すきー!
やりたい、したい、
きら〜い、したくない!
で、
選択する時、
そこには、他人の目
世間体思考、
損得勘定が一切入ってない状態のが
その人が、こころから選んでいるものだといいます。
(ふにおち)
だから、わくわくすきすき生活しています!
と、豪語しながらも
損得で選択している自分がそこにいるなら
それを悪いとはいわないけど、
こころではなく、思考で選択しているものです。
こうして、書き出してみたら
一目瞭然なのに、シャバでそういう人を見ると
とりあえず、言ってることとやってることが違うので
あれーー?から先が
よくわかりませんでした。
私自身、不安回避からその選択をする親に育てられてきたので
そういうひとの自動思考は、
理解は出来ます。
ただ、嫌いです。
もうそこには、戻りたくない、オンリー!
で、
そういう、他人さんがおられまして・・
自分は普通だ!!を、連呼するんだけど
(あと自分は普通の親に育てられた!も言う)
そのくせ、生きづらい生きづらいっていうもんで、
さっき、ふと、
ああ!!
それは、損得勘定(動機と建前はよかれと思って〜かな?)
の、親に育てられてるから
自分の当たり前と普通が、そうなんじゃんかーー!
・・と、至極当たり前のことに気づく。
すり合わせていないので、この時点では仮説の域。
というのが、
ちょうど10年前時点では、わたしもそうだったんですよ!
もうろうとしている私を励ます母親が
かけてくれる言葉のひとつに、
(当時ボール紙に書いていた)
『自分がラクに生きるためには、ひとの気持ちなどは考えない』
(自分の中に取り入れない)
『流す事が大切』
『どうでも良い人の事は、思うだけ無駄。
何の足しにもならない人は、自分のためになにもしてくれない。
自分のためにならない人のために考えない』
おかあさん、直筆で、私の事を思って
書いてくれた言葉の一部です。
すごいでしょ。
いま思うと、使える部分がない!
「損得フェスティバル」だぜ?!
おかあさんは、いまも他人軸の人で
それでいいっていう。
しあわせだし、かわいがられているから。
だから、わたしとは、噛み合わないところが当然あるので
当たり障りの無い事しか言わないようにしてる。
あ、全部、黒い部分、吐き出したうえでの
和解済みのうえでの、はなしですよーー
と、前述の他人さんも
この手の人なのかなあ?と
ちょっと思ったのです。
だから、なんだ?!はナイナイ。
わたしは、この手の人とは縁がないので
つきあわなーーい!
わたしは、自分自身を粗末にしてない人じゃないと
もう、なんか、無理っす。
生きる方向性だけでも
そっち系のひとでないと、
噛み合わないのです・・
(右往左往してても)
年齢じゃなくて、こどもは、もういい。
と思って暮らしていると
よきご縁に巡り会うようで
なんだか、真摯なキュンとなるくらい
ひとつひとつ、純な耕し方をしているひとに
出会えます。
宛メの中でも、ちょっとそれを感じます。
ありがたやーー!
ひきつづき、わたしも、わたしと、仲直りーー
はつづきます。
生きづらいことこそが生き甲斐。
幸せでないことが生き甲斐。
すごいよね、より、かわいそうとか大変だねとか言ってもらうことで、承認欲求が満たされる。そういう人もいるなと時々思う。
幸せの形って人それぞれ。
言葉でいうのは簡単だけど、それは実際にはなんと複雑なことか。
周りからは自分を粗末にしてるように見えて、実は本人は自分を大切にしてるつもりのこともあり。
あなたに生きづらいと言う人も、一生懸命幸せにならないようにしてるような気がした。
本人は生きづらい苦しい人生が至福なのかもしれない。
だったらその至福を持続させる為に「かわいそうかわいそう」と言えるか、いつまで言えるか何回言えるか、それも愛なのかもしれない。苦もなく言える人もいれば、絶対に言えない人もいるね。
愛したい人と愛せる人が微妙に違うことがあるのは、こういうズレがあるからなのかな。