負けそうになる時。自分が無力だと感じた時。
くよくよ悩む。どうして自分は駄目なんだろう
って。意識しないようにしても感じている。
罪悪感を。そこをかき分けて自分の本質に
辿り着かなければいけない。自分と向き合う。
全てと繋がる感覚。スッと楽になる。自分が
誰に何を、を意識した時苦しくなる。知って
いる既に。そんな訳がないと、自惚れていると
思う。それは自分を認めないことになるん
だろうか。心配しなくても私は全てである。
生まれる前も今も死んだ後も。それは何にも
代え難い喜びである。無知の知。もちろん知ら
ないことは無限にあるが、知っていることも
ある。自分を深く探って行くと自分でないもの
というより、自分を含めた全てに行き当たる。
その感覚を認めよう。これが生でも死でも過去
でも未来でもない全て。その時いつも海が見える。
荒波だったり、窓から見える晴れた日の穏やかな
海だったりする。風を感じる。空を飛んでいる。
これが自分。今ここに肉体や概念や時間で区切ら
れている自分。過去も未来も含んだ全宇宙である
自分。常識は関係ない。とても心地いい。目を
瞑って全てに身を委ねると。この生きている私は
何だろう。骨や肉の塊で絶え間ない思考をする
私は何者なのか。何かに属さなければ不安を
感じる自分。何者でもない、何にも属さない自分
が本質だと気付いているから葛藤が生まれる。
不安を感じる時、私と人間という概念が同化
している。実際は私は私、全てであり、人間
という一般化された、例えば幼少期、青年期、
壮年期、老年期、成長就職結婚出産育児介護の
ような人生モデルの通りに進む概念とは異なる
ものである。死を目前にした時、この概念は
役に立つ。1+1=2という単純な図式が死を
免れる。一方で概念、意味記憶は人を苦しめる。
私と意味記憶を混同することで窮屈な檻の中に
閉じ込められる。凝り固まった意味記憶を洗い
流してくれるのが芸術である。音楽や絵画である。
ありのままを、素材そのものを見る。苦しく
なったらいつも意味記憶と今ここの私を切り
離してあげなくてはならない。そうすれば自由な
私に会える。