他人の不幸は蜜の味とは言いますが、
シャーデンフロイデ的な感情はなんのためにあるのでしょうか。
シャーデンフロイデを感じる人間は不幸な人間ではなく、「不幸になった人間」を見てそう感じますよね。
元は幸せだった人間が落ちる様を見て「蜜の味」と称する、そんな人間はまず幸福な状態ではないし、その中には「自分は幸福になれやしない」と思っている場合もあるかもしれない。
しかし幸せというのは基本的に誰もにとって美しく、羨ましいもの、無意識に憧れを抱くもの。
これはあくまで私がこじつけているだけの主張ですが…シャーデンフロイデというのは、「幸福への憧れを捨てるため」にあるのではないでしょうか。
幸せそうな夫婦が離婚した、彼女と喧嘩した、彼氏が浮気していた、大勝ちしていたはずのギャンブルで大敗した…
そんな時、「はは。ほれみろ。そんなもんは、ろくなもんじゃねんだよ」と、持てない自分を正当化するために、「幸福になっても必ず落ちていく」「俺が羨ましいと思ってたものはこんなに簡単に崩されるのか」と、そう思えるために、シャーデンフロイデというのはあるのではないでしょうか。
恨みが晴れるのではなく、単純に他人が落ちていくのが気持ち良い。不幸な人間が壊れてしまわないための、苦肉の策。
それか…
単に人間というものがそういう存在であるのか。
まぁ、確かなことはわかりませんけど。