可哀想。
どこまでいっても、酷い人間に対して同情心が湧いてくる。
普通人に非難されるべき人間のことをいつもああ可哀想にこの人は病気なんだ病気が彼彼女をそうさせてるんだとか、何がこの人をそうさせたんだとか、思う、だからってなにか言ったりやったりする訳じゃないけど。ただそう思う。
もしかすればそうじゃないと心が保てないのかもしれない。
酷い人間を酷い人間と認めてしまえば、じゃあ、そんな酷い人間が、姉が、私にしてきた行為は、なんだったのか、すべて考えなくてはいけないから。
怒りを発露する人間に対抗しようという意思をなかなか持てない。ただ凍りつく。凍りつきながら、猫撫で声でその怒りが鎮静することだけを目指す。
それが無駄だと悟った、あるいはそれではいけないと思ってその意思を持てたとして
私ができることといえば相手がしてきたのと同じ(と思える)ようにやたらめったらに暴言をがなりたて、物に当たり、結局、敗走して、一人になった瞬間に泣き喚くことだけ。
死にたい気持ち。それは、底なし沼に溺れていくときの感覚みたいな無力感。
幸福な人間になりたい。
不幸をうまく処理できるように育ってきた人間になりたい、というか擬態したい、そうじゃなきゃ多分私は一生不幸だから。
頭の中があるときから永遠にオーバーフローしたままそのオーバーフローが加速し続けるがまま生きてきていて、私は必死にその瞬間瞬間に戻っていって、全てをやり直したい。
毅然とした態度を取りたい。
それができない親に対して異常な怒りを向けていたのは、結局、自分が一番そうしたくて、でもできなかったことだからなのだと思う。
まともな人間はどこにいたのか。
私の家庭はとても恵まれていてまともだったはずで、なのにどうしてこんなにもまともじゃないと思えるのか。
家の内に私よりまともな大人なんていなかった。そんなはずはないのに、そういう想像を止めることができない。
何度「私だったらこうするのに」と思っただろう。
もしも私がお母さんの体を乗っ取れたらお姉ちゃんにあんな言葉をかければこの場は収められるのに。
逆にこういう言葉を言えば状況の打開に繋がるかもしれないのに。
私にはありありと見えるその場の力学のようなものが、どうして大人には見えないのか理解できなかった。
まあ私だけが必死で姉の一挙手一投足全てに食らいつくように姉を観察していたことを考えれば、それも妥当なのかもしれない。
私は「それ」ができなければ傷がまたひとつ増える。だけど大人は必ずしもそうじゃない。多分それだけの話だった。
今はもう私も必ずしも「それ」をしなければいけない訳ではなくなった。だからその力学を思い浮かべる時間も減った。
でもこれからはその代わりに、あえて空気を読まないという行動をとらなければいけないんだろうなと思う。
私が従う存在のままでいたらいけないと思うし。親ですら姉に従っているのに、私がそうではもっといけないと、思う。その方策はいまだ立たないままだけど。
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