さっき校医と話をした。
・姉の強迫性障害は臨床においてもかなりの重症例であったこと(私が高一の頃には別居をすることになったくらいに)
・その感じだと物凄い我慢を強いられてきたらしいねと言われたこと
・高二の冬から調子を大きく崩したのはやはりおそらく離人によるものだろうということ、そしてそれが起こったのはおそらく、自己分析の途中で発見した自分の攻撃性を認めたくなかったがゆえだろうということ
・エネルギーが当時のことに向いていて現在の生活が成り立っていないこと
・せっかく友達とか彼氏がいてその楽しさも感じられるのなら、なるべく外のこと、人のことに目を向けていったほうがいい、もっと笑った方がいいということ
・それは決して問題から目を逸らしているということではなくて、問題を解決するためにも、意識的にそうすることが必要であるということ
診察が終わって外に出たあと
階段を降りようとしたときに、何故だかそのまま立ち尽くしていた。
動くという動作が思いつかなかった。
そして何故だか、涙が流れてきた。
それは自分の体験がようやく誰かに理解されたという感覚によるものなのか、深く自己の渦に沈んでいる自分を否定された気がしたからなのか、逆にそこから掬い上げられた気がしたからなのか、それともまた別の何かのためなのか。
分からないけれど、ただ、そうだった。
自分という人間、その欠陥、その将来、その絶望、その欲望
そしてそれを取り巻いてきた環境、家の機能不全
それ以外のことを考えることが、これまでの自分に対する裏切りのような気もするし、憎しみに溺れた神経質な人間による執着によるもののような気もしている。
どうしたらいいのか分からない。
板挟みになっている。
私が欲しいのは、自分の怒りや絶望に対する応答ではなかったのかもしれない。誰かを責めようとすることを、正当化されることではなかったのかもしれない。
では、何が欲しかった?
何を、得たかった?
分からない。
ただ、このまま傷をいじくりまわすかのように過去に囚われ続けることが間違っていることだけが、きっと紛れもない事実で。
生きるのって、大変だ。
でも、今日、家に帰ったら
まずは汚くてしょうがないあの部屋を掃除しよう、と思った。
それから考えよう、と思った。
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