あまりにも自由過ぎる時間が空間が、僕にはあります。
ゆえに、息の仕方を、忘れてしまう。
時間や空間は自由であるのに、この『からだ』が不自由である気がしている。
わたしは、身体障害者ではなく精神障害者だ。
ともすれば、自由が利かないのは『こころ』のほうなのか。
だが、ぼくの心は「自由だ」と、大空を飛び回っている。とても晴れやかだ。
これが “障害” であるか “甘え” であるかは正直どうでもいい。
わたしが「動かない」「動けない」事実をどうにかするのに、ありとあらゆる方法を模索するのに、そんな2つの答えだけにこだわる必要もない。
今、「どうもしたくない」「なにもしたくない」にしたってそうだ。
それはつまり、甘えることも、障害者であることも、頑張ることもなにもかも、私は手放したいのではないのか。
縛られる必要はない。広く、大空へと。
そして―――― 息ができなくなった。
なので、わたしは、自ら不自由さを与えることがある。
「◯◯しなければならない」という呪いをかけることがある。
だがしかし、それもやり過ぎると、息ができなくなるのだ。
とても自由で、不自由な人間です。
生きるためのテクニックが、この世界にはたくさんあるのだろう。
上手く扱えない。加減がわからない。
それでもやるしかない。
わたしは現在、この世にいる。
……なんか格好いいこと言ってる気がするけど、過ごす時間、ほぼ寝て起きて食ってのぐうたら生活だからね。
必死に生きて、そういう者もあり。
必死に生きずに、そういう者もあり。
そんなもんよ〜
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください
ななしさん
自由で、不自由
不自由で、自由
家族とかもそうかも。
独身で、自由なはずなのに、まわりの圧に、自分で不自由にしちゃいがち。
家族持ってて、親の役割、責任、不自由なはずなのに、不自由さをたのしんでる感じ。
自由は不自由で、不自由は自由。
でも、どっちでも、「適応」できたら、それぞれのよさがあって、みえなかったわるさがみえてくる。それぞれに見える景色があって、気付きがある。……はず。
どっちでも、「適応」できなかったら、くるしい。
自分を、あわせるか、環境を、あわせるか、、
どっちもちょっとずつ変えて、すり合わせるか。
どっちも拒絶して、変化をまつか。
素敵な小瓶、ありがとうございます。
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