長くまとまりのない文ですが、ご容赦ください。
昔から、周りには心配性だとか神経質だとか言われてきました。それは私自身よく分かっていて、何かやらなければいけないことがあるだけでいつも落ち着かない気分になっていました。
大学生になって二年目ですが、ここ最近は特に高校までとの違いを痛感して、もっと漠然とした恐怖が大きくなってきています。
高校までは、とにかく目の前の課題を必死にこなしていれば何とかなりました。最終的にどこかの大学に入れたら良いから、ただ勉強して課題をこなすだけで、安心して生きていられました。
ひたすらに勉強して良い大学に入って大人に褒められて、それでうまくやれているつもりだったんです。
それが大学生になって、やること全てを自分で選択しなければいけなくなって、どうしていいのか分からなくなりました。今までは、ただ何となく生きていたから。
ここまで来て、自分がやりたいことも、やるべきことも見出だせないことに気づきました。何がしたいのか、何ならできるのか。何も分からないんです。私は何も持っていない。
絶えず何かに怯えていて、ずっと恐怖に苛まれています。きっと見通しのない将来とか、それでもこの先生きていかなければならないことへの不安が、何かの正体なんだと思います。
それでも変わろうとせず、今もただ何となく毎日を過ごしている自分に嫌気が差します。自分から行動を起こせばいいのに、それすら怖くて、身動きがとれずにいます。
これは私の怠惰で、甘えだと分かっています。それでも、何もかもが怖くてたまらないんです。
自分が嫌で嫌で仕方がなくて、自分で取り柄だと言えていたものすらどんどん無くなって。それでも誰かに認めてほしくて、自己否定と承認欲求に挟まれて苦しいです。
自分ですら自分を肯定できなくなって、もうどうして生きているのか分からないんです。ただ何となく生きてきたし、この先も何となく生きていくんだと思います。
「何となく生きる」のが正しいか否かは誰にも決められないと思うけれど、私自身はそれを良くないと思っているんです。自分が何かのために生きているって信じていないと、苦しくて仕方がないんです。
色んなことを考えました。例えば、誰かひとり心から愛せる人を見つければ、それが生きる意味になるんじゃないのか。誰かを愛したい。愛されたい。そう強く願ったこともありました。
けれど私はおそらく、無性愛者か、そこに近いところに属しています。友情や家族愛の他で、誰かを愛することができないんです。まだ愛せる人に出会ってないだけじゃないか、というのはよく言われますが、そういうことじゃないんです。
やりたいこともなく、誰かを愛することもなく、ただ無意味に何となくこの先も生きていかなければならないのかと思うと、ぞっとします。それでも自ら命を絶つことはできません。こんな私でも、両親を悲しませたくないという気持ちは持ち合わせています。
こんな生きづらさを、みんな抱えているんでしょうか。みんな表に出さないだけなんでしょうか。上手く処理できなくて潰されそうになっているのは、私の弱さからなんでしょうか。
私は何かのために生きたいと言いながら、きっと楽に生きたいだけなんでしょう。こんな不安なんか抱えず、安心して生きていたいんです。
どうしていいのか分かりません。
今日も私はただ何となく生きています。
この生きづらさから解放される時は、来るんでしょうか。
誰かに話を聞いてほしかっただけです。長々と失礼しました。
私も小瓶主様のような不安に押しつぶされそうです。ただ、私がそうなったのは大学2年よりずーっと後の話なので、むしろそのような危機感を持てる小瓶主様は、頭の良い方なのではと思いました。(大学2年のときは、小瓶主様ほど深く考えずに生きてました)
私の周りの、目標を持って生きている方は、自分で選択して生きている人達でした。目標が一貫している方もいれば、「なんとなく海外行きたい!→行ったらこんなことに偶然はまった!→今はそれが生きがい」というように、流れに任せてとにかく今したいことを行う方もいました。
小瓶主様も、なんとなくしたいことを、小さなことで良いので少しずつ始めてみて、やがて自分の生きる目的が偶然でも見つかるといいなと思います。
学生のうちは、本当にどんどんやりたい、興味のあることを、やってみてほしいです!大人はそればっかり言う…とあきれられそうですが、本当にそう願います。それが不安を払拭して、目的ある人生を生きる方法の一つだと思うからです。私も実践できていないので、奮起して頑張りたいなと思いました。