※某所の自分の吐き溜めを自分用にまとめたものなので脈絡はあまりありません。
三大欲求は満たされている。
マズローのアレで言えば、生理的欲求や安全欲求は満たされている。
社会的欲求はそこまで満たされているとは言えないものの、少なくともリアルではあまり欲していない。
安全欲求が満たされるようになったのは大きいかもしれないな。
あれだけうるさかった承認欲求ですらも落ち着いている。
脳の回るスピードがめちゃくちゃゆっくりなのだけど、ほどほどにしてほしいな。
かつての思考力はもうどこにもない。
こないだとある催しに遅刻した時は死への強迫観念に苛まれたが、それ以外は思考はのんびりしている。
もう少し、頭の回る人間だったはずなのだが。
最近、ごはんが美味しく食べられている。僕は幸せなんだろう。
唾液が不味く感じてきて飯食っててもその味しかしない。そんな時さえある。
それがないということは、僕はきっと穏やかに過ごせている。
僕が死にたくなったって、親兄弟は話を聞くどころか馬鹿にしてくるだけだし、存在否定までする。本当、もう少しでも理解のある家族だったらとは思うよ。まぁでも、僕の精神が不安定にならない限りは、攻撃なんてされないから、なるべく心身共に健康でいたいところだな。
人の為に死のうなんぞ思ったことはない。死は迷惑だからだ。
自分のためを考えて他人のことを考えず。その末に死にたいと感じている。
なんて僕は自己中心的な思想を持つのだろう。
否、死にたい時は他人のことなど考えてはいられない。
何をしてるのが楽しいか。
そんなことを聞かれると困ってしまう。趣味を聞かれても小学生から変わらない答えをそのまま使っているような人だから。
楽しいことは刹那であってすぐに終わる。覚えていない。そこまで気になるのなら、脳波でも測定して無意識に直接聞いてくれ。そんな気分だ。…もっとも、そこまで気になるような輩はいないだろうが。
感想文を書き出すことは苦手だ。でも、それについて考えることは、興味あることならできる。なるべく自分の意見を持っていたい。それだけのことだ。
希死念慮をどうにか言葉で表したくて、死にたくてしょうがなくて、自殺念慮へと形を変えて。そうしてネットで調べてみる。
生きてる人間の話を聞いたところで、多くの場合は「お前は生きてるから参考にならん」としか思えない。
それなのに何故僕は検索窓に「死にたい (なんか単語)」と打ち込んでいるのだろう。
朝の活動時間になるまでの暇潰しとは分かっていても、空虚な気持ちが拭えない。
僕は完璧主義をやめたから、他人と比べて下のほうであってもあまり苦しむことはない。しかし、批判されたり非難を受けたりすれば話は別だ。
人の評価に振り回されがちである。本当に心の底から嫌いな人間からの評価でない限り、僕は真に受ける。
人と親しくなれない。上記の理由から冗談が言い合えないからである。
理想が高いのは分かってるし、残念なことに自分に出来る程度も分かってしまっている。
「可能性の芽を摘んでいる」なんて言われるかもしれないが、ごく最近うつ病を経験した身としては、いつ再発するか分からないし、精神病発症当時の活動しか出来ないと考え込んでしまうのは至極当たり前のこと。
高みを目指せない自分が、嫌になる。
“他人と比べて下のほうであってもあまり苦しむことはない。”とは書いたが、自己嫌悪することだってある。