ゆけゆけアイラブミーのこびん*
ぼやきです。
なんつーか、メンタル的には、
マジ、ハードめの日々を送っています。
わたしは、出来て当たり前だから
二割の力で仕事をするという、実験
第三回め、をやっています。
わたしは、あんまり、自分のことだと特に
俯瞰が不得手なので
自分がやっていることが
引きで見たら、なんなのか?わかんないまま
やってることもあり、
だいぶ経ってから、それがなんなのか?に気がつくことも多いです。
3年前から、ウケ狙いで話すのはやめる!
を、やり出してもいるのですが、
これも、
二割の力で仕事をする、と、
やってることは同じだったんかーと
昨日気がつきました。
わたしは、お母さんの価値観
「努力で、足りないところはすべて賄う」という
地獄のやり方から、うまく足抜け出来なくて
もがいているのですが
どうも、ほんとに、ほぼ、全部のことが
これやってたんじゃないか?と言っても
過言では無さげです。
イラストの仕事も、地獄、つらい、苦しいしかなくて
触るのもイヤで、ほぼ廃業扱いしているのですが、
今、二割の力でやってるんですが、
身体のどこにも力が入らないのです。
そして、能率が良い。
頑張っているわたしだからこそ、結果が出るって
どこかで、いつも思っていました。
そういうことにして、そうなるように
自分を仕向けていたのでしょう。
他人が言うことが、やってみて、なんのことかわかりました。
わたしは、特別な人間ではありません。
得意不得意はあるけど、昔から、
偏差値も、知能指数も
笑えないくらい、ど真ん中の、そっこらへんの人です。
ねばべき、ねばべき、ねばべき、ねばべき、で
自分を護ってきたつもりが
強めの消耗だけをしてきたのだと思います。
最低限、二、三年は、覚悟して
(生きていると良いんだけどなぁ)
恐らく、わたしが生きてきて、一度も知らない
自分という人いっこで、充分賄えるという
自然な状態に、育て直ししていけたらと思っています。
そして、そういう、やさしさのある人間たちと
関わりを持って生きていけたら、いいなぁ〜と
いうのが
ちいさい夢です。
あげるから、くれる、
くれるなら、やるよ、
こういう価値観とは、真逆の世界です。
煩悩はあるので、たまには、そういう気持ちに傾倒することは
あるかもしれませんが
なんとなく、気づけて、
戻れればいいかなーという感じです。
「ある」の世界のはなしね。
「ある」のだから、
二割でいいのです。(何割という、数字は、てきとーさっ!)
それで、出来ないことは不得意なこと。
他人に頼っちゃいますよ!
海鮮丼です。
毎度の長文です。
努力とは念仏の様な物で、努力をすると極楽に行けるとか、努力したから失敗もこれ位で済んだとか、努力したから許されるとか。
何か、念仏や宗教みたいじゃないですか。
だから、努力とは行動ではなく精神的な物だと思うのです。
社会生活の中でも、努力という行動は何の意味も無いんじゃないかな。
そう、俯瞰的に見れば二割(少し少ないかな?)の力で充分。
俯瞰的と言えば、
アインシュタインは昼寝が大好きでした。
眠りに就くまでのぼーとした時間は、俯瞰的に自分を見る思考になったそうです。
その思考パターンは図案化され残っているんですよ。
相対性理論も昼寝の時に思い付いたのです。
列車やエレベーターの中の光は、中の人には真っ直ぐ同時に広がるが、外の人には曲がったり、進行方向に遅れたりする。
光速度のロケットでは、中の人と外の人では時間が違っている。
そうです、中の自分と外の自分。
俯瞰的でなければ、相対性理論は生まれなかった。
現に発表当時、相対性理論を理解した人は世界でたった一人だけだった。
それだけに、人は俯瞰的になれない。
「自由と勇気の翼を広げ、知識の風を受け、志高く舞い上がる。
鳥瞰的であれ、それが科学者だ。」
北里柴三郎
そうです、鳥瞰的というか、俯瞰が大切。
ねばべきも理系には大敵です。
「常識は疑え」が理系の基礎。
まりちゃんさんの小瓶に、理系の魂が揺さぶられました。
月曜日の思考の日、寝転んで書いてます。
力は抜いて……電源入れっぱで寝てしまった。
慌てて胸ポケットへ、乳首が焼けるほど携帯過熱です。