少し間が空いた。この前書いた時と私は
変わっているような気がする。何が変わった
のだろうか。意味があることをしないと、
言わないといけないと思うと途端に苦しく
なる。世間は利益を求めているような気が
するが、本当はどうなのだろう。意味がある
こととは得をすることである。お金は必要
だけど一番大切なものではないというのと
同じだ。意味があることは必要だけどもっと
大切なことがある。ここ最近の気付きは私は
煩悩から一歩も離れられないのと同時に無限の
宇宙そのものであるということ。怪しげな妄想
ではなく、事実そうである。常識から外れた
望みを持った時、自分があたかもヒーローだと
いうように、罪を犯したのだから罰を与えな
ければならないと正義を振りかざし、自分を
不幸な状況に追い込む。道理が見えないために
自ら不幸に陥っている。そもそも常識から
外れた望みを持つ自分がおかしいと思うこと、
人間は生きている限り煩悩から一歩も離れること
ができない、罪を犯さずにはいられない愚かな
存在であることを知らないで、善人であるはずの
自分がこんな罪を犯すなんてと自惚れている。
それが罪悪感を引き起こし、無意識のうちに
罰を与える人生を送っている。真実は、人間は
煩悩しかないのが当然であり、自分は善人だと
自惚れる心があること。自分を善人だと信じて
疑わないから罪の意識が生まれるのである。
私は常識と違う考えを持っていても幸せになって
いい。道理を知って罪の意識から解放され、幸せ
になる自分を受け入れる。それは意味があること
よりも大切だ。私が無限の宇宙の一部であるなら、
この生死の中にある私には何の意味があるの
だろうと思っていたが、幸せになりたいという
煩悩に従って生きるという理由が生まれた。
病が治るということは、大前提として元気に
なっていいと思えているということである。
善人だと思い込んでいるために自分を否定して
悪だと責めているならば病気は治らないだろう。
病に苦しんでいる人は、元気になっていい、
幸せになっていいのである。
人生の課題、私とは何か、死んだらどうなるのか、
なぜ生きるのかが少しずつ明るくなってきた。