亡くなった実感がない
お葬式に行って、泣いてるおばあさんを見て、それでも実感はわいてこない
ただいまと言えば、おかえりと返してくれた近所のおじいさん
なんの変化もないように見えたおじいさん
涙はまだ出ない
出ないまま、1ヶ月過ぎようとしてる
私ってこんなに冷たい人間だったのか
ただ、寝る前にほとんど毎日おじいさんを思い出す
顔を思い出して、おかえりと言ってくれた声を思い出して、最後にそのおじいさんが亡くなったことを、また私は自分の頭に伝える
何回も何回も繰り返すけれど、やっぱり涙は流れない
そんな自分が恐ろしい。恐ろしくて、気持ち悪い
何度も思い出すのは多分、おじいさんの為じゃない
私が忘れられたくないから、私もいずれ死んで、そしていずれ忘れられるという未来を受け止められないから
私は私の身勝手さを改めて知ってしまった。もう二度と私は自分のことを信じられない。好きになることもない。
すこし泣きそうだけど、この涙は自分の為の涙だろうから流せない
私が流さなきゃいけないのはおじいさんの為の涙なのに
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ななしさん
親しかった人が亡くなったから、泣かなければならない、
なんて、セオリーはどこにもありません。
そういう、持っていき方を好む人、押し付ける人は実在しますが、
私は、そっちの方が、心がないな~と思うので、
ガン無視です。
主さんは、正直ですね。
私も、小瓶を読んでいて、それは、自分のための涙だろうと思って読みました。
昔、よしもとばななさんの小説を読んでいたら、
他人の死を悼むのではなく、他人の死を悲しんでいる自分をうっとりとした
気持ちで流す涙、悲しがり方こそ、
亡くなったご当人に対して、一番失礼なことだ、という内容がありました。
(もっと、簡潔な言い回しだった)
自己憐憫は、最悪だぜ、とそのとき、私はものすごく納得した記憶があり
以降は、そういう甘い涙が出かけると、
これは、どっち向けの涙かな?と自問自答するようになりました。
それは、今思えばですが、相手の人生と、自分の人生を
きちんと切り離した目線で見ることが出来るからこそ、
純粋に相手を悼む気持ち、悲しむこと(?)が出来るのではないか?と
思います。
身内の死を経験した時も、それがあったので、乗り切れた部分があるし、
自己憐憫というフィルターナシで、相手の人生に向き合おうとすることが
出来たのもほんとうです。
(向き合うつっても、もういないんだけどね)
当たり前のことを書きますが、自分が死んで、誰かに忘れ去られるのが
つらいとありますが、残ったその人も、必ず死にます。
そして、その人を知る人も、そのうち死にます。
そういう連鎖です。生き物だもの。
誰かに忘れ去られるのって、そんなに悲しいことなのでしょうか??
ごめんね、私は、そっちの気持ちの方が、あまりよくわからないんだなー
まいたん
ななしさん
祖父母が亡くなっても、多分、実感がわかないと思う。私自身、そうだった。父が死んでも、実感が湧かなかった。わかないというか、何が何だか分からず、ただ(精神病の中で)喪主を務めただけだった。火葬の前の2日間、親の死に顔を見て泣いたが、それが何の涙だったのかも、今でも自分には分からない。尤も、私自身は、死ぬほどの苦しみを十何年も味わっていたから感覚が鈍っていたと言えばそうかもしれないが。親が亡くなって、普通は、はじめて死というものを身近に感じるのだと思う(そうどこかに書いてあったし、自分でもそう思う)。死ぬほどの苦しみを最近また感じたが、自分はやはり生きていたいと思った。死というものがどれ程恐ろしいかということを、フランスの昔のモラリストは書いていたが、我が強い彼らにとってはそう感じるのかもしれない。或は、やり残したことがあるとか、この世というところで生きると言うことをしっかりと味わえなかったとか、そういう人は、死に直面して苦しむのかもしれない。ただ、死に直面すると言うのは余り快いものではないし、若いうちからそのようなことに直面するのは余りすすめない。あなたも、遅かれ早かれ親が死んで、その時に、死というものを改めて感じるのだと思う。そういうときに考えればいいと思う。時が来れば、そういう状況はやってくるから、余り自分が思いやりがないとかそういうことは考えない方がいいと思う。何でも順番というものがあって、いずれやってくるのだから、余り急がない方がいいと思う。死んだ人のことを思い出すならば、(あればだが)その人の位牌や墓に行って、(仏教ならば)成仏しますようにと願うのが、いいと思う。お願いをするのではなく、ただ冥福を祈るということ。その人がこの世に執着しないであの世でやっていけるように、ということではある。寝る前に毎日その人を思い出すのなら、その人は多分、あなたのもとに毎日きているのだと思う。そう思って、その人の冥福を祈るのが、何のために泣くのかということよりも、大事なことだと思う。その死んだ人は、今このように書いて自分を責めているあなたを心配して、あなたのもとに毎日きているのかもしれない。あなたが立ち直って、再び元気で自分を信じてやっていくのを、その人は願っているのだと思う。もし、その人が毎日自分のそばに来ているのなら、その人が亡くなったということを実感することはできないのではないだろうか。何故なら、そばにいるのだから。そうならば、あなたが泣く理由は多分見つからない。1か月だから、四十九日が来ておらず、(あくまでも仏教の教えるところによればだが)、まだ家にいて、この世から去ってあの世に行く前に、多分一番心配するであろうあなたのそばにいたいのだと思う。その人があの世に行けば、あなたから離れて、あなたがその人のことを思って泣くときが来るのだと思う。この世から離れてあの世に行く前に、あなたに別れを言っておきたいのだと思う。あなたが多分一番悲しむであろうから。
このように書いては見たが、私自身が何か見えると言う訳ではないし、何か分かると言う訳ではない。その辺は誤解のないように。ただ書きながらそんなことを思ったので、それをそのまま文章にして見た。筋が通っていない文で申し訳ないが。
この辺で書くのを止める。
ななしさん
自分が罪人でなければ可笑しいと思いたい心が作った幻影ですね。自分を罪人にしておけば多少の失敗は言い訳できますからね。貴方の反応は正常です。貴方自身言った通り誰からも覚えていて欲しいという思いからそんな風に考えるのです。よほど重要な人でもない限り無名の人は忘れられるものです。感情ではなく理性を活用して忘れるのを防ぐのが貴方にできる最高の供養なんじゃないでしょうか?
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