自分が自殺した後の世界を想像する。
自分が死んだら誰かが悲しんでくれると思うのは最低の甘えだ。分かっているけれど、自分の自殺にも人生にも意味があったと未だに信じたい。
誰かに尊敬してもらえるような人間にもなれなかった。死ぬのはいけないと皆が言うけれど、自分にはどうも信じられない。
自分以外の人間皆が完璧に見える。自分と他人の間に何かを分かつものがある気がする。
自分と本当に同類だと思える人に会ったことが無い。勉強が出来る出来ないでは無く、何かが自分には足りない。
足りない何かを埋めるものが分からない。
一人称の多い人間は鬱の傾向があると何かで読んだ。自分が何回「自分」をこの投降で使うのか分からないけれど、自分は自分一人の問題でいっぱいいっぱいだ。
自己責任とか因果応報とか、結局全部自分が悪いのだと言われるのは分かっている。
悪いというなら何が正しいのか示してほしい。そう思うのも甘えだろうか。
生きていることは本当に正しいのか。苦しみ続けるのが正しいのか。自殺したら地獄に落ちるとか、障害や欠点をもって生まれてくるのは前世の罪だというけれど、本当に罪があるなら生まれてきたくなかった。
悩みながら悔やみながら生きるのが贖罪なのか。何の罪を犯したのかも分からないのに苦しむのが宗教の正しさなのか。
遺書にこのアカウントのIDとパスワードを書いた。
どこかで同情を望んでいる自分がいる。こんなに悩んでいたんだと知って欲しい自分もいる。
誰も自分の事を救ってくれない、それこそ自己責任だと自覚している自分もいる。
人間は皆矛盾を抱えて生きているという論説がある事も知っている。
本当に皆が自殺未遂をしながら生きていくのか。自分にはそうは思えない。
やはり自分には何かがあるような気がする。致命的な欠陥があるならば、なんとかそれを示して欲しい。
本当に駄目な人間でも生きていく事が出来ると主張するならせめてその欠陥をしめしてほしい。
それも甘えか。
親を恨んでも環境を恨んでも何も変わらない。
恨みたい自分もいる。
恨んでもいいんだよと言われたいだけなのかもしれない。
結局構って欲しいだけかも知れない。
死ぬのは怖い。
ロープを首にかけて何度も迷った。
大学院も就職もなくなる。代わりに楽しかった趣味もなくなる。
友達が悲しむかも知れないと思う反面、悲しんで貰えるなら嬉しいと思う自分もいる。
他人に自分の価値を認めて貰えないと、自分で自分の価値を保担できないのかもしれない。
自己肯定感という言葉があるけれど、「肯定」というからにはプラスの意味合いがあって、自分の事を殺したいというのはマイナスの意味合いで、自己肯定感とは何かが違う気がする。
友達や趣味の一瞬の快楽に頼って生きるのが本当に正しいのか、自分には分からない。
自分には何も無いと思う反面、悲観的過ぎると思う自分もいる。
いっそのこと本当に何も無かった方が楽だった。自殺するいい理由になって、誰もが納得する整合性を担保することが出来た。
本当は、本当に何も無い人生を送るのはとても怖い。
ここで話したくは無いけれど、ある種の特殊性に甘えて生きてきたのかも知れない。
普通の人生がどんなものなのか分からない。
初対面の人に羨ましがられることがあるけれど、自分ではただ無駄に苦しんだだけだと感じている。
嫌みに聞こえるから誰にも言わない。語られても共感できない事は初めから話さない。