醒めた心とナマヌルイ瞳で眺めてる
今日も、薄く無責任な言を垂れ流す
誰かが言う
きっと苦しみには意味がある
乗り越えられない苦悩や苦痛は無い
と
俺は鼻で嗤う
乗り越える前に潰れちまうぜ?
耐性着いても限界は在るよ?
表面張力も、在るんだぜ?
苦労は買ってでもしろ
意味は解るし理解も出来るしその通り
苦痛は買わなくてよろし
あんなもん要らないだけだぜ
ただのゴミ
常日頃想うんだけどね
俺には持論が在る
苦しみには価値が在る
いや、違うな
違く無いかナ
テトリスの如く積み上がるブロック
苦痛に塗れてる環境、状況に身を置きそんな景色の中に居たらそんなことは想わない想えない。
火中の栗は拾う必要なんか在りはしない
拾い喰わなきゃいけないときも在る
俺ね想うのね
人には得手不得手向き不向きが在るのね
事実としてね
それに甘んじて胡座をかいててもダメなのかなとも想うのね
ロハじゃ何も得られない
ロハより高いモノはナシ
何かを得たいなら対価を払え
失敗や不可、負荷
悪いこと
在るんだけどね
位置を知らないとね
自分はどの位置か?
村の中だけの眺めじゃダメなのね
10を知らないと1が10に成る
三角錐も一つの角度から見ると全体を見るのじゃ違う
富士山も山梨側と静岡側だと形、風景違うからね
苦痛を知らないと幸せがなんなのかぼやけてしまう
悪いモノ悪いことを知って経験しないと良い物が価値が解らない
かと言って無理に負荷を掛けなくて善い。
贄や人柱に進んで成る必要?
そんなものは無いぜ?
心と躰を賭してまでする事か?
在るとしたら極少数の一握りダゼ?
気が付いたら抜き差しならぬ立ち位置に居ることも大様に在る
苦痛は要らないけどね
「苦痛を経て成長する」なんて綺麗事じゃない。
ただ、比較対象(10)を持っていないと、自分が「1の程度の浅瀬」で溺れているのか、「10の深海」に沈んでいるのかも判別できない。
それは、逃げるべきか、留まるべきかの判断すら狂わせる。
活きるための実測値か?、
村の中だけの眺めじゃダメなのね
この場合の村は所属なのか環境なのか自分の中か
救いなんて無い。
解決策も、ここには無い。
在るのは、積み上がるブロックに潰されかけた俺が、
泥の中から拾い上げた、血生臭い「尺度」だけだ。
10を知らないと、1が10に成る。
その勘違いで死ぬのなら、それも良かろう。
俺はただ、醒めた瞳で、自分の表面張力を測り続けるだけだ。
人には限度限界が在る
限界値は人によって違う
誰かには10、
誰かは20
誰かは2
折れて始めて気が付く限界値
限界値が高ければ高いほど折れたときの被害は大きい
ま、限界値を超えた時点で数値は関係ないけどな
「俺の限界がどこにあるかは俺にしか分からない。
でも、世界にはもっと巨大な10(地獄も、幸いも)が存在することを知っていなければ、
自分の『2』という限界を、情けないものだと卑下したり、
あるいは過大評価して、勝手に袋小路に迷い込んでしまう。」
焼き栗は旨いよな
ナンのことだ?
ナンだろうな?
でもな
知らなくても味わ無くても善いことは山程腐るほど在るんだよな
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください