ふと現実感のある景色が浮かび上がってくる。それは気まぐれなもので、すぐに立ち消えてしまう何か。
それは現実感があって、楽しみはさておき、苦しみがない。
ただ自分がこの現実に存在してることがわかって、安心する気持ち。
この世界から強制ログアウトを受けたみたいな、受けてるみたいな、これから受けるみたいな、そのうち受けるかもしれないみたいな、そういう気持ちが、ない。
ここにいる。
安心する。
私は死ななくてもいい。
そう思える。
それは嬉しいとかじゃないし、楽しいとかじゃない。
ただ歪で狂気的に見えた世界が、正しくそこにあってくれると信じることができる感覚。
どうして、いつもそう思えないんだろう。
世界と主体は干渉し合うもののはずで、それなのに、いつも、それらは壁一枚で隔ててられているみたいで、そしてそのせいで現実の認識が歪むみたいで、そのことにずっと苦しんでいる。
たとえばカフェで音楽が流れてくるとき、人はその音楽を耳を通して体験する。
けれど私は通常、それを耳を通して感覚を受信することしかできない。
それは文面だけでみればどちらも同じことに聞こえるかもしれないが、私にとっては同じことではない。
“そう”なると、まるで心象世界が現実に進出してくるみたいに、何かが歪んでいく。それは生活か。心情か。能力か。認知か。
このことについて長い間ずっと考え続けてこなければこうしてまともな言語化すらできなかった程度にはかすかに、しかし、生きていくにはかなりの苦痛を伴う程度に、ある時を境に、何かが決定的に歪んでしまった。
そして、歪み続けているのだ。
このことさえなければ、私もまだ、まともに生活を送れるのに。と思う。
いつも集中力がない。自分の内面世界から外を見ていて、うまく外の世界に干渉しようとすることができないから。
いつも気もそぞろ。自分がどうなっているか、自分がどう見られているか、自分がどうすべきかについてばかり気にしてるから。
いつも頭が働かない。頭の中の変なところにエネルギーが持っていかれてしまってるから。
だからいつも疲れてる。
今はそのような感覚から逃れられているかれそうは思わない上で、私は、よく死にたいと思う。
この精神の牢獄から出して欲しいと願い、なのにそれが叶わず、その間に「私じゃない私」が、なりたくなかった私になるための行いをしていくから。
私はここにいるのに、「私じゃない私」が世間から私として取り扱われる構造が出来上がってしまっているから。
それで、私はもはや、この世からすっかり消え去ってしまったんだ、みたいな気持ちになるから。
私はここにいる?
今はいる。けれどこれからも、ずっとここにいられるのかは分からない。
音楽も生ぬるい風も学習やミーティングの内容も、全てが私に起きたこととして体験され、状況と感覚と感情の合致して頭の中に収納される。
私がずっと失っていたものがいまこの瞬間にはあり、だけどきっと、大事にかたく握り締めたらそれはまた崩壊してしまう。
私はこの世界に存在している。
私はこの世界と関係している。
私は、この世界に根ざしている。
それだけのことを確信するためだけに、どうしてこんなにも長い時間を要し、どれだけのことを台無しにしてきたんだろう。そしてこれからも、どれだけのことを台無しにしていくのだろう。
この確信が得られないずっと長い間、私が藁にもすがりたい気持ちで、誰かとの非現実的で救済的な「本質的に関わりたさ」を思うことは、悪いことだった?
今のうちだから言うけど、悪いことなのだろう。
世界はその理由を問わず、非現実的な存在を許しはしない。
それは私たちがこの世に存在している限り、そうでしかない。
だから閉じ込められた私も、閉じ込められた私の願う存在も、この世界にその存在を、その認識を、許されることは、一生ないのだ。
だから私がまた私の内側に閉じ込められたとして、そしてもしもそれが一生続いたとして
私は今度こそ、もはやどこにも存在できなくなるのだ。
未来永劫。どこにも。
過去未来現在。
世界のどこにも。
許されたいと願った私自身も、その記憶も、絶望も、苦しみも。
そしてそれはとても残酷なことだと、思うのだった。
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小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください