私は恵まれていると思います。
家族は、たくさん愛してくれます。学校で話をする人もいます。趣味もあります。
でも、自分が屑だなと思って死にたくなります。死にたい、自分がきらいです、どうしたらいいかわからない、しにたいけど、自殺する勇気がありません。母親の、真剣な、大事な、心のこもった話をテレビに気をとられて聞いていませんでした。母はいつも私の話をたくさん聞いてくれます。本当に優しい母です。私はほんのすこしも母に返せていない、いなくなったほうが、ましだ、わたしが生まれてこなければ母と姉は仲が良いままでした。わたしが生まれてこなかったほうが、いろんなことが上手くいっていた、わたしがいてもいなくても、たいして変わらないし、いないほうがいい、死ぬ勇気がほしいです。
もっと苦しんでいる人からしたら、甘えてるなというかんじかもしれない、ごめんなさい、もっとやさしくていいこが、母のところに生まれてきていたらよかった、わたしじゃない、もっとやさしくていいこが
だれかにころされたいです
厳しいことを書いています。傷つくと恐れるなら読まずに通報してください。
残念ですが自殺願望はどんなに自分の能力が評価されてもどんなに愛されてもつきまとうものです。きっとどこかで自分に自尊心か理想主義的なところがあり、それにそぐわない状況に混乱しているというのが、私が今自殺を考えるきっかけでした。こんな時気づくことは、私は私のために生きているわけではなく、だれかのために生きて行かなければならないという社会の拘束が、見えないところで働いているということです。あなたが生きて、子孫を繋ぎ、将来働いてなければ、少々大げさですが、日本の社会の営みにおいてはマイナスなのです。人口が減る中ならなおのこと、あなたの社会生活が全ての人において必要なのです。
私が結局何が言いたいか、というと、人生を諦めるということは自殺ではなく、自分の感情にいかに鈍感になり、ただ単純に社会を生きていくということだと思ってください。そしてほとんどの社会人が自分を諦めて、そのような社会の営みを担っていることに気づいてください。あなたのパーソナリティなんて、ただあなたが単純に働いてくれれば関係ないのです。
よってあなたのその謙虚さや母への献身的な気持ちが本当であるのなら、自殺は最適な選択ではないのです。最も自分を苦しめ、それで懺悔を望むならあなたはなんとしてでも生きていくという選択しかないでしょう。