飼い犬が死んだ。
安楽死だ。苦しみ抜いた末に見ていられなくなった親が安楽死を決めたそうだ。実家の犬。二代目の犬。
一代目の犬は虐待されていた。私も虐待されていた。一緒に過ごした。私が泣いていると一緒にいてくれた、優しい犬だった。
昨日荼毘に付した犬は二代目。甘やかされていた。だから、あまり好きになれなかった。二代目の犬をかわいがっていなかった訳ではないけれど、なんだか一代目の犬に対して冒涜的じゃないかと思っていた。
二代目の犬が死んでから、一代目の犬が死んだときの喪失感まで戻ってきたような気がする。悲しみというより脱力感に近い。
時間しかこの問題を解決できないと分かっている。酒を飲んでも覚めた後余計に辛くなる。
親は必死に犬に薬を飲ませたそうだ。便がざらざらしていると思ったら、薬だった。必死に飲ませた薬も、消化できていなかったそうだ。
なぜかこの話を聞いたとき、辛かった。分からないけれど、苦しかった。
友達に話をした。貴方は悪くないから、元気じゃなくてもいいから、自分の事を責めないでと言われた。助けてもらった分助けるからと言われた。
私がその友達を助けられたのか分からない。助けた自覚がない。お世辞でそう言っているとは思いたくない自分もいる。
結局私は自分のことを優しい人間だと思いたいだけかも知れない。
親の愚痴も聞いた。電話口で大泣きしていた。必死に慰めた。優しい人間だからそうしたのか、あるいはただ学費を払ってもらっているからそうしたのか、同情か、ただの損得勘定か、自分にはよく分からない。
本当に優しい人だったら損得勘定抜きで優しく出来るのだろうと思うけれど、自分には出来ない。
親も、犬も、好きになれなかった。
そのくせ死んだら悲しむ、勝手な人間だと思う。
多分私はどこかで犬のことが憎かったのだ。
自分は虐待されていて、犬は甘やかし過ぎる方向性で虐待されていた。退廃的な甘やかし方だと分かっていても、その愛が欲しかったのだと思う。
私が自殺未遂したときは泣かなかった父親が号泣していたことが、どこかでずっと引っかかっている。
誰かに寄りかかって甘えたい気持ちもあるけれど、それが不適切であることも分かっている。
他人に自分の人生を背負わせてはいけない。そうわかっているのにこれを書いているのはなぜなのか、自分でも分からない。