小さいころから、アニメや漫画が好きだった。
その様々な作品の中に、好きという言葉だけでは表せない感情を抱いているキャラがいることも、かなり幼いころから何となく分かっていた。
「推し」という言葉が広まり始めてから、それは一層濃く解り始めた。好き、嫌い、楽しい、苦しい、いろいろな感情をかき乱すようなキャラを私は、「推し」と呼んだ。
作品に出会ってきたぶん、推しにも出会った。罪の意識に飲み込まれ、指先から虫に食われるように自我を失って行った推し。死んだ仲間たちの亡骸の道を虚しく歩き続け、人類最強としての役目に囚われている推し。華奢だけども逞しい足で、地面とバイクを踏みしめていた推し。人生は、どれだけ馬鹿なことを考えられるかなんだ、と、きっと私には一生かかっても見えないであろう何かを見つめて笑っていた推し。全ての推しの生き様、表情、人生、推しの全てが私を苦しめ、笑わせ、惑わせた。
この前、私は初めての体験をした。
推しが死んだ。
そのとき、推しは、やっぱり生きていたんだ、と思った。
推しの腕を伝って白い布製の服をゆっくりと侵食する血や、めり、ぱきゃ、という骨と肉が壊されていく音とか、
推しの名前を必死に呼ぶ声と銃弾の音が混じりあった騒音とか、その場に存在する全てが推しの死を現実にしていた。
生あるものは全て死ぬとか、名誉な死とか、そういうことじゃなく、私が一番最初に感じたのは、推しにもやっぱり
血が流れていて、脳は生あたたかい水のなかに浮かんでいて、重い重い心臓を抱えていて、そうやって生きていたんだ。それが、推しの死という大きな変化を経て得た感想だった。
それに気がついてから、私は推したちに対して、今までとは少し変わった目線で見つめるようになった。
今笑っている推しも、自分より何倍も大きい生物にゆっくりと捕食されれば、今ここで死ぬだろう。今風に吹かれてバイクを走らせている推しも、向こうに崖があったとして真っ逆さまに落ちたら死ぬのだ。現実世界にいる私たちと同じように、血肉のぬくもりを匂わせて、推しという人間を形作っていた肉体の輪郭を歪ませながら、死ぬのだ。
なんと愛おしいのだろう。
静かにひかる宝石が割れたとき、光がその断面に反射して輝くように、美しい少女の涙が透き通って肌の白さを引き立てるように、花びらをぷつりとちぎったとき、芳しい香りが辺りを満たすように、私の推したちは、肉体が壊れて意識が溶けていくその瞬間もいとしくてかわいくて美しい私の推しなのだ。私は、その瞬間に立ちあうことができる。私の推しが、どんな人生の最期を迎えるのか見届けることができる。
推しの生涯が終わることは、とても悲しくて耐え難い苦痛だ。でも、推しの死に様は、私を震え立たせるほど美しくて推しらしかった。なんだか不気味だし不謹慎だしおかしなことだけれど、それが私が推しを失うという体験から強く感じたことであるのは変わりようのない事実である。