物心ついた時には希死念慮とは仲良くやっていて、随分長い付き合いだったように思う。それなのにその影を感じなくなったのはいつの頃からだろうか。
少なくとも中学生の頃には消えて無くなってしまいたい思いが心を覆っていて、口を開けばうっかり「死にたい」と呟いてしまいそうなのを日々懸命に堪えていた記憶だ。
関連があったのかは不明だが、希死念慮の発露が時期として重なるようなものがあった。
所謂“離人感”というやつだ。
こんなエピソードを鮮明に覚えている。
小学5年生のある日、運動会の前日の夜。ふと、明日は本当に運動会なのか?と疑問が湧いた。
実感が無かったのである。
1年生の時なんかは運動会の前日なんてソワソワして全く落ち着かず眠れない夜を過ごした記憶があるが、今回は全くそれがない。
前年も同じ感覚だったのだろうか?一体いつからこのように“実感”がないのかは分からないが、とにかく「失われてしまった」と思った。
私は本当に明日運動会を控える私なのか、もしかしたら本当は違って、明日も普遍的な1日が来るのではないかと思った。でも次の日にはきちんと運動会の日がやってきて、私は一日を過ごした。
その日一日中、“実感”が私の元に訪れることは無かったが。
それからしばらく、中学生高校生の間は少なくとも“実感”の無い日々は続いた。それが私にとっての普通になるくらいに。“今まさに自分が生きている”という感覚のないまま、早く消えてしまいたいと思いながら。
それから数年後のある時、社会人になってからの話である。ふと心の奥底にのさばっていた希死念慮が感じられなくなっていたことに気が付いた。
一体いつから私は希死念慮とお別れしたのだろう、全く意識していなかった。
そういえばなんだか、“実感”もきちんとある気がする。次に友達と遊ぶ予定はいつで、推しのイベントはいつで、というようなしっかり未来へ続く感覚と楽しみもきちんとある。
憧れや嫉妬ばかりの学生時代と違って、忙しくもなんだかんだ充実するようになった実生活に紛れて、私には見えなくなってしまったようだった。
離人感なんて抱えていても良いことなんて無かったから、なんだか嬉しく、そして居なくなったそれを少し下に見るような気持ちで今の暮らしを幸せに思った。
そしてそんな日々がまた、“普通”になった。
そして時間は今に戻り、仕事中の話である。職場にある鏡に映る自分を見て、なんだか不思議な気持ちになった。
これは、私なのだろうか?
私は、本当にここに居た私なのか。社会人になった。本当に?本当は私は今、どこにいるの?私はいつから私になった?
ここ数年息を潜めていた感覚が不意に溢れ出したようで、当時感じていた離人感に近い足元が不安定で浮かぶような感じがした。
なんだか懐かしくも、不安感が拭えない感覚を思い出した。
私は変わったようであの時からずっと変わらず、自分のアイデンティティのようなものがしっかりあるようでなんだか安堵したような気さえする。
それでも同時にまたこの不安定な感覚の中で生きなければならないこと、私という存在は結局のところ自分というものについて捉えられる確固たる形が無く、自分でもその輪郭を探りながらでなければ生きては行けないのだと、なんだか失望したような気持ちを今も抱えている。
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
すごくやさしい言葉をかけてあげてほしいです