あの時湧き出て来た感情は何だったんだろう。
というか、感情は一旦吐き出してしまえば完了
するもの。それを蒸し返して一体どうするのか。
水と同じ。どんなに透き通った水でも、淀んだ水
でも一瞬先にはもう変化している。そういうこと
を納得できないで、どうしてと喚いたところで、
振り出しに戻るのは当たり前である。私のせいと
今責めている。苦しい。辛いことがあるたびに、
わたしが出現して来て、必死で守ろうとする。
傷付かないようにしているつもりが、傷口の上塗り
になっている。守るということは、自分を弱い人間
だと認識しているのと同じことだからである。例え
言葉を発さなくても。このわたしは必要だろうか。
水が流れているだけであり、この前はわたしが
無いということに虚無感すら抱いていたが、
わたしが無いというのと少し違うところは、
その現象を観察している薄皮一枚のわたしが
いるということである。もし、才能がない
からやめなさいと言われたとして、やはり
落ち込んで自分を責めるだろう。死にたいと
思うかもしれない。そういうことは日常茶飯事
のはずだ。けれど、なぜ人に言われたからと
いって100%正しいと思って受け入れるのか。
おそらく私に今必要な気付きは、鵜呑みに
すること、つまりわたしが強すぎるために、
わたしを非難する人物を作り出していると
いうこと。強いから消すという意味ではない。
元々ないこと、そしてそれを観察する者。
この存在をさまざまな表現をするのだろう。
では偶然のように感じる出来事は、一体何
なのか。例えば、無意識に抑圧していた
母から愛されなかった、私の存在価値は
無いという感情が意識に露出して、涙が
溢れて来た時。不意に気になって父に生前
母が好きだった曲を尋ねたら、「愛のなか
から君はうまれた」という歌だった。お湯
が出なくなり、銭湯に行って水風呂に入る
ということを何度か繰り返すうちに、水の
流れを見て、わたしが無いこと、さらに
その現象を見ているわたしがいることに
気付いたり、頭の中に美しい色のグラデー
ションや、動いている模様や、靄がかかっ
たような外国の街などのビジョンが浮か
んで来たり、電車の中で目を瞑っていたら、
聞いたことのない異性の声が聞こえてきて、
無意識の世界があり、意識だけだと思って
いるから不足が生じるのだと、全てはいつも
あるのだと教えてくれたり、内容は一致して
いないけれど愛している人から連絡があった
り、知り合いが同じタイミングでお湯の
出ないトラブルに遭っていたり。偶然で
しかないが、何かが今までと違うような
気がしている。おそらくはわたし、欲し
がる、執着。その辺りのメッセージでは
ないだろうか。与えるということですら、
少し違和感がある。わたしがいる時、
欲しがるという循環が生じ、わたしが
無くなると、与えるというより、ただいる
という状態になるのだろう。それがなぜ
与えることになるのだろうか。自然は
与えている。ただ生きているというだけで。
それと同じ。誰かが価値を付けようが
付けまいが何の関係もなく。わたしは
勝手に起きている現象であり、それを
見ているわたしというのが人として
生まれてきた意味なのかもしれない。
というより、わたしがあることと無い
ことは同じなのではないか。こちらが
表であちらが裏だと言い続けている
ようなものだ。あっても無くても
そんなことはどうでもよくて、ただ
わたしという現象が起きている。
それだけだ。