「俺を見ろ、俺を愛せ」と周囲に言い続ければ愛される訳じゃない。むしろ「この人はエゴが強く、近寄れば利用されるだけだろう」とそっと人が離れていくだろう。
だがしかし、本当にそうだろうか?事実は常に直感と反し、意識と無意識は常に食い違う。
俺は男だ。少なくとも男として育てられた。男として扱われた。その中で学ぶ事は弱い男は愛されないという事だ。というか、愛される事を望むこと自体が弱さだと教えられる。それは表立って言われることは無い。暗に、静かな排除として伝えられる。弱ければ何の価値もないと。強くなれば全てが手に入ると。つまり、他人を踏みつけて自分の為に勝利を手に入れる事により幸福になれると。まあそれは極論なんだけど、少なくとも女性向け雑誌のように「ありのまま」「愛され」「自分を認める」なんて事は男の世界にはない。勝たなければ何の価値もない側の人間として無限の競走を強いられる。勝った男の性欲は喜ばれる。負けた男の性欲は嫌悪の対象だ。
権力こそが正義だ。膂力こそが正義だ。財力こそが正義だ。それらがあって初めて人間として認められる。男が人間になるには勝たなければならない。その為にはどんな手を使っても良い。虐めはカッコイイ。ズルだって許される。裏で取引してもいい。とにかく勝たなければいけないのだ。誰かに見てもらうために。誰かに愛されるために。
必ず誰かを負かす必要がある。罪悪感は防衛機制により「相手が弱かったから」「負けたのはその人の責任だ」「どうせ悪いことをしてたんだろう」と自己責任論で他人を更に攻撃する事を招き、構造的に必ず作り出される弱者は見て見ぬふりされ嫌悪の対象となる。
愛されず、恵まれず、運が悪く、実力を発揮出来ず、救われなかった男達はここでどう振る舞うかというと、自分の弱者性を嫌悪し助けを求めるという弱さを出さず自分の尊厳を守るために自分の痛みを無視し続ける。何故ならば弱者は誰にも見られず愛されないという事実と社会的に植え付けられた価値観を内面化しているからだ。
というか、勝った側の男も弱さは出せない。誰も幸せになれないのだ。
この不幸の連鎖は決して終わる事がない。誰が負けた男を抱きしめるだろうか?そしてこの事実を知った事により芽生えた罪悪感は無意識の中でどう処理されるだろうか?
俺は日々肉体を鍛え続けている。道を歩けば避けられる。目を合わせれば向こうから逸らされる。格闘技も習い、練習も続けている。キャッチは俺に声をかけない。しかしそれに増長せず、人の助けとなり人の痛みをよく考えて生きている。自分が生きていけるだけの金は作家業で稼ぎ、飯も自分で作り、完璧に自立した生活を送っている。競走社会を心から嫌悪しているからだ。ここに深刻な矛盾があり、自立しているなら愛に拘らずに自分が幸せに生きられるように生きればいいはずだ。肉体をそこまで鍛えて人より強くなる必要もない。まだ心の中は闘っているのだ。誰よりも強く誰も差別せず手を差し伸べられる優しい人間になれば、誰かに見られて愛されると心の中に価値観が植え付けられているのだ。
弱者そのものだった子供の頃から、親も含めて誰にも見られず愛されなかったから。まだいつか報われるんじゃないかという期待を捨てきれていないから。それが弱いとかだから愛されないんですよ的な事を言いたくなる気持ちもわかる。結局の所は自分で自分の弱さを認めなければならないことも。
自分のエゴの歪みは分かる。しかし降りられない。この男の不幸の連鎖からどうか降ろしてくれ。弱者を愛してくれ。俺以外の全ての負けた男達を愛してくれ。慰めてやってくれ。できる範囲で構わない。いや本当は俺が愛されたいのだがそれを言うのは弱さだから。また矛盾!これを書いても何も変わらないなんて事は分かってる。こんなとこで書いたってきっと誰も読まないこともね。社会に対して何か出来ることなんて何も無い。
この手紙に意味は無いが、人間はもっと善くあれると信じている。勝った人間は驕らず負けた人間が病んで歪まず平和な世界があると信じたい。こういう想いを心の中に抱えてる人間がもっと増えて欲しい。
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
すごくやさしい言葉をかけてあげてほしいです