自分を許してあげるってなかなか難しいことですね。
許すには、悪いところを全部うけとめて
それでも存在する価値があるんだよって
自分に言ってあげなければいけない。
それには、自分の良いところを見つけなければいけない。
本当に難しいことなのだと思います。
許すことと甘やかすことの違いって何でしょう。
自分にものすごく甘いから、
自分を許すともっともっと甘やかすような気がしてしまう。
境目がわからない。
好きと依存の違いもどこにあるんでしょうか。
依存しているからといって好きじゃないわけではないと思う。
だけど依存には好きな気持ちからおこるものとは違う執着がある。
全部に明確な境目があればいいのになと思います。
自分の気持ちだけではどうにもならないこと、できないことが
いっぱいあるんでしょうかね。
そうだとしたら、気持ちがあることが悲しいです。
認めてもらえない気持ちたちが悲しいです。
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ななしさん
あなたの言葉、いまの僕とまったく同じ思いでしっくりきます。
むしろ放ってくれてありがとう、です。
許すことと甘やかす違いは、自分のことが好きか嫌いかだと思います。
すきじゃないから、甘やかす。
すきになれば、そんな自分も、許す。
好きと依存は紙一重だと思うんです。
空気のように軽やかに思えればいいけれど、執着、相手を
自分のフィルターで見ようとするときに依存になるのだと思います。
家族や友達のような、ごくごく自然な気持ちで好きな人を
見つめたいなぁ、とは思います。
感情なんて、なくなればいいのに、と思うことがあります。
何も感じなければ傷つかないのに、と。
感情があるから人間なんだ、とか聞き飽きました。
僕も、僕である理由が欲しい。こたえなんてないけどね。
気持ちを軽やかにすることを心がけてます。
風のような気分でいると、なんだか相手も自分のことも、
そんなに悩むことじゃないというか、
今日も天気が良くて、ごはんがおいしい、くらいで済むんですよね。
考えてもしょうがないなら、むしろ考えず、今日を軽やかに生きる。
なんか、その方がメンタル的によいのではないかと思うこのごろです。
ななしさん
先ずは貴方御自身の「意思」を認めてあげて下さい。
私は、意思を認めることと、その意思の肯定、否定は別だと考えています。
要は貴方の中にそういった「意思・感情」があることを「認め」た後、それらをまた意思で以って肯定、否定するということです。
その上で、自らの意思と、行動に「責任を負う」ことです。
真の意味での自身に対する甘やかしとは「自らの行動に責任を負わず」その都度相手に責任を求めることだと思います。
例えば、
依存者は依存者の意思で以って相手に依存する。(そこに好悪含め様々な感情があったとしても)
しかし、依存であっても、その依存対象がその行為に対してどう思うかはその対象の自由です。良く思う人も居れば悪く思う人も居るでしょう、何も感じない人もいるかもしれません。
よって、その対象の「依存行為に対する感情」に対する責任意識を依存者が持てるかどうかが重要なように思います。
ななしさん
良かったじゃねえか。悩む教材いっぱい抱えて。
人生終わるまでに、バイエル止まりのヤツなんてごろごろいるだろ。
何年やっても悩まない、努力しないヤツは教材与えてもらえないんだぞ。悲しさも寂しさも音色に込められるヤツだから、今悩めるんじゃねえのか?見込まれてんだから嘆くなよ。
ななしさん
まあのんびり生きましょうよ。
ななしさん
許すと甘やかすの境目が何故必要なんだろう。
多分主さんは甘やかしきれないんじゃない?既に甘やかしはダメって言ってるもん。ダメなこと出来ないんじゃない?
好きと依存の境目も何故知りたいのか、知りたいなあ。
好きは相手への遠慮を持ち、依存はそれが常にない状態だととりあえず考えてみました。
多分性格についてだと思うけれど悪いところってないんじゃないかな。どれもこれも自分の中に自然発生的に沸き起こるもの。自他共に手に負えないものを悪いと決めているだけで、全部その人の一部。一部だから受け入れる、ってことだと思うな。悪いものをあえて認めるじゃなくてさ。
ああ、もっともっと自由になれたらいいね。
ななしさん
そういう疑問が湧き上っていること自体、
本人さんは恐らく、カオスの中にいるようで、あーいやだと
思われるのかもしれませんが、
私は、そんなに変なルートを歩いているようには思いません。
ただ、小瓶を読んでいると
~ねばならない、がいっぱいあるなーと思いました。
これは、大義名分上では、この過程を超えないと楽になれないのでは?と
いう気持ち経由のものではないか?と思うのですが、
それって、やなこと、やりたくないことを許容していくことにも
見えます。
そんなの・・・誰でも嫌だと思うがねー。
続けてたら、ノイローゼになりそうだぜ。
悪いところを受け止めるというのも、
私自身は(自分も、主さんと同じ受け取り方をしている時期ありました)
今は、好きになる、なんてのもないです。
あー、今こういう気持ちなのかー
ふーん、で終わりです。
その気持ちから、何かを導きだそうと無理にしようというのは
自分も、習い症になっていて、癖になってたけど、止めるようにしています。
ふーん、で終わりです、のまま、ほったらかしておくと、
心のほうから、どこぞのタイミングで
「あの気持ちや考え方って、あれがルーツだ」と、勝手に湧き上ってくるので
頭でなく心が、実感を伴って、ふわりと湧き上ってきたものなら、
~やらされている、~こうあるべき、とは別物なので、
自分の中でも、違和感がほとんどありません。
(理屈で押し込めるような感じもありません)
私は、ベースに、自分のことは自分で何とかする努力はする。
それは、誰かが手を差し伸べてくれても、丁重にお断りすることもあります。(他人をはなから当てにするのが、依存)
出来ないことが出来るようになるとうれしいので、
やりたくてやっています、がある上で、
ベストはつくしたけど、出来ない時は、他人に頼ります。
知恵を借ります。
さみしい時は、さみしいです、と肩を貸してくれよ~と言います。
甘えてみます。
甘えされてもらえたら、満タンになるので(ケースバイケースですが)
相手にお礼を言ったあとは、
「よっしゃ、また、自力でやるぜ。オレ、できる子だもん!」
・・に戻ります。
重複しますが、好き、な気持ちはあっても、ベース部分に自立の核があれば
依存に傾きっぱなしというのは少ないと思います。
たま~に、煮詰まる時、私は、
「根本的に、私はなんのために自分を変えようとしているのか?」と
問う時があります。
大抵、その問いが浮かぶ時は、考え方の軸がずれていることが多いです。
「本来、自分が楽に生きられるために、自分自身のためにやりたくて
やっていることなのに、
途中から、そうすることで誰かに受け入れられ易い私になれるから、やる」
に、シフトしていることがほとんどです。
(承認欲求の人ですね)
以上は、自分の場合のケースなので、問いは似ていても
聞こえてくる心の声は、まるで違うかと思います。
煮詰まったら、ベース部分の自分の声を聞くというのも
突破口になることはありますよ。
まいたん
ななしさん
きっと皆 そうやって泣いてる。
ななしさん
自分を許さなければならない様ななにか、悪いことでもしたの?
by 身体障害者5級
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