たまに、ふっと昔の嫌な記憶が出てきます。
あまりにも出てくるので、いちいち悩むのにも飽きて、最近では脳が暇してると理解するようにしてます。
ただ、昔、人からされて嫌だったことに対しては怒り(または、その頃の自分が声に出せなかった拒絶)を出すことは、止めないようにしてます。
当時の私の傷に対して、自分まで見てみぬふりをするのに疲れたからです。
このところ、学生だった頃に嫌なことをしてくる同級生を友人と呼ばねばならなかった理不尽さに腹が立っています。
今なら、その人の言動や価値観から考えて、友人とは認識しないです。
私が誠意のある対応を心がけることや、一緒にいる心地よさ、尊敬の気持ちを、その相手に対して維持できないからです。
振り返ると、そういう気持ちが持てない人と仲良くしようとすると、
自分の中で齟齬が生じて、相手を傷つける行為を厭わなくなる自分がいました。
仲良くしようと言いつつ、大切にしたいと思えない状態です。
結果、相手を傷つける行為をする自分が駄目なんだと思うようになってました。
仲良くするという指示がなければ、無理に近い距離を保つ必要がなく、協力するストレスも少なく、攻撃的でいる必要もなかったでしょうに。
だから、同じクラスだからといって、友達、仲良くしようといった教育をするのは無責任だなと思います。
少なくとも私の子供時代は、仲良くする=同調するになっていました。
同調とは、相手と自分との境目を曖昧にすることです。
良い気持ちが持てない相手と同調することへの反発は、正常な心の動きだと思います。
だから、無理に近づくことをしない方がよほど相手を尊重できる。
そして、自分もむやみに人を傷つけないという尊厳を守ることができる。
大人になって久しいこの頃、ようやく今の自分が大切にしたい人を友人と呼ぼうと考えるようになりました。
学生の時の記憶から、会いたくない人がいます。
その人と偶然会ったら、幼なじみとか同級生といった呼び方で、
仲良くしようと近づいてくるんじゃないかと怖いです。
ようやく仲良くしたくないことに気づいたのに、向こうはそう認識してなかったら、
つい、自分が学生だったころの感覚に引きずり込まれそうです。
だから、強く意識を持ちたいなと思って、長々と綴ってしまいました。
こちらの望む以上の距離を詰めてくる人には、不快感を露にして良い。
相手に願望があるように、私にも誰とどう関わりたいか選択する力がある。
忘れずにいようと思います。