楽になる気がしない。
いや、充分楽してるんだけども。
幸せじゃないか。毎日毎日、動画見たりゲームしたり。歌を聴いて歌って。ご飯も食べれている。夜は寝て朝は起きて。こうして文を綴ることもできるっていうのに……
充足してるからもういいのか。
それとも何かが足りないのか。
何で息をするのもつらいと考えてしまう?
大好きなものがたくさんある。まだ生きて目にしたいものがたくさんある。それらが生きる活力にならないのはどうしてだ。なぜ今すぐ死ねるなら死にたいと思う?もちろん四六時中ずっとこんなことを考えているわけではない。死にたいわけじゃない。苦しいわけじゃない。幸せを考えないまま自然に幸せな瞬間もあるはずだ。
そうやって思考してるから“そう”なんだ。っていうのも理解してる。
だけどそもそも“それ”を思考しちゃうのはなんでだよ。日々が苦しいせいか?癖になってる?自ら望んで“こう”あるのですか?
きもちわるい。
自分が嫌いだ。悲しいって心を作らなきゃ、本当は誰が死のうと悲しくはないんだ。不登校になったあの日、親が死んだあの日、いろんなところに心を置き去りにしてきた。欠けたものは想像力で補って、もうどの心が作り物で、どの心が本物なのかわからない。
そもそも心自体が想像力によるものなら、心だけならどうにでもできそうだな。想像力には自信があるから。
なんで体があるんだろう?でも体がないと今のこれらも書けてない。いろんなことができなくなる。それは嫌だ。でもあるのも嫌だ。体があるせいでいろんなことをしちゃうし、しなきゃいけない。いろんなことができすぎる。体があるからこんなものを書いちゃう。
書きたくて書いてるからいいよ。でも最悪だ。
なんだこれ。
わたしの脳みその中の言葉をここにぶちまけて何がしたいんだ。
皆に聞いてほしいのか。助けてほしいのか。
助かる気もないのに?誰とも関わりたくないのに?
お返事の優しさを無下にしてしまう気がして、貰うことに気が引ける。言葉で救われる気がしないし、言葉で殺される気もしない。いや、そもそもここで救われようとすることが間違いか……期待なんてしないのが正解か……
だからといって救われていないわけではないのもわかる。日々の中の一瞬の安息。そういうのが日常の中たくさんあって、それらがあるおかげで「自殺しなくてもいっか!」ってなってる可能性。小瓶を流すこと。小瓶を見てもらう、お返事を書いてもらうこと。これらが私と自殺までの距離の間に入ってくれているのだと考える。そういうものがたくさんある。それらを壊してくるものも日常の中にたくさんあるから日々戦い合ってるわけだな。
それを傍観するわたし。
どうでもいいと思うわたし。
はやく死にたい。
大丈夫。1日1日着実に死に近付いている。ゆっくりでいい。死ぬために生きるんだ。生きていなきゃ叶わない夢しかないのだから。明日も生きろ。死はその先にある。楽もその先にある。
無理をしろ。頑張れ。休むことも休まないことも。何もしないことも何かをすることも。とにかく全部頑張れ。嫌なら嫌でいい。その瞬間もぼくは頑張って生きてる。それを否定する瞬間だってそうだ。
どうでもいいんだ。頑張ってる頑張ってない論争も。その時間『“生きてる”』それが何より大切だ。思考してる体の内で心臓が動いている。これより素晴らしいことが何処にあるっていうんだ。それがなきゃ、死ぬことも生きることも、「無きゃいいのに」って悩むことも何もできないんだぞ。最高で、最悪だよな……
ここまで読んでる人いる?
運営さんはチェックありがとうございます。長文すみません。お知らせに「1通の小瓶にたくさんの想いを込めて流すことに、他のSNSとは違う良さがあると思っています。」こう書いてあったから調子のってます。甘えてます。無茶苦茶してます。
運営さんもぶちまけたいことあったらどっかに吐き出してくれてると嬉しいなあ……
今日は、こんなもんでいいか。
いつも学校行ってくれてありがとう。
学校休んでくれてありがとう。
今日もお仕事お疲れ様です。働いていただきありがとうございます。
お仕事していない方、無理しないでいてくれてありがとうございます。
皆様無理しないで、あるいは無理をして、生きていてくださってありがとうございます。
「つらい」「くるしい」って思ってくれてありがとう。そこから「助けてほしい」って考えてくれてありがとう。「死にたい」って思うの仲間だ。やった♪ありがとう。
それじゃあまたね
また明日
生きるために、死ぬために、消えるために、楽になるために、助かるために、幸せになるために
今日を過ごそう
明日に行こう
読むのお疲れ様でした。