生きるのも死ぬのもめんどくさい。
自殺を考えるのもめんどくさい。
仮に死ぬとしても痛いのは嫌だ。
死にたくない、学校は辛いわけじゃないし勉強が嫌なわけじゃない、ただめんどくさい、何をしても達成感がない、生きてる実感がない、俺はいつ壊れたのか、私の心が乾いたのはいつからでしょう。
一時的な快楽、人に見てほしい、自己を顕示したい、いつもは声がでかいのに肝心なときに出なくなる、そんな自分を嫌悪する、学習せず繰り返す、正確には学んでも自分を抑えられないそんな感じの繰り返し。
私はいつ壊れたのか、母と父の喧嘩を幼初期に見たからか、転勤族でいじめにあったからか、小学生2年の時点ですでに私は壊れていた、私は癇癪持ちだった、自分の心を抑えられなかった、抑えたくても抑えられずに苦悩した、それが原因でまたいじめられた。
その頃だったか、小学生になる前に故郷に帰った父が母と離婚していたことを知ったのは、小学生になる頃には母は体調が悪くなり病院に通い始めたのは、それから小学4年生の頃には2ヶ月に一度ほど入院するようになり、母方の祖母の家で過ごすことが多くなった、懸命に頑張った母だったが結局母は小学6年生の冬に病に侵され死んだ、大雪の日だった、死に目に会えなかった、病室で母を見たときは肝臓が悪くなっていたためひどい顔色だったが穏やかな顔だったもので涙は流れなかった、少しホッとしたのかもしれない、でも、医師の方が死亡確認をなされたときに母の確実な死を目の当たりにして急に色々なことが溢れてきた、目尻から大粒の涙が溢れた、その時の私はどんなひどい顔だったのだろうか、立ち会わせた祖母と叔父は涙を流さなかった、なぜ泣かないのかと聞いて、大人になれば分かると言われた、そのとき、二人は悲しんでないのかと思った。
だけど、叔父が病室を出て母のことに関して医師と話しに行った、私はお手洗いに行った、そこでも泣いた、それから病室に戻ると叔父は静かに泣いていた、そうだ、叔父さんだって自分の妹が死んだんだ、悲しくないわけがない、私はそこで叔父が先程泣かなかった気持ちが分かった気がした、多分私にそんな姿見せたくなかったのだ、そして、そんな叔父を優しいと思った。
母は病気を患ってもタバコと酒を続けていた、だから内臓が悪くなった、いろいろな病気を併発した、母は自分があと数年で死ぬとなるとこれまで以上に愛が重くなった、束縛に近いものだったのかもしれない、祖母が助けてくれなかったら餓死していたかもしれないし、二人で死んでいたのかもしれない、感謝している、本当に感謝している。
話は戻るけど本当に面倒くさい、交流関係も、祖母との関係もめんどくさい、これを書いてるのを祖母に見られそうになってついつい拒絶の語彙が強くなってしまった。
ここには書いていないけどいろんな事があった、私の人生はほとんどマイナスな出来事ばかりで、達成感や満足感を最後にしっかりと得られたのは小学4年位のときだろう、私は自殺未遂やクラスメイトへの暴行もしてしまった、こんな自分は生きていても意味がないと思っているし今もこんな書き込みをするということは精神が不安定でいつ自殺してもおかしくないだろう、でも、落ち着いて周りを見れば意外と手を差し伸べてくれる人もいる、それにこんな過去だからこそ心に呪縛のように生きろと訴えてくるだから面倒だけど生きるしかない。
最後に、読んでくれた方へ、本当は安楽死があればよかったけどね、日本にそういう制度はないからさ、今の時代下手に生きるよりもっと前に死んだほうが幸せなまま人生を終えれたかもしれない、だけど、くれぐれも自殺なんてしないように、「命を投げ捨てるな」、「誰かを守れるようになれ」こんなところかな、これを書いて少し落ち着きました。
せめて若くして死ぬなら誰かを守って死ぬように努めます。
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
すごくやさしい言葉をかけてあげてほしいです