの。だから、こうするしかないと思ったのよ」
「……けほ、っ、やめ、て」
「私が花言葉の意味を分からないと思った?『真実の愛』って……別れる気しかないのね」
彼女は男の荒い呼吸が、小さく、細く、そして無くなるまで待ち続けた。
「愛しているのはあなただけよ」
彼女は最後に呟いた。
「……なんて、嘘なんだけど」
彼女は笑いながら、目の前で倒れている男を見下す。
「全部演技なの、あなたと別れるためよ」
彼女は立ち上がると、机に置かれた皿を持って、そのままキッチンへと向かう。
「私ね、婚約者がいるの。あなたより何倍も良い人なのよ」
彼女は皿を洗うため蛇口をひねる。 水が流れる音が部屋中に響き渡る。
「あなたとの交際は遊びだったの。あなたがあまりにもしつこいから付き合ってあげたのよ」
彼女は皿についた泡を流していく。
「私たちって、案外似たもの同士よね。お互い遊びだったなんて」
彼女は皿洗いを終えると、今度はマグカップを手に取る。
「バームクーヘンの意味は幸せの積み重なり……幸せの象徴に毒でも盛ったら、それは積み重なった幸せの終わりを意味するのかしら」
彼女はくすりと笑うと、自分の飲みかけの紅茶に口をつける。
「私、あなたの分まで幸せになってあげる。これからは、私だけの幸せな時間が始まるの」
彼女は手に持ったマグカップを勢いよく流し台に叩きつけた。
「また幸せを積み重ねるの、あなたといた時よりもずっと……」
彼女は振り返り、もう一度男を見下ろす。
皿の上には、年輪の途切れた、残された一切れのバームクーヘンが寂しくぽつんとあった。