誰かが死ぬと、周りは騒ぎます。
「悲しい」「なんで」
生老病死に関心事なのはわかります。
煩雑な手続き等があって面倒という事情もわかります。
しかし、そこまで死はセンセーショナル、日本語的な意味で多い「衝撃的」、英語の持つ意味のひとつとして「奇跡的」でもなく、扱われなければいけないことないのでしょうか?
生きとし生きるモノ、いつかは死にます。どんな形であれ。
だから、いつも通りに対応しても、なんの問題ではないのではと思ってしまいます。どれだけ親しかろうが、疎遠であろうが。
「はい、死にました。それが何か?」
旅行好きの方には恐縮ですが「旅に出ましたよ」だからいませんよ。
それくらいの態度でいて、なぜいけないような世界なのか理解できません。
死んで当たり前。
社会教育の結果なのでしょうか?本能が忌避しているとでもいうのでしょうか?
わからない。理解できない。不思議。
自分の情緒が未分化なだけかもしれませんが、小さい頃からずっと思い続けているのです。
故人に向けたい言葉「お疲れ様でした」
遺族などに尋ねたい言葉「どうして悔やんだり嘆いたりするのですか?」
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ななしさん
いくつか理由がございます。
・八苦のうちに愛別離苦があり、
愛しい人が居なくなるので辛い。
・そんなに仏教等を信奉していないので
「諸行無常だなぁ。」とかで流せたりしない。
・生きたいのが普通という仮定で社会はなりたっているから。死にたいというと病院勧められたりしますし。
小瓶主様は人より淡白であるタイプに思いましたので
意図的共感的に振る舞った方が大衆には受け入れられると思います。
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