生きる意味ってなんだろう?っていう疑問が頭に思い浮かんだ瞬間、もうそこで終わりが確定する
生きる意味なんていうのは無い。
無いというよりは、生きる上で意味を問う意味自体が無い
逆に言えば、もし生きる意味を探し始めてしまったのだとすれば、それはその人の生きるという事自体を揺るがす何かが起こってしまったという事。
生まれたから生きるという生物にとっての当たり前が崩れた時点で、既にもう終わってしまっている。
もしかすると、何か偶然が起きて生きる意味が見つかるかもしれない。
自分はこの為に生きる!というような事が見つかるかもしれない。
でもそれは偶然に任せるしかない。
生きる根幹を揺さぶられてしまった人全員が見つけられる訳ではない。
生きる意味を考え始めて10年……。
そのうち見つかると他人に言われ、自分に言い聞かせて生きてきたけど生きる意味は見つからないばかりか数少ない意味すら失い続けている気がする。
だから多分、自分の人生は10年前に生きる意味を考えた時に既に終わっていたのだと思う。
誰でも無料でお返事をすることが出来ます。
お返事がもらえると小瓶主さんはすごくうれしいと思います
▶ お返事の注意事項
(長くなりますので、もし読まれる際は、お時間の許す時に目を通して頂ければ幸いです)
まあ、「終わっていた」というそれも、一つの生きる意味を考えてきた、それに対する意味なのかもしれんな。
俺が思う所の生きる意味は、生物的には「繁栄」で。
個人的には、「よく解らん」、といった所かね。
なんと言うのか…小瓶主さんの「生きる意味」って、「生きて行きたい意味」なのだろうか。
そうだとすれば、「これから生きる上で求めたい意味」を考えなければ、答えは出ないんじゃないか?
何故って、自分の意思がなければ、生きる意味など生まれても来ないのではないかと思う。
自分の意思が、後付け的に、自分だけの意味を作っていくものではないかと考えているのだ。
(「意味や価値、重要性」→人が作るもの)
だから、「無い」とすれば無い。「ある」とすればある。
(物事を「軽く捉えるか」、「深刻に捉えるか」、という図式と似ている)
「生きる意味」以外もそうで、生きている中、瞬間瞬間に思う、「腹減った」だとか「遊びたい」だとか「ぐっすり寝たい」だとか、それらに意味があるとするならあるだろうし、ないとするなら、ない。
身体として、なんらかの理由はあるだろうが、認識としてそれらに何の理由があるかの判別は明確に出来ないし、間違う事もある。
(足の小指をタンスの角にぶつけて、それ程痛くなく、単に打撲傷だと思っていたが、病院に行くと実は骨折していたとか)
自分自身の認識として、意味を考えた時、それはあくまでも己の認識でしかない訳だ。
そういう事もあり、「生きる意味」は明確に解らないが、感情や理性、瞬間の、一時一時の気持ちや考え、行動が続いて、生きているのだと俺は思う。
それ自体…、意識的に、一瞬一時と行動している事の中身が「生きる意味」だとするのなら、それも、人それぞれの解釈次第だろう。
「言葉」への意味と同じく、意味を定めて使っているのは人間その一人一人だろうしな。
本来的に何か意味があろうと、なかろうと、それとはまた別に意味を作る事、定める事が出来る。
(それが、新しい言葉の意味になったりもする)
まあ逆を言えば、意味があろうとなかろうと、考えようが考えまいが、今ここに生きているのは間違いない。
「生きる意味」というのが、各々にとって、「生の中求めたい意味」なのか、「使命のような大きな柱として、縋りたい、生きている事を支えたい意味」なのか、両方含めたものなのか、はたまた別のものなのか…。
どのように、何故「意味」を求めるのか。
それを含めた上で、「全体的な意味」が見えてくるのかもしれん。
あるいは、求める事で、求める事そのものが意味の中に加わる、とでも言えるか。
「生きる意味」というより…
どうやって、生きていきたいのか。
あるいは、生きている中で、何をしたいのか。
何かのために、生涯を掛けたいのか。
もしかすると、「生きる意味」なんて言葉で、それらを考えるから、ややこしいだけな場合もあるかもしれん。
それでも、意味を見つけたいから、考え、探す。作ろうとする。
生きる意味を考える事が、生きる理由に繋がる事はあるだろう。
何かものを考える時、「考えよう」なんて事を思った「瞬間」、それ自体が考え事なのだ。
それと似たように、生きている上で、「生きる意味」を考えても、その「生きる意味を考えている」事が生きている事、「現在進行的な行動」だ。
そこら辺も、ややこしくなる一要因かもしれんな。
解釈次第ではあるが…
生きている事そのものが一つの意味、「自分が存在しているというもの」だとすれば、生きている意味はあるだろう。
俺として、自分自身の持つ、今思う、一つの「生きている意味」は、「意味を考え、作る事。意味と関わる事」だと考えている。
簡単に書けば、「意味」というのは、「個人の持つ認識」だと考えてる訳だな。
その考えを一つの軸にして、俺の人生観を捉えているという話になる。
ただ、それが全てではないとも思っているのでな。
「よく解らない」という部分は間違いなくあるので、生きる意味を考え続けている。
何年経ったか…、よく解らんな。
細かく覚えてはいないが、俺も十年近くは考えてる筈だ。
俺は考えたいから、まだ考える事にするよ。
十年近くと行っても、偶然だとか色んな要素もあるから、人それぞれタイミングは違うのだろうし、速さも関係がない。
「生きる意味」そのものも、各々、様々に異なるのだろう。
少なくとも、個人的に十年では、まだ解りきれそうにないからな。
小瓶主さんも、終わりなら終わりでいいんだが、考えたくなった時はまた考えてみても良いんじゃないか?
自分自身の考え方、解釈の仕方や、考える上で着目する視野、そういうものは変わりうるものだろうし、それが変われば、また別の、違う答えも見えてくるかもしれんしな。
そうなのかもしれません。
私は9歳の時から考えていたので、その時に人生が終わっていたのかもしれません。
それだったら、今は何しても問題ないということだと考えます。
生きる意味を考えていた時は何一つ認められず、実現したいことも全部否定され、お金がかかると何度も言われていました。
しかし、時が経ち社会人になって分かったことがあります。
親や周りの人は知識がなかったのだと。
そしてその人達も私のように、「出来ない。」「無理。」「お金がない。」と言われ続けてきたのだと。
人は年月が経つと思い込まされている根本を忘れて、思い込まされている部分も自分の性格としてとらえてしまいます。
そのことに気付き、その負の流れを絶ちたいと思えればたくさんの知識を得る行動を起こせます。
「何か偶然が起きて生きる意味が見つかるかもしれない。」
と、小瓶主さんが書かれてますがこの世に偶然はあり得ません。
すべてにおいて理由があります。
すべて自分が起こす行動に伴って起こる現象です。
いつかいいことがあると言った人の言葉は
「宝くじを買ってれば当たるよ。」と一緒です。
当たる確率は簡単に出せますし、確率を上げるためにどれだけ購入するか、購入資金の調達方法など考えればコスパがいいかどうかすぐにわかります。
「TEDx 植松努」と検索して見れる動画をオススメします。
ダメだ、無理だと言ってくる人たちについて理解出来ます。
「金持ち父さん貧乏父さん」という本で考えることの大切さと、自分で生み出すとはどういうことかヒントが得られます。
未来ある貴方に道が拓けますように。
失礼します。
誰でも無料でお返事をすることが出来ます。
お返事がもらえると小瓶主さんはすごくうれしいと思います
▶ お返事の注意事項