今でもたまに、想うこと。
今、私がみている世界は全部脳が作り出している幻で、私はただねむっているだけなんじゃないか。
その中でものに触れることができるのは、この世界でさわることができるように、この世界で造ったんだから当たり前のこと。
今私がこの幻を見ているのは、目覚めた本当の世界には悲しみ・不安・嘆き・恨み・自虐・疑い・そんな不の感情、出来事がないから幸せだけの世界だから、この幻で一生分の不を消化するための物で、この幻が終わったら、幸せだけが待っているんだ。…と。
今私がみているこの世界はなんなんだ。どうして、私という物体がこの世界に存在しているんだろうか。この体はなんなんだろう。本当に存在しているのだろうか。私という存在は。そもそも、この世界は本当に存在するのか。
一度ハマるとなかなか元に戻れません。違和感が残る。
こんな考えは、小学校の中学年頃からあります。
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ななしさん
「我思う故に我あり」ってデカルトの言葉知ってますか?
その考え方に似てますね。
デカルトはこの世界は本当に存在するのかとかありとあらゆるものを疑って唯一疑えないものを見つけました。
それは「自分自身の存在を疑っている自分自身」です。
私も詳しいことはわかりませんから本を読んでみてくださいね。
個人的にはあなたの考え方にとても興味を感じます。人の生や世界の存在を考える哲学をあなたは幼いころから持っているのでしょうね。
この世界から死によって抜け出せるとしてもそのあとに残るものは違う世界かもしれないし、無であるかもしれない。
でも、この世界から抜けることによって苦しみから解放される保証はないだろうなと私は思います。
結局、真理は誰も知らない。けどそれを求めたくなる。
知りたいのにわからないもどかしさが違和感の正体なのかもしれませんね。
ななしさん
つ 水槽の脳
興味があったら調べてみてね。
一応学問として似たような話がたくさんあります。
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