些細なトラブルがきっかけで職を捨てて半年になる。
『自分が要らないものは他人も要らない』を体現したような日々の求職活動にも然程心が動かなくなった。
いよいよ消費以外に己の価値が現実的に無くなってきているのを肌身で感じる。
周囲を、世の中を、人生を。
疑って、否定して、憎んで。
波乱は無く、理解だけが残った人生だ。
愛着は無いし、未練もない。
不幸を望んだ結果だ。周囲を呪った報いだ。
夢も展望も手放した人間が、拍子抜けする程あっさり想像できたリアルな未来だ。
『QED』
『QED』
『QED』
『QED』
総決算のタイミングが来たかのように次々と証明が終わる。
既に知ってる、認めているものが例外なく照合されていく。
嘆く選択肢も無ければ権利も無いのだろう。
選んだ。
自分で選んだ。
選んだって言えばいいんだろ?
選んだ。選んだ。選んだ。
脳みそが足りないから。心が脆弱だから。何も知らないから。人と繋がれなかったから。考える事を辞めたから。
自己責任。
良かったな、踏み外さなくて。
良かったな、理解できなくて。
もう喋らねぇから忘れろ。
マイナスのマインドで笑顔を作る事など容易い。
サーカスの道化は態々顔に涙の化粧をすることで内面の悲しみを表現していると言うが、外野からすればあれは模様だ。気にもされない。
本質なんてものはどうでも良い、腐らなければ栄養だ。
それが真理だ。
先日君の前世の人間は親類の墓の存在を知った。
『夫婦』だとか『親戚』のような概念が薄い人生だったので、幼少より墓参りというものをした経験が皆無で、親類の墓は存在しないものかと思っていたが、それとなく確認してみたところ片方には存在していたようだ。
理由は無かったが、気になったので出向いた。
多分自分が死んでもそこには入らないんだろうけど。
お盆休みの存在意義が解らなかった人生で、墓が存在していた事実が何となく嬉しかったのかもしれない。
あぁ、ちゃんとあったのかと。
緑の綺麗な高台の霊園で、一般的な墓場の不気味さを微塵も感じず、白と黄色の蝶が視界に飛んでいた。
綺麗な花が手向けてあり、手を合わせると花の香りがしたので造花だと気付いたのが大分後になった。
墓石に刻まれた名前はほとんど知らない名前、私よりも若くして眠った記録もあり複雑な気持ちだったが、何となくその中で記憶にある最後に会った日からの人生を振り返ってみた。
さぞ笑える程に笑えない色のない報告だった事だろう。
おまけにほぼ生きる意志を放棄した生気のない末裔の姿に何を思っただろう。
色んな事を知らなかった私が最後に求めているものは何だったのだろう。
10分だったか15分だったか、言葉にしても整理しても何も出て来ず、連ねた言霊は嘘が本当かも自覚できず、何で今の今まで生きていたのだろう。
笑うでもなく、謝るでもなく、お礼だけ言ってその場を後にした。
現在君の前世は『生きる』事にも『死ぬ』事にもモヤモヤしている。
生きる意味はない、死ぬ意味もない。
放っておいても生きる、放っておいても死ぬ。
この葛藤に疲弊しながら老衰するのが一番の恐怖と言っていい。
私は人間の真似をしていた人間だ。
来世はきちんと人間になりたい。
いや、人間で良いのかも解らない。
肯定も否定もする程人間をやっていない。
ただ、生きたくない。
未来を見たくない。
他人が要らないものは私も要らない。