私はもう学生ではないので、今にして思えば意味があったな、という視点で回答させてもらいますね。
私が学校(高校)に通っていた時の一番の理由は、大学受験のためでした。
大学でこれを学びたいとか、将来こういう仕事に就きたい、という具体的目標はなく、窮屈で退屈な田舎を離れて都会に出たかったんです。
大学に行くというのはある種の口実ですね。
ちなみに今は高校・大学時代には考えもしなかった仕事(?)をしています。
あとは、人間観察の場でもあったなぁと。
クラスメイトや部活の仲間、先生、そして自分自身についても、観察したり話したりしていると色んな発見や考察があるんですよね。
この人いつもマウントとってるなぁとか、クールキャラぶってるのに案外気配りしてるなぁとか、あの先生は露骨にえこひいきするなぁとか…。
ロールモデルになりそうな人、逆に反面教師にしたい人、仲良くなれる人、苦手な人、様々な人とそこそこ密に関わる中で、自然と自己分析したり自己構築したり、人間観を醸成していたんだなぁ、と。
立ち居振舞いや話し方(語彙・言い回し・表情・身振り手振り・間合い等)や考え方なんかも、周りの人たちからかなり影響を受けているという自覚があります。
数学の公式や科学・歴史で習ったこと等の詳細は忘れてしまいましたが、それでも大まかな時代の流れとか生物の体の仕組みの基礎とかは頭の片隅に残っていて、現在の国際関係や社会の課題、自分や他者の健康について考える時のベースになったりしています。
私は運動部に入っていたんですが、同調圧力とか連帯責任とか根性論とかはマジで受け付けないな、と肌感覚で実感できたことも「意味があった」と思います。
将来、そういう組織やグループからは距離を置くという対策ができるようになりますからね。
部活に行きたい、好きな人に会いたい、それだって大きな「学校に行く意味」ですし、「自分は何で学校に行けないんだろう?」「そもそも学校に行く意味って何?」って自分の頭で考えたり、他者の意見を聞いてみたりするのも立派な勉強だと私は思います。