私は、小中時代、典型的ないじめられっ子であった。そして偽りようのない、正真正銘の出来損ないである。
自分に関わるすべての人から、常に「否定」をされてきた。日常の細部における私の行動から存在価値まで、なにもかも。全てを。(今思えばそれは正当な評価である)
そういう意見の中で呑まれ揉まれ、ずるずる無意味に命を引き摺って、「呼吸し続けた」結果、唯一の味方のはずの自分でさえ己の存在は「必要ない」というように、自己否定、自己嫌悪をするようになったのは、一体何十年前からだろうか?
…覚えていない。
でもどこかで私は「誰かに自分を認められたい」
と思っていたようで、だから関わる人間がガラリと変わる高校生活にほんの少しの希望にも似た何かを抱えて、ついにそれに辿り着いた。最初は雰囲気もよく、今までにない心地よさを感じていた…「ここなら友達というのもできるのかな」なんて考えていた…………はずだった。
確かに高校のクラスメートは「表向きには」私を否定するようなワードを口にはしないし、寧ろ「表面上は」肯定的な言葉をかけてくれる人が多かった。
でも、私はそれをなぜか「お世辞」「これはきっと何かの罠だ」と考えてしまうのだ。
これは、おかしい。自分は「そういう言葉をかけてくれるのを望んでいた」はずだったのに。
そしてあろうことか、「仲良くしよう」という言葉に異様なまでの不信感を覚えた。「私を良いように利用したいだけなんだ」というように。
もしかしたら、善意100%で声をかけてくれているかもしれないのに、どうやっても私はその言葉を素直に受け取ることができなくなってしまった。それを、求めていたはずなのに。
常に私というのは、否定されなければ、否定していなければ、吐き気がするほど気分が悪くなるようになってしまっていた。
その時、私はやっと気がついた。
自分自身というのが救いようもないメンヘラ気取りのイカレポンチ野郎であることに。
全部、手遅れであることに。
こんな私に、いつか誰かを本気で信用できる日が、この心を開くことは、
…何処までも堕ちる私を受け止めて、抱きしめてくれる人は、現れるだろうか。
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ななしさん
そんな日が来ると良いですね
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