反社会的勢力の人々を「反社」と略して蔑称する者が一部に存在する。では、「非社」はどうか。
私事、就職活動において、実質倍率25倍の1次試験(いわゆる筆記試験)を通過し、同倍率2倍の2次試験(いわゆる面接試験)に落ちた。
採用に至らない件数はもはや数え切れないほどである。1次と2次(場合によっては3次以降もある。)がある場合においてそれが筆記と面接で分けられているとき、筆記たる1次は、必ず合格し、面接たる2次以降は、必ず落ちる。
面接では何をどのように評価して点数化し不合格者を決めるのか。否、そのようなことは考えるに及ばない。面接に合格すること即ちとりあえずの体面とその場しのぎリップサービスを展開できることが、いわゆる社会的人間なのであり、私はあらゆる面接に落ちるのだから、社会的人間には非ず、つまり「非社」なのである。
筆記がどうしようもなくバカでも面接さえ好印象なら最終合格することは恒だが、筆記はすばらしいが面接がダメダメでも最終合格することは皆無である。労働市場は、少し緊張しやすいとか上がりやすいとか、まして精神や発達に少し偏りがあるとか、つまり「非社」を徹底的に排除する方向であり、これはつまり、これら特徴を帯有する「非社」に対して、憲法が権利を保障し義務を課す労働の機会を与えないということであり、労働市場による基本的人権の侵害に他ならない。
非社は生きてはいけないのか。死ねということか。