普通を目指せば目指すほど自分が分からなくなっていく、が、私のいう「普通」とは、それを目指さなければ生活が破綻してしまう類のもので。
例えばシャワーを浴びるとか。
洗濯をするとか。
掃除をするとか。
ちゃんとしたものを食べるとか。
ちゃんとした身なりをするとか。
私は誰なのだろう。
型にはまっていない最初から私は誰でもないはずなのに、型にはまることで何者でもなくなってしまうような勘違いをしている。
私は誰なんだ。
私が私になるほど、私が私じゃなくなるし、私が私でなくなるほど、私が私になるような、ならないような
そんな感覚。
世界が、ぐにゃぐにゃしてる。
できるものなら、誰かに、この精神の牢獄から私を出してほしい。
苦しくて、苦しいから。苦しくて苦しくて、しょうがないから。
これはなにかの病気じゃないの?
と、私は何度、自問自答してきたのだろうか。
こんなに苦しいのは病気ではないのか? こんなに苦しいのは、私が正気じゃないからじゃないのか? と。
こんな歪んだ視界、世界じゃ、まともに生きられやしない。
それってただの思い込み?
ねえ、どうなのかな。
自分だけが足に錨をつなげられてるような気持ちになるのって、傲慢なことなのかな。
みんな時の流れが私より1.5倍くらい早い気がするの。
人と関わるたびに
私だけが、公共の場で、この大人の体と声帯で、ああ、うう、と、赤ん坊みたいに、みっともなくうめいて、背を丸めて手足をもたもたさせているような、そんな気がするの。
人が怖い。
世界が怖い。
自分が可愛い。
いつも自分の中に閉じこもっていたくて仕方がない。だけど来たる孤独も怖くって、それで、ずっと怯えている。
外の世界が視えない。
私の文章を読めばわかるでしょうけれど、私は私のことしか分からない。
外の世界が怖くて見れない。
だから具体的なことをうまく言えない。
いつも何かを分かったつもりになるけれど、それは結局「外の世界を通じて分かった私のこと」をじっくりと観察しているだけにすぎない。
水のカーテン越しに世界を見ている気分。
朧げで、触れようとするとパシャパシャと水が跳ねて、私は野生動物みたいにそれを怖がっている。
私は私以外に興味を持てない。
それは私の病的な幼なさゆえか、それともまた別の病理ゆえか。
ここはどこで、私は誰なんだ。
ずっとわからなくて、怯えている。
誰かここから出してと願っている。
だけど誰も来ない。
当たり前かもしれないけど。
誰も来ない。
ずっとそう。
ずっとこのまま。
ずっと前から。
そのときから、その時々から、私は、もう私じゃないのだ。
私はもう、死んでいるんだ。
だれか助けてよ。
あの時々の私を。
救われなかった私を。
外の世界を愛おしんでいた私を。
死んだ私、たくさんの私が、こちらを見ている。
白くぼやけた、目と口の黒く窪んだ私がこちらを見ている。
私はどうしてこんなことになってしまったんだ。
私はどうして私じゃ私を救えなかったんだ。
そんなこと私が1番、1番に聞きたいことだっていうのに
みんなよってたかって私に「頑張れ頑張れ」って
じゃあどうすればよかったんだよ。
過去の話をみんな避ける。
死んだ私のことはみんなどうでもいい。
みんな今の私だけを問題にする。
たしかにそれが人として普通で正しい。
だけど今の私を問題にできる私なんてもはやどこにもいないっていうのに
みんな一体どこに語りかけているのだろう。
私はもうどこにもいないのに。
それが不思議でたまらなくて、しばしば、はがゆくて、憤りと勘違いしてしまう。
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小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください