一解釈からなる、一意見を述べるとすると。
それは生きる事そのものが素晴らしい、素晴らしくないというより、そんな事をする人たちが悪いというだけに思えるのだが、どうだろうか。
そもそも、生きている事の中で、我々が主体として、素晴らしい事や苦痛、虚しさなど、色々なものを感じている。
心ある人間だからこそ価値が生まれる訳で、だからこそ、各々の生があれこれ、素晴らしいか否かなどという価値を作っていくのではないだろうかと思う。
そして、その生の中、素晴らしいと感じる事も、苦痛や問題に思う事も、全ては一瞬の内にある。
生の中、一生涯の一瞬を、断片的に切り取った写真のようなものが、そのような感情や経験の記憶であり、記憶から想起される現在の感情や考えでもある。
生きている以上、ものことには多少なりとも手が出せる訳で、変化し続ける。
苦痛の記憶を歓喜や感動が上回り、歓喜や感動を、苦痛や悩みがまた上回る。
価値を持つ人間の認識が変わり続ける。
そのような、一瞬以上を知る事もなく変わり続ける中で、生の全てを理解出来るとは俺には思えなかった為、今の所、生きている事、存在そのものに、精神的な価値を求めない事にしている。
(生きている中で、あの出来事は素晴らしい、あの出来事は辛かった、というだけ。命の重みやらは別の話)
大事なのは一瞬一瞬の事、生きている中でどんな感情が湧き、それに対してどう思い、考え、そして行動しようとするのか、ではなかろうか。
(今この時を大切にして生きる、などとも言えるかもしれん)
悪逆非道に思う所あれば、その一瞬の中、何が出来るのかを己に問いかけ続ける他ないように思う。
我々が寄せ集まったものを、人間の社会と呼んでいるのだから、一人一人が社会を構成し続けている途中な訳でな。
まあ、お天道様が見ている、神様は常にそばにいる、守護霊様がうんぬんかんぬんと、上手く言ったものだよ。
小難しい考え方がなくても、倫理感に反するような事をしたくなくなる教えが五万とある。(今はどうなのだろうな)
そういう知恵や、真に心ある人間が生まれもするのだから、生きている事の中身には素晴らしいものもあるのだと思っているよ。
無論だが、逆に、悲しい事や苦しい事もあるものなのだとも思っている。
天国も地獄も人間が見出したものなのだから、生きている内に垣間見るものなのだろう。