一流である人と自分の間にある埋められないものの差は何か。一流である人は自分から自分の話をしない。私はどうだとか、俺はこういう人間だとか聞かれてもない事をいちいち先回りして語らない。私が一流であるとすれば、私の漫画が成功するしないの話を書く前にしなかったはずだ。
しかし、一流である人のプライベートは別ではないだろうか。そこでは誰かに自分の話を聞いてもらっていると考えてみてもよい。相手は気の合う友人や恋人、または家族である。それはつまり、誰もが誰かに自分の話を聞いてもらっているという事だ。
SNSに自分の話をするというのは、全世界に向けて発信しているというのは、もうすでに危険なのである。(引き返すなら今だと私は自分に言い聞かせる)。自分語りは忌み嫌われる。自殺予備軍か犯罪者予備軍なのだ。
私は失業保険の給付を受けるつもりでいるが、その後はアルバイト生活になるのではないかと思う。34歳でフリーター。世間の目にはどう映るだろうか。「漫画家になるのが夢です」なんて言ったら、痛々しいやつになる。夢を追いかける年齢では無くなっている。
うつ状態で働いて躁状態で漫画を書いてた時には、そういう現実が見えてなかった。自分に欠陥がある事は気づいていたが、遺伝子が性格や仕事の面にまで及んでいようとは。
今は落ち着いているけど、またもうすぐ厳しくツライ現実の波に攫われてしまうだろう。今この1秒1秒がとても大切なひとときに思う。
世界はますます分断されていっていると知産階級の人は指摘している。橘玲によれば、分断をもたらすのは性愛の欲求であるという。私には関係がない。いや、それを放棄する方向で生きてきた。オナニーや風俗にハマった時期があったし、一般人の女の子とやりたいという妄念に苛まれてもいた。例えば、今、目の前に壇蜜が色香を出して迫って来たら、なんの抵抗もなく受け入れるだろうが、そんな現実はあり得ない。だから救われている気がしている。貧乏である事が誇りでさえある。
プロ野球選手になりたかったり、小説家になりたかったり、画家やYouTuberや漫画家になりたかったりしてきた。それぞれ動機は少しずつ違う。ただプロ野球選手と漫画家は動機において近いものを感じている。
でも自分に求められているものは、動機ではなく結果である。自分語りではない。言葉を回す事ではない。それはお金を回す事である。お金を回すために私は生かされているのである。みんなそうだ。そうやって。生きる。生かされる。どっちでもいい。
労働ではなく楽しんでいるだけならどんなにいいか。楽しめなくなれば労働をする気力もない。お金を使うのが楽しいのではない。発見するのが楽しいのである。発見のない日々は地獄だ。親は子どもの成長を発見するから、労働から救われている。子どもは発見するから知性が成長する。